狼らしき獣は一定の距離を保ったまま近づいてこない。

(警戒されている?)

なら……逃げることが可能かもしれない。

確か野生の生物は火を怖がるはずだが……そんなもの持ってるわけがない。

あとは、目を逸らさず怖がらず後ろに下がって逃げる。

そんな感じの話をテレビで聞いたことがある。

比呂はそれを実践することにした。

目を合わせたまま、一歩下がると、狼も一歩前に進んだ。

二歩下がれば、二歩進み、三歩下がれば、三歩進んだ。

ああ……これは意味がないのではないだろうか。

出口なんて知らないから、どこまで後ろ歩きすればいいのやら。

(そもそも、この狼、ずっと追いかけてくるんじゃないのか?)

困惑している比呂の前で、狼が地面に腰をおろした。

大口を開けて欠伸を一つ。後ろ脚で首をかいて退屈そうだ。

比呂に目を向けたまま、狼は猫のように身体を伸ばすと、その場に伏せた。

警戒は怠らない、動いたら噛みつくぞ。

黄金の瞳がそう語っていた。

どれほどの時間が経っただろう。

ジッとしていた狼が突然、尖った耳をピコピコさせたかと思うと動き始めた。

ほぼ同時に、草陰がガサガサと音を立てる。

そこから出てきたのは美しい少女だった。

「ん? あなた……誰?」

濡れた髪の毛を布で拭いながら、少女は狼に近づいて立ち止まった。

視線は比呂に向けたまま、狼の頭に手を乗せると撫で始めた

一連の動作を眺めていた比呂に向かって彼女は首を傾げる。

「ねえ……聞いてるんだけど?」

「えっ、あっ、ああ、僕かな!?」

「あなた以外に誰がいるの……?」

見惚れてたなんて言えるはずがない。

絹糸のような艶を持つ炎を連想させる紅髪。

ルビーよりも美しく、爛々と燃え盛る紅玉の瞳は、強い意志を感じさせる。

陶器のような白い肌の下には静脈が青く透いていた。

整った顔立ちは幼いけれども、きっと将来は男泣かせになるに違いない。

胸は残念だと言わざる得ないけれど、だからといって彼女の魅力が半減するものではない。

比呂よりも年下のようだから、これから成長することだろう。

照れを隠すために頭をかきながら比呂は言った。

「あはは……奥黒(おうぐろ)比呂(ひろ)です」

「オウグロヒロ?」

「ああ……呼びにくいなら、比呂でいいよ」

「わかったわ。なら、ヒロって呼ぶけど……ここでなにしてるの?」

「出口を探してたんだけど…………」

「ふうん……」

彼女の視線が比呂の身体にまとわりつく。

「まあ、いいわ。怪しい人じゃないみたいだから……出口探してるんでしょ?」

こっちよ、と言って少女は歩き始めた。

比呂はその背中を追いかけていく。

少女を守るように、狼が尻尾をふりながら比呂の前を歩いている。

10メートルほど歩いた時だろうか、森の先に大きな光の一群を見つけた。

あれほど歩き回っても見つけられなかった出口が、簡単に見つかって比呂は狐につままれたような気分になる。

光の中を通り過ぎ、眼前に広がった光景を見て、比呂は息をのんだ。

雲一つとない青空に、心地よい風が頬をかすめて、地面に生える草の穂を揺らしている。

どこまでも続く草原に圧倒されてしまうが、視界の端にいる彼らの存在に気づいた。

横一列に広がる軍馬にのった集団。

重そうな鎧、手入れが行き届いた槍、その腰には剣が差してあった。

そして、比呂に向ける視線は好意的とは言えないものだ。

集団から一頭の馬が進み出た。

馬に跨がっているのは、髪を短く切り揃えた逞しい身体をした男。

頬には大きな傷があり、獣のような鋭い目で比呂を一瞥してから、男は口を開いた。

「お嬢……また水浴びか?」

「訓練したあとだったから暑かったのよね」

「護衛ぐらいつけろ」

「あら、護衛ならいたわよ。ねっ、サーベラス」

『わんっ』

少女がサーベラスの頭を撫でると、同意するように吠えた。

男が呆れたように嘆息した。

そんな二人と一匹を、ずっと眺めてるわけにもいかない。

比呂は手をあげると恐る恐る聞いてみた。

「あの~……僕はもう行ってもいいですか?」

にへら、と愛想笑いを浮かべたが、男の額に血管が浮いたから失敗したのだろう。

「誰だ、小僧」

「ヒロよ」

少女が近づいてきて、比呂の肩に手を置く。

「さっきそこで知り合ったの。もう友達みたいなものかしら? ねっ!」

確認するように、比呂の顔を覗き込む。

顔が一瞬で紅く染まった。

こんな近距離で女性と話したことがないのもあるが、それが美少女となれば尚更だった。

比呂は動揺を隠すように早口で言う。

「た、たぶん友達のようなものかな。どうやったら友達と言えるかわからないけど……」

『わんっ』

サーベラスが吠えてくれた。同意してくれたのかもしれない。

当然のことだが、頬傷の男は胡散臭そうに比呂を見る。

「友達……? 見慣れない服装だな。それに――」

不機嫌を隠そうともしない顔が、上から見下ろしてくることで、比呂の腰は完全にひけていた。

確かに、学校の制服を着ている者なんて、この場には比呂一人しかいない。

そもそも、比呂からしたら鎧を身につけて、腰に剣を差している連中が見慣れてない。

「その顔立ち、髪色は帝国民ではないな……どこの国の者だ?」

言われて比呂は気づく。誰もが日本人離れした顔つきだと。

金髪、茶髪ばかりで比呂のような黒髪なんていない。

彫りも深く、鼻が高く、肩幅が広く、身体を比べれば二回り違う。

隣にいた少女が、比呂の肩を軽く叩いた。

そちらに顔を向けると、麗しい美貌が鼻先まで近づいてくる。

「優しい顔立ちだし、目元だってパッチリして、サーベラスのちっちゃい頃みたい。あたしは好きよ?」

「え、ああ……ど、どうもです」

なにを言いだすのか……心が激しく乱される。

「余計に怪しいな。ここがどこだかわかっているか?」

「ディオス。こんな子供相手に、そんな威圧的にならないで。怯えてるじゃない!」

「……しかしな、お嬢。例え子供だとしても、怪しい者に違いはないだろう」

比呂にとって聞き捨てならない言葉が聞こえた。

ディオスと呼ばれた男が、自分のことを子供と呼ぶのは構わない。

けれども、少女が……明らかに自分より年下な彼女が子供だと言うのはおかしい。

「なんで? 可愛いのに……」

「可愛いとかじゃなくてだな……」

口元をひくつかせるディオスの言葉を遮って比呂は挙手する。

「あ、あの~……」

「どうしたの?」

少女は慈愛に満ちた態度で比呂に接していた。

それが子供に対するものだと知ったら残念極まりない。

「これでも僕は16なんですけど……今年で17」

「……嘘でしょ? あたしより年上なの?」

なんで詐欺にあったみたいな顔をされなければいけないのか、馬上のディオスも同じく口を半開きにしていた。

「本当は10歳ぐらいじゃないの?」

いくら日本人が見た目より若く見られるからって、それはないだろう。

身長だって……165、高校2年生にしたら低いほうだが。

ちなみに、少女と変わらないほどだった。

「もしかして精霊の類か?」 

ディオスが真剣なまなざしを比呂に向けてくる。

「ああ、なるほど! だから森の中にいたのね。でも、精霊が道に迷うかしら……」

納得したかと思うと、すぐさま首を傾げて「う~ん」と唸り出す。

表情がコロコロ変わる少女だ。

「……とりあえず、そいつは連れて行く」

「えっ? ダメよ。親が探してるかもしれないわ。ちゃんと家に帰してあげないと」

「お嬢……そいつは16なんだろう? 子供ならば許したかもしれないが、立派な成人じゃないか。皇族の私有地に無断で侵入したんだ。一応は取り調べをしておかなくては」

「えっ、なにも心配ないと思うわよ? 帰してあげましょうよ」

「敵の間者かもしれない」

「それはないと思うけど……」

「ダメだ」

「なら、あたしの馬車に乗せるから。それでいいわね?」

少しの間があってディオスは眉間の皺をほぐしながら言った。

「……ふぅ、いいだろう。では、砦に帰還する」

馬を反転させたディオスが去って行く。

入れ替わるように豪華な馬車が比呂の目の前にやってきた。

「どうぞ、乗って。中は広いから窮屈に感じることはないわ」

比呂より先にサーベラスが乗り込む。

続いて乗り込むと6人は座れるほどの広さがあった。

床に寝そべったサーベラスを避けてから備え付けのシートに座る。

後から乗り込んできた少女は対面に座った。

「色々と驚かせてごめんね」

「いや、それは夢だから仕方ないよ」

この期に及んでも比呂は、これが現実だと認めたくはなかった。

少女が首を傾げる。

「……夢?」

「うん。じゃないと説明できないことが沢山あるからね」

「なにが説明できないの?」

「僕はさっきまで学校にいたんだ。でも、気づいたらここにいた。夢だと突然、場面が切り替わったり、見たことがない人が現れたりするだろ?」

「……そうね。でも、あなたはそこにいるじゃない。現実だと思うわよ」

突如、少女は腰を浮かせて比呂に近づいていく。

比呂の頬に暖かい手が添えられ、柔らかいと感じた時、激痛が襲った。

「いでゆううううううううう!?」

思いっきり比呂の頬を抓ったのだ。

少しして手が離れていき、彼女は元の位置に座り直した。

比呂の悲鳴にサーデラスが驚いたのか目を丸くしていた。

「ねっ。夢じゃないでしょ」

「だからって、いきなり抓ることないじゃないか」 

ズキズキと痛む頬を撫でていると、馬車に備え付けられた窓が叩かれる。

「なにかあったか?」

怪訝な顔で覗き込んでいるのはディオスだった。

「なんでもないわ。ヒロがこれは夢だって言うから、頬を抓っただけよ」

「ふんっ、現実逃避か……やはり間者かもしれんな」

そう言い捨てるとディウスは窓から離れていった。

見届けてから比呂は痛む頬をおさえながら嘆息する。

「はあ……」