それから数時間後。

 日が落ちる直前にバリン邸に帰宅した一良は、バレッタと一緒に夕食を食べていた。

 夕食のメニューは厚焼き玉子と野菜の汁物、そして昼食の残り物だ。

 今日の昼食にバレッタはかなりの量の料理を作ったので、まだ3分の1ほど料理が余っていた。

 こちらの世界は日本に比べて湿度が低いため、余った料理は木箱に入れて涼しい土間の隅に置いておけば、1日程度なら保つことができる。

 バリンはいつものように夜の見回りに行くといって食事も早々に出て行ってしまい、現在居間にいるのは一良とバレッタの2人だけだ。

「では、まだしばらくの間は農地の開拓と市街の衛生環境の改善を行うんですね」

「うん、このまま人口が増え続けると、他領からの食糧支援無しでは作物の生産量が追いつかなくなりそうなんで、今まで開墾できなかった場所にも農地を作らないとと思って。でも、その前に井戸を掘ったり手押しポンプを量産しないといけないんで、本格的に農地の開拓を始めるにはもう少し時間がかかりそうですけどね」

「開拓を始めるまでにはどれくらい時間がかかりそうですか?」

「どうだろ……市街の職人さんたちの状況を考えると、手押しポンプは量産が始まるまでに結構時間がかかりそうなんですよね……。恐らく鍛冶職人にお願いすることになると思うんですけど、彼らも武具や日用品の生産で手一杯らしいんですよ。その間に何とかねじ込まないといけないんで、生産開始までにはどれだけかかるか……」

 一良はバレッタに問われるがまま、今後イステリアで行う予定の作業についての説明をしていく。

 先ほどバリンが出ていってからというもの、バレッタはずっとこの調子でイステリアでの作業予定を一良に尋ねていた。

「全部を一度にというのは難しいでしょうから、本格的な開墾は来年の春からにしてみてはどうですか? 職人さんたちに使ってもらう機械や氷室も作らないといけないんですし、まとめて作業を開始して後々手が回らなくなったら大変です」

「あー、確かに……。今年は井戸掘りと開墾予定地の調査くらいにとどめておいたほうが無難かも。道具関係は機械作りに専念したほうがいいか」

「あと、治水工事の開始はいつ頃になりそうですか?」

「さっき建築会社に電話して問い合わせたんですけど、過去に洪水が発生した部分の補強工事の計画書は1ヵ月後にできるらしいんですよ。なので、人員の手配と工事現場付近の調整とかもそれまでにやっておかないといけなくて……ああ、やること多すぎて頭が痛え……」

 工事計画書の作成を引き受けてくれた建築会社の取締役に先ほど電話で問い合わせたところ、計画書の進み具合は順調とのことだった。

 だが、工事手順や技法についての調査に時間がかかっているため、優先事項である洪水発生箇所の補強工事計画書の引渡しには、あと1ヶ月かかるらしい。

 電話に出た取締役は「こんなに楽しい仕事は初めてだ」と弾んだ声で話してくれた。

「でも、1ヵ月後に工事計画書が手に入るなら、雨季がくる来年の5月には間に合いそうですね。短く見積もっても、工事に使える期間は半年もありますから」

「そうですね。問題はその後に控えている河川全体の本改修なんですが、そっちはいつ頃始められるか……衛生環境と生活環境を一気に改善させる工事内容らしいんで、街の姿が一変するかもしれません」

「それって、モルタルも使って全ての区画に上下水道を引くってことですか?」

「モルタルは使うことになってますけど、全部の区画とまではいかないですね。それだけやるには範囲が広すぎるんで、やるとしても共同の水汲み場や洗い場の上水道ですかね。下水道を作るのかはまだちょっとわからないや」

 やたらと細部まで質問してくるバレッタに答えながら食事を終え、空になった食器を土間の洗い場へと運ぶ。

 洗い場といっても、低い木の台の上に大きな長方形のおぼんが載っているだけの簡素なものだ。

 このおぼんの上で縄を編んだタワシを使って食器を洗い、水桶の中で汚れを洗い流すというのが食器洗いの一連の流れである。

 残飯が出た場合はお盆の上にあけておき、食器を洗い終わった後で水桶と一緒に外へ持っていって、適当に掘った穴に残飯と水を捨てて土をかける。

 食料の大切さが身に染みているグリセア村の人びとは滅多に残飯を出さないので、捨てるものは野菜の芯や皮などの食べられない部分ばかりだ。

 ナルソン邸で出た残飯は、ミャギなどの家畜に食べさせてしまっているとのことなので、場所によって生ゴミの処理方法は異なるのだろう。

 2人は洗い場に並んで雑談をしながら洗い物を済ませ、水桶の水を外に捨てると、再び居間に戻って腰を下ろした。

「そうそう、バレッタさんにお土産を買ってきたんですよ」

 一良は近くに置いてあったボストンバッグからビニール袋を取り出すと、中から折りたたみ式の鏡とハンドクリームなどの美容品を数点取り出した。

「わあ、綺麗な箱ですね……」

 バレッタは一良からそれらを受け取ると、箱のデザインの美しさに感嘆の声を漏らした。

 今までにリポDや缶詰などの空箱は何度も目にしていたが、美容品などに用いられている美しいデザインの箱は見たことがなかったのだ。

「中の容器はもっと綺麗ですよ。肌の手入れに使う美容品なんですけど、もしよかったら使ってみてください。薬用ハンドクリームっていう、洗い物とかで手が荒れた時に使うものや、寝る前に使う保湿ゲルや化粧水も入ってます。日中に使う昼用クリームもありますよ」

 バレッタは早速『薬用コラーゲンゲルホワイト』と書かれた箱を開けると、中から説明書を取り出して読み始めた。

 一良はこういった美容品にはあまり詳しくないので、説明書が付属されているのはとてもありがたい。

「……な、なんかうたい文句がすごいですね。『シミ・そばかすなんて怖くない! 至高の輝きをあなたに!!』って書いてありますけど」

「ああ、そういうのってインパクト重視みたいだから、あんまり鵜呑みにしないほうが……いや、こっちの世界だとそうとも言い切れないのか」

 リポDや食べ物の栄養がすさまじい効力を発揮していると思われる現状を考えると、コラーゲンなどの潤い成分が大量に含まれている美容品も、もしかするとこちらの世界の人間に対しては驚異的な効力を発揮するかもしれない。

 とはいえ、何か肌に悪影響があっても困るので、本格的に使う前に手の甲などに少しつけて反応を見たほうがよさそうだ。

 自分が渡した美容品で女性の肌に悪影響を与えては、謝罪どころか割腹ものである。

「今夜のところは肌に少しだけつけて、明日の朝反応を見てみましょう。肌に合う合わないがあるかもしれないですから」

「そうですね」

 元々若い上に一良が持ち込んだ食べ物の効能で肌質も髪質も超良好な状態のバレッタでは、これらの美容品の効果を確認することは難しいかもしれない。

 だが、やはり手入れをするのとそうでないのとでは、長期的にみて差が生まれてくるだろう。

 バレッタも年頃の女の子なので、こういった品物にも興味はあるはずだ。

 美容品の説明を2人で一通り読んだ後、植物由来のシャンプーとコンディショナーもバッグから取り出し、使い方を簡単に説明してバレッタに渡しておいた。

 その後、イステリアでの今後の予定についてを再びバレッタが尋ねてきたので、数十分の間説明を行った。

 現時点で立っている予定をあらかた説明し終え、温かいカモミールのハーブティーを飲みながら一息つく。

「あの、カズラさん」

 ハーブの香りを楽しみながら一良がまったりとしていると、隣に座っていたバレッタが腰元から小さな布袋を取り出し、一良に差し出した。

「これは?」

「開けてみてください」

 一良が布袋を開けてみると、中には小さな円筒型の木彫り細工のペンダントが入っていた。

 木彫り細工の表面には模様が彫られており、どうやらラベンダーの花の絵が彫られているようだ。

 何を使って彫ったのかわからないが、素晴らしく上手に彫られている。

「あ、ラベンダーの香りがする……」

 そのネックレスからは、ほのかにラベンダーの香りがした。

 一良がその香りに鼻をひくつかせていると、バレッタは気恥ずかしそうに微笑んだ。

「アロマペンダントを作ってみたんです。昼間に急いで作ったから、あんまり上手じゃないかもしれないですけど……」

「いや、これは売り物にできるくらい上手ですよ。こんなに綺麗に彫れるなんて、手先が器用なんですね……アロマペンダントってことは、中は空洞なんですか?」

 アロマペンダントとは、中が空洞になっているペンダントトップにアロマオイルを染み込ませた布などを入れ、そのデザインと香りを楽しむペンダントのことだ。

 バレッタにはアロマやハーブの書籍を何冊か渡してあったので、そこに載っていたアロマペンダントを見て一良のためにと木で作ってくれたのだろう。

 円筒型のペンダントトップの大きさは長さが5センチほどで、幅は2.5センチといったところだろうか。

 底には木の栓で蓋がされており、この中にアロマオイルを染み込ませた何かが入っているらしかった。

「はい、中にラベンダーの精油を染み込ませた布が入っています。イステリアに行ってる間、着けていて欲しいなって……」

 恥ずかしそうに言うバレッタに、一良は笑顔で頷いた。

「ありがとう。向こうに行っている間、肌身離さずに着けさせてもらいますね」

「……はい」

 一良の返事に、何故か少しだけ間をあけてから微妙な笑顔で答えるバレッタ。

 だが、すぐに表情を取り繕うと、近くに置いてあった機械図面が入っているファイルを取り、載っている機械の使い方についてあれこれと一良に質問を始めるのだった。

 次の日の昼すぎ。

 グリセア村の入り口で、一良はバレッタと他の村人たちに、別れの挨拶をしていた。

 結局昨夜は深夜までバレッタの質問攻めが続き、2人が寝たのは夜中の2時近くになってからだった。

 とはいえ、一良は今朝の8時ごろまで眠りこけていたので、体の調子は上々だ。

 一良の背後の数台の荷馬車には、今朝日本の屋敷で受領した家電や昨日のうちに村へと運んであった水力発電機、そして今朝スーパーで大量購入してきた食料品の入ったダンボールや、冷凍食品が詰められたクーラーボックスといった荷物が満載されている。

 クーラーボックスの中身は、冷凍された野菜や肉や魚介類だ。

 前回全滅してしまったアイスも沢山入っており、食料品に関しては一分(いちぶ)の隙も見当たらない。

 ドライアイスは前回よりかなり多めに入れてあるので、イステリアに着いたら溶けていた、というような悲惨な目には遭わずに済むだろう。

「次に戻ってくるのは1ヶ月後になりますが、何か問題が起こったり必要な物が出たりしたら……」

「はい、すぐに連絡しますね。カズラさんも、私たちに何かできることがあれば何でも言ってください。皆で応援に駆けつけますから」

 明るい表情で答えるバレッタに、一良は内心ほっとした。

 前回グリセア村を離れた時の別れ際では、バレッタが泣くのを堪えるような表情をしていたことに、一良は気づいていた。

 だが、この明るい表情を見る限り、今回の別れは大丈夫そうだ。

 次に一良が戻ってくるまで、村で元気に過ごしていてくれることだろう。

 一良は手を振るバレッタたちに見送られながら馬車に乗り込み、グリセア村を後にした。

 村の入り口で一良を見送った後、バレッタはバリンと共に屋敷に戻ると、居間に置きっぱなしになっていた本の全てを自分の部屋に運んだ。

 その中から『金属精錬の歴史』というタイトルの本を取り出し、ぱらぱらとめくる。

「写真は確か……あった。これなら大丈夫かな」

 目的のカラー写真が載っているページを見つけ、ページの間に布切れを挟んでしおり代わりにする。

 部屋に置いてあったズタ袋に本を入れ、合わせて布タオルも1枚入れた。

 さらに、部屋の隅に置いておいた革のベルトを腰に巻きつけ、短剣を背中側に横挿しする。

 装備を整えてズタ袋を手にすると、部屋を出て居間を抜け、土間に下りた。

 土間では、バリンが昼食に使った食器の洗い物をしていた。

「ん、出かけるのか?」

「うん、ロズルーさんと山に行ってくるの。夕飯までには帰ってくるから」

 バレッタがそう答えると、バリンは不思議そうな表情を見せた。

「山に?」

「うん。たぶん帰ってくる頃には暗くなってると思うから、夕飯の仕度はお願いね」

 バレッタはそう言いながら、スタスタと屋敷の出口へと向かう。

「いったい何しに行くんだ? それに、山まではかなり距離があると思うが……」

「鉄鉱石を探しに行くの。走っていけばそんなにかからないと思うから、大丈夫だよ」

 問いかけるバリンにバレッタは笑顔で答えると、「行ってくるね」と言って屋敷を出て行ってしまった。

「……テッコウセキって何だ?」

 1人取り残されたバリンは、縄のタワシを手にしたまま合点のいかない表情で首を傾げていた。

 バレッタは屋敷を出ると、先ほど一良と別れたばかりの村の入り口へと駆け足で向かった。

 村の入り口では、すでにロズルーがバレッタのことを待っていた。

 ロズルーは背中に鉈と空のズタ袋をくくり付けており、そのほかには何も持っていないようだ。

「ロズルーさん、お待たせしました。道案内よろしくお願いします」

 バレッタはぺこりとロズルーに頭を下げると、ズタ袋から先ほどの本を取り出し、しおりの部分を開いた。

 ロズルーは毎年秋になると遠目に見える山へ狩りに行っているので、山の地形にはとても詳しい。

 バレッタ1人で鉄鉱石を求めて山中を探し回るのは大変なので、地理に明るいロズルーの協力を今朝の内に仰いでおいたのだ。

「こんな石を探しているんですけど、見たことはありますか?」

「ああ、この赤いやつは山の川沿いでよく見かけますよ。こっちの黒いのも河原でよく見ますね。……ところで、この本に描いてあるのは絵ですか? ずいぶんと綺麗に描かれているようですが」

「これは写真といって、風景を本物そっくりに描き写すことができる道具を使って描いたものなんです。カズラさんが教えてくれました」

「ほう。これはすごいですね」

 バレッタが写真について説明すると、ロズルーは興味深げに頷いた。

 特に驚いた様子が見えないのは、一良が持ち込む数々の道具を見てきたために耐性がついているのだろう。

 農業用運搬車のようなインパクトの強い道具を見た後では、最早余程のことがない限りは驚かないのかもしれない。

「では、早速向かいますか。走りますよ」

「はい」

 ロズルーはバレッタが頷いたのを見ると、遠め目に見える山へ向かって走り出した。

 バレッタもロズルーに並ぶように、ズタ袋を手に走り出す。

「大丈夫ですか?」

 日本の箱根駅伝で1位通過している選手のような速度で走りながら、ロズルーは隣を走るバレッタに声をかける。

「まだまだ平気です。もっと速度を上げましょう。夕食までには帰らないといけないから、急がないと」

「わかりました。飛ばしますよ」 

 ロズルーはバレッタの言葉に頷くと、さらに速度を上げた。

 バレッタもロズルーに合わせ、速度を上げて横に並ぶ。

 土埃を巻き上げながらどんどん加速していく2人の速度は、今や時速40キロに届こうとしていた。