「ぎゃああああああああああ!!」

「うわぁぁぁぁぁ!!」

「助けてくれぇぇぇぇ!!」

 周囲で絶叫と血煙が舞う中を大勢の人間が逃げ惑っていた。つい先程まで整然と布陣を整えていた軍が今は見る影もなく統制を失っている。

 統制のない軍などただの獲物でしかない。いかに個人の武勇が優れていたとしてもこの周囲の混乱の状況では力を発揮する事など出来ないのだ。

「何なんだよ!! これは!!」

 一人の騎士が大声で叫ぶ。突如現れた巨大な騎士が大剣を持って現れたかと思うと暴虐の刃で自分達を蹂躙し始めたのだ。戦いなどではない一方的な虐殺であり、多くの戦友達も怪物に容赦なく殺されていった。

「どけ!!」

「俺が先だ!!」

「邪魔すんな!!」

 周囲の怒号は戦うためのものではなく逃走の声である。最初は戦おうとしていた各員もすぐに自分達の見通しの甘さを思い知らされてしまった。

 騎士の大剣は盾で受けても盾ごと叩きつぶされ、そのまま体ごと両断されるのだ。そのような規格外の怪物と戦うなどできるわけもなく。心が折れた者から逃げ出したのである。

 完全に統制をなくした軍はバラバラになって逃げるが、二十万もの人間が逃げ惑う時の混乱は凄まじすぎるものがある。

(こんなところで死んでたまるか!! 俺は帰るんだ!!)

 騎士は家で待つ愛しい新妻の顔を思い浮かべる。彼は二ヶ月前のザルブベイル領征伐に参加しており、功績を立てた事でやっと結婚を許してもらったのだ。

 功績といっても勇将を討ち取ったのでも、強大な梟勇を有する者を討ち取ったのではない。ただ、逃げ惑う者達を容赦なく後ろから斬ったのがほとんどである。だがそれでも多くの敵領の者達を殺した事で功績を評価されたのだ。

 自国民を虐殺することが功績になるというのはもはやあり得ない出来事であるが、ザルブベイル領は他領に比べて桁違いの裕福さであったために他領の者達の妬みがあったのだ。

 実際の所、ザルブベイル領が豊かなのはザルブベイル侯爵家が適正な統治を行い、それに領民が努力を重ねた結果であったのだが、その辺りの事は他領の者には伝わらない。『上手くやりやがって』という逆恨みに似た感情が他領の軍にはあったのだ。

「殺せ!!」

「情けをかけるな!!」

「俺達の怨みを思い知れ!!」

 そこに逃走の声ではなく殺戮を煽る声が騎士の耳に入った。騎士がそちらに目をやれば憎悪に満ちた目で逃げ惑う者達を殺している兵士達がいた。

 兵士達はまったく無駄のない動きで逃げ惑う者達を血祭りに上げている。

(な……なんだあいつらは? あんな強者が存在するのか……)

 騎士は兵士達の技量に舌を巻いていた。斬撃が速すぎて騎士の目ではその動きを見切ることは不可能であったのだ。自分が戦場で見た者で一位、二位を争うほどの腕前である。それはあの死者の騎士達とも十分に戦う事が出来る程の腕前であると騎士は判断した。

(あんな奴等と戦えば確実に殺される)

 騎士はそう判断すると兵士達に紛れながら戦場を駆け抜ける事にした。それが一番生存率が高いと考えた故の行動であった。

 それは上手くいき騎士は何とか戦場を落ち延びることが出来たのであった。

 だが戦場を落ち延びた者達が心安らかに過ごすことは決して無かったのであった。

 *  *  *

 騎士は戦場を落ち延びて十日後にようやく自分の家族の住む都市へ辿り着いた。逃げる途中で多くの者達は死者の騎士達の刃にかかり、故郷に帰ることが出来なかったのである。

 地獄という表現すら生ぬるい過酷な退却を騎士は何とかくぐり抜けることに成功したのであった。退却中に死者の騎士達に殺された者達は優に五万を超えるであろう。生き残った者達も無傷の者など皆無である。

 騎士も逃げ惑いながら絶叫を聞き、『待ってくれ!!』『置いていかないでくれ!!』という声に耳を塞いでひたすら逃げたのである。

「良かった……」

 騎士は都市の明かりを見た時にポツリと安堵の言葉を吐き出した。心のどこかにすでに自分の故郷もあの騎士達に蹂躙されているのではないかという思いがあったのだ。

 騎士は最後の力を振り絞り都市へと急ぐ。しかし、途中の道で騎士はある事に気づく。そのある事とは都市の守りのかなめである門がかなり傷んでいるのだ。

「まさか……そんなはず……」

 必死に自分の中から湧き出てくる不安を打ち消しながら自然と騎士の足は速くなっていく。

(シェリー……無事でいてくれ!!)

 騎士は心の中で愛しい妻の名を呼びながら走る。門には数人の兵士が門を警備していた。

「頼む入れてくれ!!」

 騎士はその兵士達に懇願する。兵士達は一瞬驚いたような表情を浮かべるが騎士の顔を知っているのだろうすぐに警戒を解いた。

「ハーグゴル様、その格好は一体……?」

 兵士の戸惑う声が騎士にとってはこの上なく嬉しかった。事情を知らないという事はここにあの騎士達が現れていないことを意味しているからだ。あの騎士達が現れたのであればこの都市は滅亡していてもおかしくないが、事情を知らないと言う事は無事であるように騎士には思われたのである。

「戦は大敗だ。みながどうなったか正直わからん。だがすぐにでも対応を協議せねばならない。伝えねばならない事があるから通してくれ!!」

 騎士の鬼気迫る様子に兵士達は視線を交わした。決められた通行時間というものがあり現在はその時間を過ぎていたために戸惑っているように見えた。

「規則を破る事になるため戸惑う気持ちは分かる。だが事は一刻を争うと思ってくれ!!」

「……わかりました。おい」

 兵士が別の兵士に言うと頷いた兵士が門を開けた。

「感謝する!!」

 門の開いた瞬間に騎士は都市に駆け込んでいく。それを見送りながら兵士達はポツリと呟いた。

「申し訳ありません……逆らえないのです」

 兵士達の体から黒い靄が立ち上った。