「食事の用意が遅くなってしまい、申し訳ございませんでした。内陸ゆえ、フライス領のような美食揃いとはいきませんが、どうぞお召し上がりください」

 一良が風呂から出て約1時間後。

 ハベルも含めた一良たち4人は、ルーソン邸の食堂にて、数々の豪勢な料理を前にして席についていた。

 テーブルは長方形の長テーブルであり、長手方向に4メートルはあるだろうか。

 テーブルの上には一抱え程もあるような大皿がいくつも置かれ、その上には様々な料理がぎっしりと盛り付けられている。

 ハベルと一良は、いわゆる「お誕生日席」に座っており、バレッタと村長は側面の席である。

 テーブルから少し離れた場所には給仕用の侍女が2人控えていて、彼女達の前にはクロスの敷かれた小さなテーブルがあり、その上には飲み物の入った銅のピッチャーがいくつか置いてある。

 侍女の1人はマリーで、もう1人は一良たちが屋敷に来てから初めて見る女だ。

 ハベルは先ほどまで着ていた鎧は脱いでおり、今は一良と同様の、ゆったりとしたローブを身に纏っている。

 村長とバレッタも同様で、一良の纏っている物とは少し見た目が違うが、似たようなローブを纏っていた。

「これは何とも……」

 一良はそう言いながら、目の前に並ぶ料理の数々を見て感心していた。

 というのも、目の前に置かれている料理の質が、一良の予想を遥かに上回っていたからである。

 テーブルの上に並べられている料理は、肉や魚といった普段こちらの世界では一良があまり食べることのない食材のものが多く、料理の種類も豊富である。

 並べられている料理の中には、ローストビーフのような肉料理や、魚の切り身にソースをかけてグリルしたような見た目の、一良にとっては日本で馴染みのある種類の料理も並んでいる。

 芋虫の串焼きや芋虫のソテーといった、日本人が見たら卒倒するような料理も何品か見受けられるが、この食卓に並んでいるのならば高級食材なのだろう。

 グリセア村でバレッタお手製の高級芋虫料理を日頃から口にしている一良としては、食卓に芋虫がいることに対しては全く抵抗は感じられないので問題ない。

「すごい……こんな豪華な料理、見たことないです」

 いささか緊張した様子でそう言うバレッタに、村長も同意するように頷く。

 貴族の食事など、世間一般の農民では見ることすら適わないのだから、当然だろう。

「喜んでいただけて幸いです。上等な果実酒もありますが、皆さん酒は飲めますか?」

「飲めます!」

 勢い込んで答える村長に、ハベルは「それはよかった」と微笑むと、マリーを呼んで村長の前に置いてある銅のコップに果実酒を注がせた。

「お2人はどうですか?」

「私も貰おうかな」

「私はお酒はちょっと……」

「おや、そうですか。では、果物のジュースはいかがですか?」

「あ、はい、ではそれで……」

 バレッタの返答を聞くと、ハベルは待機していたもう1人の侍女に指示を出した。

 一良のコップには、村長のコップに酒を注ぎ終わったマリーがやってきて、同じく果実酒を注ぎ入れる。

「さあ、どうぞ召し上がってください。届かない場所の料理は侍女に給仕をさせますので、お申し付けください」

 ハベルはそう言うと、手近な大皿料理を手元にある小皿に移し始めた。

 それを見て、村長とバレッタも同じように手近な料理を自分たちの小皿に移し始める。

 3人に続く形で、一良も近くにあったローストビーフのような肉料理を小皿に移した。

「いただきます……ん、これは美味しいですね!」

 空腹で目が回りそうになっていた一良は、取った肉料理をいそいそと口に運んで感嘆の声を上げた。

 一良が口に入れた肉料理は、食感も味もローストビーフにかなり近いものだった。

 実際、この料理は塩を振って蒸し焼きにした肉に、香草と果物を煮詰めて作ったソースを掛けたものであり、調理方法はローストビーフとかなり似ている。

 日本で食べることの出来るローストビーフの味を知っている一良としては、ニンニクや胡椒、山葵に醤油といった調味料が欲しくなるところではあるが、それは贅沢というものである。

「お口に合うようでよかった。料理はいくらでもありますから、沢山食べてください」

 ハベルは一心不乱に肉を頬張っている一良を見て、ほっとしたような表情をした。

 どんな料理を出せば一良に満足して貰えるのか判らなかったため、出来る限り沢山の種類の料理を用意させたのだが、最初に手を付けた一品目で合格判定をもらえたようだ。

「ところでカズラ様、一つお願いしたいことがあるのですが……」

 夕食を食べ始めてから15分程が経過し、各自の腹もある程度満たされて一息ついた頃。

 それまで料理についてや街についてなどの当たり障りの無い話題に終始していたハベルは、食事の手を止めて一良に声を掛けた。

「なんでしょう?」

「今後、カズラ様がイステリアにて人や物を手配する必要が生じた際は、是非とも私に一任していただきたく……これでも、私はイステリアの商人や他の貴族に対して顔が利きますゆえ、必ずやお役に立てるかと」

 突然のハベルの申し出に、一良は口に入れかけていた芋虫の串焼きを小皿に置いた。

 ちなみに、串に刺さっている芋虫はアルカディアン虫ではなく、別種のもののようだ。

「それは嬉しい申し出ですね。ハベルさんの力が必要な際はこちらからお願いにあがりますので、その時はよろしくお願いいたします」

 そう言って軽く会釈をする一良。

 それに対し、ハベルは両手をテーブルについて、

「ありがとうございます。何かご入用の際は、何なりとお申し付けください」

 と深く頭を下げた。

 夕食後、一良たちは部屋に戻り、膨れた腹を休めてのんびりと談笑をしていた。

「カズラさん、どうかしましたか?」

 それぞれベッドの端や備え付けのソファーに座り、料理の感想などを言い合っていたのだが、何処か様子のおかしい一良にバレッタが気付き、声を掛けた。

 声を掛けられた一良は、限界まで食べて膨れた自らの腹を手でさすりながら、若干顔を顰めている。

「いえ、何かお腹の調子が……」

「えっ!?」

 夕食を食べた直後に腹の不調を訴える一良にバレッタは驚き、慌てて一良の元に駆け寄る。

 まさか食事に毒でも入れられたのかと、バレッタは一瞬恐怖したが、それにしては一良の様子がおかしいことに気付いた。

 特に苦しむでもなく、何か合点の行かないような表情で腹を撫でているのだ。

「やっぱりおかしいぞこれは……」

「大丈夫ですか!? お腹、痛いんですか!?」

 自分の腹に目を向けて難しい顔をしている一良に、バレッタは一良の腹に手を当てておろおろしている。

「あ、いや、痛いとか苦しいとか、そういうのじゃないんです」

 自分の腹に手を当てて不安そうな表情をしているバレッタに、一良は慌てて弁解する。

 腹に違和感があるのは確かだが、苦痛とは別の感覚が一良を襲っているのだ。

「お腹が空いて、目が回りそうなんです……」

「……え?」

 お腹が空いていると聞いて、バレッタと村長はぽかんとした表情をした。

 それもそのはず、一良は先ほどの夕食で、それはもう凄い食欲を発揮し、目に見えて腹が膨れるほどに食べに食べたのである。

 現に一良の胃は満員御礼で、もう食べ物が入る隙間など殆ど無い。

 それなのに、一良は腹が減って仕方が無いという。

 これは意味が解らない。

「実は昨日……いや、一昨日からそうだったんですけど、食事をしても殆ど腹が膨れないんですよ。それでも昨日はまだマシだったのですが……あ、膨れないっていっても感覚の問題で、実際食べた分だけお腹は出ますけどね」

 そう言って腹を撫でる一良。

 バレッタも、一良の腹に手を当てたまま、不思議そうな顔をして撫でている。

 一良は少しの間そのままの状態で考え込んでいたが、どうにも理由がわからない。

 満腹中枢が壊れてしまい、いくら食べ物を食べても満腹感を得ることが出来ない身体になってしまったというのなら納得がいくが、もしそうだとするとこんな所でのんびりしている場合ではない。

 さっさと日本に戻って病院へ行くべきなのだ。

「うう、お腹空いたなぁ。もう一個だけ果物食べようかな……」

 一良はそう言うと、テーブルに置いてある果物を取るべく立ち上がろうとした。

 が、立ち上がりかけたところで、不意に足元がふらつき、その場で転びそうになってしまう。

「カズラさんっ!」

 転びかけた一良を、隣に居たバレッタが咄嗟に抱きつくようにして支える。

 その華奢な体つきとは似ても似つかないしっかりとした力で支えられ、何とか一良は転ばずに済んだ。

「す、すいません、何かふらついちゃって……」

 一良は自分を支えてくれているバレッタの肩を掴み、足を踏ん張って体勢を立て直す。

 そして、バレッタに礼を言って肩から手を離そうとした時、微かに震えている自分の指先が目に入った。

「……何だこれ……」

 ぷるぷると震える自分の指先。

 立ち上がろうとしてふらつく足元。

 これはかつて、一良が経験したことのあるものだった。

 そう、あれは確か、一良がまだ会社員として毎日馬車馬のように働いていた時のことだ。

 食事を摂る暇も無いような激務が何日か続き、気付けは朝から晩まで何も食べずに会社の机にかじりついていたとき、似たような症状に見舞われたことがある。

 自分の身体に何か起こったのかと、インターネットで自分の症状をキーワードに入れて調べたところ、一つの単語に行き着いた。

「あぁ……なるほど、そういうことだったのか」

 右手で自分の腹を擦り、バレッタの肩を掴んでいる左手の震える指を見ながら、何処か納得がいったという表情でそう漏らす一良に、バレッタが心配そうな視線を向ける。

「バレッタさん、もう大丈夫です。ありがとうございます」

 一良はバレッタに礼を述べて手を放すと、部屋の隅に置いてあるボストンバッグの前に座り込み、中を漁り始めた。

「あぶねー。何も気付かないまま餓死する可能性もあったなぁ」

「原因が判ったのですか?」

 ボストンバッグの中を漁っている一良に、背後からバレッタが声を掛ける。

 一良は1人で納得している様子だが、バレッタには何のことやらさっぱりわからない。

「低血糖症になっているんだと思います。多分ですけどね」

 低血糖症とは、血糖値が極端に下がり、手の震えや脱力感に見舞われる症状のことである。

 症状が出る出ないの個人差はあるが、極端な空腹時に血糖値が下がってこのような症状に見舞われることが多く、何か食べ物を摂取して血糖値を上げればすぐに症状は治まる。

「低血糖症……あ、前に勉強したことがありましたね。でも……」

 低血糖症と聞き、バレッタは納得がいかないといった風な表情をする。

 それもそのはず、以前一良と勉強した時に使った参考書には、低血糖症とは空腹時になることが多いと書かれていたのだ。

 一良はたった今食事を終えたばかりであり、その条件には当てはまらない。

「まぁ、低血糖症なんだかそうじゃないんだかは、これを食べれば判りますよ。……ううむ、腹ペコなんだけどお腹はパンパンなんだよな……入るかな……」

 異議を唱えたそうなバレッタの視線を受けながら、一良はボストンバッグからプラスチックのスプーンとみかんの缶詰を取り出すと、プルトップを引いて蓋を開けた。

 缶詰を開ける時の独特な金属音が部屋に響き、仄かな甘い香りが缶詰から漂う。

 一良は缶詰に口をつけると、中のシロップをごくごくと飲み干し、スプーンでみかんを掻き込んだ。

 結構なカロリーと糖分を摂取することになるが、一良の推測が正しければ、これくらい食べても問題はない。

「これで私が持ち直せば、村の作物の急成長や、村の皆さんの超回復も説明がつきます。身体能力の強化については……一応、説明つくのかな……」

 一体何が始まるのかと、目を白黒させている村長とは対照的に、バレッタは真剣な表情で一良の話を聞いている。

「カズラさん、『ていけっとうしょう』とは何のことですか?」

「あぁ、低血糖症とはですね……」

 何のことやらさっぱりわからないといった風に質問してくる村長に、一良は症状の詳細を説明し始めた。

 一良のことをグレイシオールだと思っている村長に、一良が低血糖症になっているといった説明をするのはおかしな話になるかもしれないと思ったが、ここまで来たら仕方ないだろう。

 バレッタには申し訳ないが、後々のフォローはバレッタに丸投げすることにする。

 村長に低血糖症の説明をしたり、バレッタからの質問に答えたりしているうちに20分程が経過したので、一良はその場から立ち上がって体の調子を確かめてみた。

 足元はふらつかず、手先の震えも止まっている。

 どうやら、推測は正しかったようだ。

「やっぱりそうか。となると……」

 そう呟くと、一良はその場で腕組みして考える。

 一良がここ数日で摂った食事の内容と、先ほどの一良の症状を合わせて考えてみると、一良とこの世界の食べ物の関係に対して2つの仮説を立てることが出来る。

 1つ目の仮説は、この世界の食べ物には殆ど栄養が含まれていないという仮説。

 この仮説の場合、一良が低血糖症のような症状に見舞われたことと、村の畑の作物が急成長したことについての説明は容易である。

 一良は3日前の昼過ぎから、殆ど日本から持ってきた食べ物を食べていない。

 唯一食べたものといえば、行軍2日目の夜に食べた缶詰1つと、今食べたみかんの缶詰が1つだけである。

 もしこの世界の食べ物に栄養が殆ど無いとすると、一良は3日間で缶詰2個しか食べていないことになり、栄養不足は明らかである。

 また、村の畑の作物についても同様で、村の作物は慢性的な栄養不足状態であり、急に森の腐葉土や日本から持ってきた栄養豊富な肥料を与えられ、本来の姿を取り戻したと考えることも出来る。

 村人達についても、日頃から栄養不足甚だしい状態に置かれていたところに、身体に必要な栄養を一気に与えられて本来の力を取り戻したと考えることもできる。

 この仮説の場合、村人達は身体の基本性能自体は凄まじいが、その性能を使いこなすための燃料が全く足りていない状態だったと考えることになる。

 ただ、この場合だと、この世界の人間は栄養が殆ど無い状態でも生命を維持できる上に、一良の住んでいた世界の人間と同等の身体能力を発揮することができるということになる。

 低燃費どころの話ではない。

 常識を超えた究極生命体である。

 2つ目の仮説は、一良はこの世界の食べ物からは栄養を吸収できないが、日本の食べ物や肥料は、村人や作物に対して特殊な作用をするという仮説。

 こちらの仮説の場合は、こちらの世界の食べ物にも栄養はあり、一良だけが吸収できないという強引な仮説となる。

 だが、この世界の人間の生命維持に関しては説明がつくものの、こちらの世界の人間が日本の食べ物を食べた後の超回復や、超人化についての理由がさっぱりわからない。

 食べ物や肥料が特殊な作用をすると仮定してたとしても、一良の持ってきた食べ物や肥料はごく普通の市販品である。

 日本からこちらの世界に来る際に、特殊効果が付与されたと考える方法もあるが、何ともファンタジーすぎて受け入れにくい。

 とはいえ、日本からこちらの世界に移動できる部屋がある時点で、十分ファンタジーではあるのだが。

「あの、カズラさん……?」

 一良が1人で考え込んでいると、いつの間にか近寄ってきていたバレッタが心配そうに一良の顔を覗き込んだ。

「あ、すいません、1人で考え込んじゃって……私はもう大丈夫です」

 今立てた仮説をバレッタに説明したいとも思ったが、この場には村長もいるので説明は保留にする。

 バレッタの父親である村長ならば、一良自身のことを洗いざらい話しても問題は無いようにも思えるが、村長は一良がグレイシオールであると信じきっているので、あえてそれを覆さなくてもいいだろう。

 元から容量一杯だった腹に更にみかんの缶詰を詰め込み、さすがに苦しくなった一良はボストンバッグから胃薬を取り出すと、錠剤を数粒口に放り込んだ。