ガル・ガニスは逃げていた。

あの死地から一度の転移で、ロドネアの外に出た。

そこから何度も転移を繰り返し、城壁が霞むほどの場所にまで至った。

魔力が尽きてからは、ただ全力で走った。

まださしたる距離を進んでいないにもかかわらず、息が切れ、足がもつれる。だが、止まれない。

「クソッ……チクショウ……ッ!」

立ち止まることを、恐怖が阻(はば)んでいた。

あの場で自分が、あの少年に立ち向かおうとしていたなど、今となっては信じられない。

ゾルムネムは生きていないだろう。

転移の寸前に見た、灼熱の赤い波濤が脳裏から離れない。

仲間は全員死んでしまった。

あれほど強かった皆が、あの少年一人に何もできなかった。

なぜこんなことになってしまったのか。

あんな存在を、誰が予測できたというのか。

「アイツが、ハァ、魔王だと……ッ? そんな……そんなバカなことが……ッ!」

ゾルムネムが、なぜその事実にたどり着いたのかはわからない。

だが今となっては、このことを知るのは自分ただ一人だ。

悪魔族の王に……いや、あらゆる種族に、この危機を知らせる必要がある。

これが、今の自分に残された使命だ。ゾルムネムの遺志を、なんとしても果たさなければならない。

その時ふと、ガル・ガニスは前方に注意を向けた。

はるか先の街道に、ロドネア方向へ向かう馬車が見える。

行商人だろうか。荷馬車ではあるが、護衛の類は連れていない。

ゆっくりと気持ちが落ち着いていくのを、ガル・ガニスは感じた。

魔族領まではまだまだ遠い。この先、何度も補給をする必要がある。もはや一人である以上、たった一度の機会すらも逃せない。

加えて、今日はもうすぐ日が暮れる。ロドネアからもかなり離れることができた。さすがの魔王でも、今の自分の位置を特定し、この距離を追いすがることはできないだろう。

ひとまずあの馬車を襲って食糧を調達し、夜営の場所を探す。

今はそれが最善だ。

馬車へと駆けながら、ガル・ガニスは魔法の炎を浮かべる。

もう大規模な転移はできないが、簡単な火属性魔法程度なら問題なく使える。そして、今はそれで十分だ。

ガル・ガニスは、炎を放とうとして――――、

「ご……ふ……っ」

唐突に、口から血を吐いた。

浮かべていた炎が消滅。悪魔族の青年は、足をもつれさせて地面へと倒れ込んだ。

土を噛みながら、鋭い痛みの走る胸に目をやると――――まるで長大な刃で貫かれたかのように、縦に走る線状の傷から血が流れ出している。

「なん……」

いつ、どのようにつけられたものなのか。ガル・ガニスにはわからない。

だが――――誰によるものなのかは、想像がついていた。

「なんだ……なんなんだ、アイツは……あれが、魔王……?」

血と共に、意識が流れ出ていくのを感じる。

全身を寒気が覆っていく。

ありえない。

伝承でも、魔王は……このような力など、持っていなかったではないか。

あまりに異質すぎる。

まるで――――住まう世界からして、異なるかのような。

「あの、魔王は……何、者……」

最期の呟きから、ほどなくして――――悪魔の呼吸が止まった。

勇者を討つべく旅立った魔族の英雄たちは、こうして全員が死に絶えた。