ハザンはチクチクとした痛みを訴える腕を歯牙にもかけない。すでに戦いの期待が痛覚を遮断するように信号を脳に伝達することはなかった。

彼の脳内は戦いの結果、この娘をどうのように殺すかで一杯である。手段は問わない。しかし、ギリギリの死に際の顔だけは脳裏に焼き付けておきたかった。

過去、目の前の少女ほどの子供を手に掛けたことはあったが、ハザンは自傷行為にまで及ばない物足りなさを抱いていた。

それは彼が殺害に快楽を覚えているだけではなく、命を賭けた蹂躙の果てに相手の鼓動を止めることを悦としているからだ。そこには死への恐怖とそれを拒む抵抗が必ずある。生きてきた月日が最後を彩るのだ。戦いは前菜でしかない、いかに最後までの道筋を演出してくれるか。

締めくくりは完全に殺される直前に見せる本性である。そこにこそハザンの生き甲斐とも言える一瞬が凝縮されていた。

少女だろうと自分を満足させてくれるのならば何も問題はない。ありきたりな抵抗や絶望はもう見飽きていた。だからこそ、この歳で自分をやる気にさせてくるだけでも見どころはある。

どんな死に顔を晒すのか、戦いの果てにどんな怨念のような眼差しを向けてくれるのだろうか。子供を手に掛けた時は誰も彼も泣き喚くばかりで、命を刈り取るのが自分でなくてもいいようなくだらない連中ばかりだった。

故に彼女には期待を寄せていた。そしてどんな死に顔を見せてくれるのか、それは自分の身体に深く刻む傷であって欲しいと思ってしまう。

ハザンは両腕を勢い良く地面に突き刺した。

常に放出される魔力は瞬く間に魔法としての構成を完成させ、筋張った腕を引き抜くと、一帯の地面が引っくり返るように揺れた。

だが、そう単純にことは運ばなかった。それは阻まれたハザンを喜ばせるものである。

一瞬にして視界から掻き消えたロキは瞬時に地面に突き刺した両腕の間にいた。認識するより早く両腕の肘に二撃――、そして眼前にいてもなお見失いそうになるその白銀の姿と後に残された電撃の瞬き。

ハザンの顔が凄まじい勢いで上に跳ね上がる。腕の隙間から跳躍したロキは勢いに任せて膝で顎を放ったのだ。

丸太のような首が弾かれて天を見上げる。

更に考える時間すら与えず、ロキの姿はハザンの背後にあった。半身になった姿勢は腰を回しそのまま遠心力を纏った蹴りが首筋を打つ。

【フォース】を使ってもなお、岩のような首はびくともしなかった。それを即座にロキは理解して、距離を取る。

顎を打ったまではよかったが、背後に回った時にはすでに全身を薄い膜が覆っていたのだ。魔力ではない、魔法としての発現が人目でわかるほど強固な風の鎧。

一歩二歩、とよろめくとハザンは口から少量の血をプッと吐き出し、続いて項を撫でる。

「口の中を切っっちまった」

「――ッ!!」

今、ロキの身体能力は常人を遥かに上回る。だというのに目の前の男は口の中を切っただけだと涼しい顔で告げた。

ロキは内心で「化物」と揶揄する。

「ガキ、すぐには壊れるなよ……【暴波の装甲(ガルガロム)】」

まるで鎧を着込んだように四肢に沿って半透明の装甲が浮かび上がる。ガントレットのように腕の側面に浮く濃密な魔力が込められた装甲。

それは両手両足、胸部、頭部と僅かな間隔を残して纏われる。

この状態では接近戦はかなり困難になったと言わざるをえない。そして未だにロキの右足はじんじんと痺れを訴えている。【フォース】の副作用にしては早い――これは首に放った蹴りが原因であった。一端【フォース】を解く。

気を緩めるつもりはなかったが、常時発動させておくにはあまりにもリスクが大きかった。

直後、地面を蹴る音が警鐘として鼓膜を叩く。

魔力ソナーのおかげで反応に遅れはない――ないはずだったのだ。しかし、ハザンは巨体を物ともせず瞬時にロキへと切迫していた。

影が覆う下で自分の頭上から円弧を描いて振り下ろされる拳をロキが認識した時には回避は到底間に合わない。目の前の岩のような質量を感じさせる拳はすでに空の景色を塗り潰してしまうほど至近距離にあったのだから。

即座に再発動した【フォース】が電光石火の如く一瞬を置き去りにし、拳の軌道から逃れる。

回避と同時に攻撃に転化。だが、その判断は攻撃に移る直前で撤回された、させられた。

振り切られた拳が地面に触れると同時に突風が拳の中心から爆発的に発せられた。【月華】を引き抜いたはいいが、ロキの華奢な身体はその暴風に制御を失い。【フォース】が無力化されたことを理解した。

――しまっ!! 足が地面から!!

当然、身体能力が飛躍的に向上しただけで、決して宙を移動できる類の魔法ではない。この長い一瞬で反応できたのは長年染み付き、最強の魔法師であるアルスと手合せを繰り返したおかげといえた。

醜悪な笑みを浮かべたハザンは地面に振り下ろした拳を開き、地面に指を埋める。それは大地を握るという力任せな荒業。全体重を片手で支えるようにして下半身が浮き上がり、空中で自由になった足がロキの側面に薙ぎ払われる。

足を覆う装甲は半透明でありながらその厚みを伺わせ、脛当てとしての強度を思わせる。

ナイフを逆手に持ち、峰を腕に沿わせ衝撃に備える。がそれでは彼女の身体など容易く暴力に晒されるだろう。

だが、複雑な魔法式を瞬時に辿り、刀身に走る電撃が増幅する。目の前に生み出される雷光は電撃で編まれたような網目状の球体。

ひどく弱々しいその雷光は蹴りの進路上に出現し、瞬く間に粉砕された。

刹那――雷光は二人の至近距離で破裂し、容赦ない電撃を撒き散らす。

が、瞬時に構築した魔法はやはり蹴りを直撃しないための苦肉の策にしかならなかった。

身構えるロキを襲ったのは自身の魔法による衝撃だけではなく、ハザンが纏った【暴波の装甲(ガルガロム)】による至近距離の爆風によるものが大半である。

その絡繰りは装甲に触れた衝撃の度合いによって装甲内に圧縮された空気が容赦なくぶつけられるというものだった。

目も開けられず、呼吸すらままならない。当然ロキのような小柄な人間は逆らうことができず、風の壁に叩きつけられる。

それでもいくらか緩和できたのだろう。意識を手放さずに済んだロキは一直線に吹き飛ぶ中で無理やり地面を蹴り、なんとか転倒を回避する。

しかし、顔の前で十字に構えられた腕は服ごと切り裂かれ、全身も動揺にナイフを走らせたような細い裂け目が至る所にできていた。

幸いにも血が流れ出るものの、深いものは一つもない。脇腹からお腹に掛けて服が裂けているが、そこから覗く白い肌には似つかわしくない紅い液体が浮き上がっている程度だ。

【暴波の装甲(ガルガロム)】は防御というよりも攻撃補助のための魔法であったのだ。装甲に受けた衝撃によって外に向かって暴風が吐き出される。それもただ単に吐き出されるのではなく、入り乱れた風の渦が刃となって相手を襲う。

最初の一撃でも地面に細かい線が乱雑に刻まれている。

防御をゆっくりと解くロキの表情は全身に走る染みるような痛みに表情が強張っていた。

追撃がないと思えばハザンは小手調べの如く余裕の笑みを向けていた。足の装甲は爆風とともに消失していたが、微かに見える風の流れが足に集まり、装甲を再構築しようと試みているのが伺える。

――ッツ……。

あの巨体でスピードに自信のあるロキを上回る瞬発力。【フォース】を即座に使わなければ回避はできなかっただろう。

ましてやあの【暴波の装甲(ガルガロム)】を攻略する時間も方策もない。いや、この時点では一度使用すればすぐには同じ場所の修復には時間が掛かることだけが唯一の打開策なのかもしれなかった。だが、見る限り、それも一分あるかという僅かな間。

状況の打開に苦心しているロキにハザンはゆっくりと歩き始める。すると何かを思いついたように嗜虐的な笑みを浮かべて唐突にこう告げた。

「お前、親は死んでるだろ?」

「――!!」