Sanzen no Souru Supina
■ Fifty-sixth Night: For Unreturning Days (2)
その言葉──“再誕の聖母”──を、当然だがソフィアは知らなかった。
だが、言葉の持つ《ちから》から限りない聖浄さとともに、誤魔化しようのない不安・不穏さを感じてしまった。
ドッ、ドッ、ドッ、と疾駆を始める鼓動を止められない。
ソフィアの沈黙の意味を理解したのであろう。
レダマリアは話を続けた。
「不遜にも聖母:マドラの再来を謳う“舌がかり”の存在を特定するため、我々は調査を進めておりました」
「“舌がかり”」
ソフィアが思わず反復した、その単語。
“舌がかり”とは、この時代にあって、預言者や聖人を詐称する不遜の輩を意味していた。
その多くは詐欺師か、物狂い、あるいは狂信的思想に染まった一部の聖職者であり、民衆の心を惑わせる流言飛語の類いとして、法王庁はこれを厳しく禁じ、また罰してきた。
世界の終末や、死後の世界、地獄と天国。
そういった概念を私欲、あるいは狂信から用い、民衆を扇動し、国家基盤を危うくする存在として“舌がかり”は認識されていたのであり。
法王からの召喚・質問・説教や、それにさえ応じぬ場合には異端審問官を派遣するのが、法王庁によるこれまでの対応であったのだ。
そして、それは場合によっては一国、いや周辺諸国を巻き込む大事件に発展する。
しかし、これまで一〇〇〇年を優に超える歴史のなかで、法王庁はそのすべてを鎮圧し、秩序を守り抜いてきた。
異端審問官、ときには聖騎士(パラディン)さえ投入して。
それほどにこの時代、法王庁が備えていた情報収集能力と対処能力、すなわち権力は強大であった。
思想統制、とそれはもしかしたら呼ばれるものかもしれない。
だがそれも、人類圏を脅かす絶対敵たる存在──魔の十一氏族を始めとする脅威のことを考えれば当然ではあっただろう。
統一王朝:アガンティリスの昔から人類圏として発展、守り抜かれてきたファルーシュ海沿岸地域はともかくとして、一歩街道や回廊を外れれば、いまだ魔性の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するこのゾディアック大陸になって、その精神的支柱としてだけでなく、人類圏の守護者として、信念と誇りを持って戦い続けてきたエクストラム法王庁の歴史は、そのまま、イクス教圏の歴史でもあった。
人々の命と繁栄を守り抜くためにも、獅子身中の虫に対しては断固たる対処もやむをえない。
ヒトとヒトが争いあっている場合ではない、というソフィアの言葉は、イクス教の基本理念でもあったのである。
人類の精神的な、それも強力な共通基盤──その役割をイクス教は担おうとしてきたのだ。
きっと、アラムの教えもそうであろう。
ただひとつ、多様な宗教観を政治的なそれとしては容認するアラムの相違点は、あくまで「絶対的な唯一信教」としての方針を、イクス教が持っていたことである。
もちろんそれは時代と、擁立された指導者=法王による見解・判断の差はあれど、ということだ。
だから、レダマリアの発した“舌がかり”という言葉は、イクス教圏の精神的共通基盤を攻撃するテロルが進行中である、ということをも告げていたのである。
「まことですか」
「現時点において、事実と判断せざるをえません」
ソフィアの問いかけに、レダは即答した。
「我々法王庁は、昨年の暮れからこの問題について、内偵を進めておりました」
「内偵」
「まことに残念ながら、これはイクス教圏、高位聖職者による、それもかなりの信仰者を擁する派閥内で進行中である大事件です」
ソフィアは沈黙を保ち、続きを促す。
レダマリアは、ひとことひとこと噛みようにして言った。
容疑者の名は、と。
「容疑者の名はアルマステラ・ヴァントラー。共犯者はグレーテル派・カテル島大司教:ダシュカマリエ・ヤジャス」
ガツン、とソフィアは頭を鈍器で殴打されたかのような衝撃を受けた。
まず、ダシュカマリエ大司教である。
イクス教内にあって、聖職者の結婚を法王庁に認めさせた派閥であり、最近とみにその勢力を拡大してきた一派である。
特に急逝した前法王:マジェスト六世との関係は良好で、限定的・条件付きではあるが、すべての聖職者に婚姻を許す教義の改正構想が、グレーテル派との会談のなかで話題にのぼったという話すらある。
グレーテル派に属する聖職者たちの総数は、全イクス教での十分の一にものぼると言われており、彼らが治める教区内にあって影響を受けている信徒の数は、推して知るべし、というところだ。
また、ダシュカマリエ本人は、エクストラム法王庁から正式に“預言者”として認められた存在である。
代々カテル島大司教座に受け継がれてきた神器によって、未来を正確に見通す《ちから》を得たのだという彼女の発言権は、枢機卿団にも匹敵する。
実際に幾度か大地震や、それにともなう大津波、また、活性化した魔の十一氏族の攻勢を事前察知し、法王庁を助けてきた実績が、その地位を確固たるものとしていた。
これはダシュカマリエ自身が強力な《スピンドル能力者》であるという証左でもある。
その彼女が、共犯者と名指しされるだけでも、事件の不穏さが伝わった。
だが、女傑:ソフィアをして真に驚愕させたのは、もうひとり、容疑者:アルマステラの存在だった。
その名を知ったのは息子のアシュレからではなく、従者を務めていたユーニスから、である。
「最近、聖遺物管理課の尼僧で、アルマとかいう女性の名前が……よく会話に出てくるのです」
アシュレが成人してからは、その身辺の多くをユーニスに任せていたソフィアである。
もちろんそれはユーニスたっての願いであり、ソフィア自身もまたバラージェ家当主としての自立を促すにも、それが適切である、と判断した末のことであった。
休日午前中の母と従者のお茶の時間は、お目付け役でもあったユーニスの報告会でもあったのだ。
ただし、ソフィアとふたりきりのときのユーニスは、お目付け役というより、恋する乙女、というのが正しいくらいではあったのだが。
つまり、ソフィアはユーニスにとって容赦なくアシュレへの惚気を吐露してよい相手であったのだ。
おもわず、聞いているソフィアのほうが頬を赤らめてしまうようなことを、ときおり無意識でユーニスはこぼすのだ。
もっとも、そうして言質を取るまでもなく表情の変化を見れば、語るに落ちたとはまさにこのことだと思うソフィアなのである。
報告めいて始められるユーニスの言葉が、徐々にアシュレへの想いに変わり、それにつれて忠実な従者の顔から、恋に落ちた乙女のそれへと変化していく様は、なかなかの見物でもあった。
だが、そんな彼女が、深刻そうにため息をついて報告すると思えば、これは別の女、それも尼僧の話だった。
「どうしたのですか深刻そうに」
「だって、その、わたしとの会話のなかに、そのヒトの名前が、なんども、ですね」
勝ち気で男勝り、と表では通っているユーニスがこんな表情を見せるなど、おそらく知るものは身内以外にはありえないだろう。
気づかわしげに指をふれあわせ、うつむきぎみに話す瞳には、涙まで溜まっているではないか。
「どういうお話からそうなったの?」
「聖遺物管理課の……同僚だと、うかがってます」
「アシュレも配属直後ですから、同僚のお名前が挙がるのは珍しいことではないのでは?」
「内勤の聖遺物の管理や、歴史的遺物の調査・管理・修復を行う部門のヒトらしいんですけど……歴史や、考古学にも通じてらして……ですね?」
いつものハキハキとした喋りかたはどこへやら。
恋人の心変わりに怯えるように話すユーニスの両目からは、ぼろりぼろり、とついには大粒の涙までこぼれる始末。
ソフィアはハンカチーフでそれを拭ってやりながら、言い聞かせたものだ。
「それはちょっと、くやしい思いをしましたね。歴史も考古学も読書も、アシュレの大好物だったから。時代と慣習が許さぬとはいえ、アレも、ほんとうは学者になりたかったんでしょうに。そういえば、レダマリアも読書が好きなコでしたね。でも、ふたりとも聖職者なのですし、還俗でもしないかぎりは……ありえないでしょう?」
「ソ、ソフィアさまぁ、それって、ぜんぜんフォローになってないです!」
弾かれるように反応したユーニスに、あっはっはっ、と声をあげてソフィアは笑った。
「あなたはどちらかといえばカラダを使うほうに関心がありましたものね。槍術に、馬術、弓に体術。お裁縫よりはお料理、芸事より家事」
「そ、それはもう、アシュレ様にお仕えするのがわたしの、の、望みでしたから!」
「たしかに。あのコの気質だと武芸より家事、家事よりも学術を優先させてしまいそうでしたからね。幼少期、病弱だったために女のコとして育てていた過去が影響したのかも、ですけれど。その部分をあなたにお任せすることで、武門の出として、聖騎士(パラディン)としての務めに専念してもらおうという考えだったのですが……聖遺物管理課の尼僧ですか。それはなんというか、盲点でしたね」
どこか面白がって言うソフィアは、なるほどアシュレの父、グレスナウの妻だけのことはあったのかもしれない。
「趣味が合う、というのは強力ですよ」
「そ、そんなー」
ユーニスの様子に、ソフィアはまた声をあげて笑った。
「いまから! いまからでも、わたし、勉強します!」
「ユーニス、ウマが旅に出ても、獅子にはなれないように、ヒトにはヒトの、生まれ持った気質と得意分野というものがあるのですよ」
「だって、だって……このままじゃ、わたし、いらないコになっちゃう」
「あっはっはっ。それはいくらなんでも心配しすぎ。わたしも子供のころはすごいお転婆だったからわかるけれど、その心配。そんなことで、バラージェ家に嫁げるか、離縁されたらどうする、なんて面と向かってなんど叱られたか」
「お父様に、ですか?」
「いーえ、親戚一同から。だから、言ってやったんです。そんな度量のちいさい男なら、こっちから願い下げです、って」
「どうなりました、そのあと?」
「それはもうひどいお仕置きをうけましたよ。屋根裏部屋に閉じこめられて」
「それで?」
「こっそり抜け出して、逆に見に行ってやったんです。そのグレスナウを。乙女の純心と純潔をくれてやるんだから、って」
「す、すごい」
予期せぬところから出てきたソフィアの恋バナに、ユーニスはがっつり食いついてきた。
もしかすると、自らの恋で心が折れそうなとき、それを制するためのイチバンの特効薬とは、別のだれかの恋の話なのかもしれない。
だとすると、女性が恋の話を求めるのはそれが大きな理由なのかも、だ。
とにかく、ソフィアの話は続いた。
「ところが、家の者に見つからないように街道を使わずに向かったものだから、無頼の輩に捕らわれそうになって」
「え? えええ?」
「遠乗りでたまさか通りがかった男性に助けられて事無きを得たのですが……じつはそれは実家から連絡を受けてわたしを捜しに来てくださったグレスナウさま──あらいけない──あのヒトだったの」
「わあああ、いいなあいいなあ、ロマンチックだなあああ。それでそれで」
「そのまま鞍上に抱かれて。家の者も、追いついてきて」
「どんな、どんな印象でした、そのときはグレスナウ様は」
「決まっているでしょう。一目惚れですよ。ああ、この方のものにわたしはなるんだ、って決めました」
「わあああああ♡」
「家までお送りする、というグレスナウ様に、ウチの両親はそれでは申しわけが立たないからここで引き取らせてくれ、と申し出たんです。躾けるから、って。だから、」
「だから?」
「わたしはこう言ってやったんです。わたしはお仕置きされるなら、わたしを助けてくださったグレスナウ様にしていただきたいです。わたしの聖騎士(パラディン)様に躾けられたいです、って」
「だ、大胆! 大胆すぎる! それでどうなったんですか?」
「たったひとこと。では、そのように、とあのヒトは言いました。それで、口論は終わり。聖騎士(パラディン)様の決定に異論を差し挟むようなことは、たとえ上級貴族でもできはしないもの」
「で、ですよね。そのあとは……」
「もちろん、躾けられましたよ。徹底的に?」
「具体的には?」
「それは……ここでは言えないかしら」
くすり、と意味深に微笑むソフィアに、ユーニスははうう、とため息するしかない。
「まあ、実際に、アシュレが同僚の尼僧に手を出すようなことは決してないでしょう。あの子は、まだ二十歳にもならないのに、貴族の重責を双肩に担うことに関して、自分に責務を課しすぎている向きさえあります。でも、それでも、アナタが不安に思って、どうしても安心を得れないなら」
「得れないなら」
「もっと積極的にアシュレを独占なさい」
「あ、あの、あのあの、わたし……そんなことをして、よいのですか?」
「よいか、わるいか、ではありません。でも、ユーニス、アシュレはいつの日か必ず、正妻を娶らねばなりません。それは貴族の掟であり、務めです。そのとき、アナタとアシュレがどういう関係でいられるかわからない。でも、わからないからこそ、いまを思うように生きなさい。たとえ世界のすべてが敵だったとしても、わたしは、わたしの息子をほんとうに愛してくれているアナタの、心の味方です」
微笑んで、ソフィアはユーニスに告げた。
このときまだ、ユーニスはアシュレには許嫁がいることを知らなかった。
いや、ことアシュレのことに関しては特に勘の鋭い娘であったから、薄々は感じ取ってはいただろうが。
同じく天才と謳われた聖騎士(パラディン):ジゼルテレジア・オーヴェルニュが、やがて正妻として迎え入れられることを、ソフィアがユーニスに打ち明けたのは、アシュレが強奪されたふたつの聖遺物を奪還するため、廃王国:イグナーシュへ旅立つ前日のことだ。
そして、ソフィアが再びアルマステラの名を聞くのは、アシュレが聖務に赴いたのち、法王庁で起きた一連の事件、その関係者としてだった。