部屋の景色が一瞬ぶれた後に、俺の視界はがらりと変わった。

「よいしょっと……おっと、いけねえ。キャベツが一つ落ちちまった」

 目の前の人物が腰を下ろして箱を地面に置く。

「はい。キャベツ」

「おお、悪いな坊主――て、いつからいたんだよ!」

 バルトロがキャベツを抱えながら後ずさる。驚いても食材は手放さない。さすがはプロの料理人だ。

「……最初から」

「なんだその間は。坊主っていつの間にか近くにいたり、いなくなったりする事があるよな」

 げ、バルトロ見た目の割に鋭いかもしれない。

「気のせいだよ。ほら、バルトロは身長がデカいから小さい俺は視界に入りにくいんだよ」

「いや、確かにそうだが毎回全く気配を感じねえぞ」

「……エリノラ姉さんから逃げるには、気配を消して移動するくらいの歩行術が無いと無理なんだよ」

「……お前暗殺者かよ」

 バルトロが呻くように呟いた。た、たしかにこれを使えば暗殺者として無敵かもしれない。

 もはや誰にも気付く事なく、対象を抹殺する事ができる。

「バルトロ! アルフリートを見なかった!?」

 食糧庫へと駆けつけたのはエリノラ姉さん。俺は端っこの棚と壁の間に身を滑らせて瞬時に隠れる。

 い、意味が分からない。どうして、食糧庫に真っ先に来るのか、エリノラ姉さんの思考回路が全く理解できない。

「い、いえ、見ておりませんが」

 ナイスだ! バルトロ!

「そう? アルならここにいるかと思ったのだけれど……おかしいわね。あたしの勘が外れたのかしら」

 エリノラ姉さんのアルフリート感知能力がおかしい。もはや人間の域を超えている。俺には暗殺者だなんてものにはきっとなれないんだ。

「やっぱり外かしら。ありがとうねバルトロ」

 エリノラ姉さんは小首を傾げると、すたすたと髪を揺らして離れていった。

「……もういいんじゃねえか?」

「ありがとうバルトロ。助かったよ」

「今日はやけに騒がしいと思ったら、姉ちゃんに追いかけられていたのか」

「そうなんだよ。ってな訳で俺は適当な場所で隠れるよ」

「お、おう。頑張れよ」

 さすがに厨房の近くで暴れるといけないので、適当に離れてメイドの休憩室の近くで身を隠す事にする。

 すると、メイド達の休憩時間なのか、ミーナやメル、サーラ達の声が廊下から聞こえてくる。

『もー、ミーナってばずっと足元眺めて笑っているんだから気持ち悪いわよ?』

『仕方がないですよ。私は悪くありません。この美味しそうな丸くて穴が空いているものが悪いんです!』

『見た事のないものですね。これもお菓子なのでしょうか?』

『サーラちゃん! これはお菓子だよ! 私の勘がそうだと言っているの!』

『脱いで目の前に突き付けなくてもいいから。サーラが嫌がっているわよ』

『あ、脱ぎやすくてつい』

『いえ、それにしてもスリッパは本当に脱ぎやすいですよね』

『確か、アルフリート様が作った物らしいわね』

『この食べ物。きっとアルフリート様がまだ披露していないお菓子に違いありません』

 げ、ミーナが鋭い。喜ぶと思ってスリッパを可愛くお菓子だらけのガラにしたのが間違いだった。女性陣に余計な情報を与えてしまった。

『はいはい。早く部屋に入ってよ』

 立ち止まりながら唸るミーナの背中メルが押して休憩室へと入っていく。

 何となく盗み聞きするのも申し訳なかったのだが、エリノラ姉さんが行動がわかるかもしれないので、このままここにいようと思う。

 罪悪感なんかより、自分の命の方が大事だから。さすがは異世界。厳しいところだ。

『それにしてもアルフリート様は凄いですね。こんな便利な履物を考え付いて、自分で作るだなんて……』

『料理もできるし、魔法も使えるらしいね。あと、剣も少し』

『特にお菓子作りの才能が素晴らしいですよ! 私としては一生お屋敷にいて欲しいです!』

『はいはい、ミーナ近い。近いってば、落ち着きなさい』

『先程はアルフリート様は何やらエリノラ様に追いかけられていた様子でしたね』

 きたっ! エリノラ姉さんの話。

『ああ、ここではいつもの事だね』

『二人とも凄い運動神経だったよねー。今は静かなようだけど終わったのかな?』

『いえ、エリノラ様が外へと向かわれたので静かになったのかと。あと、アルフリート様の悲鳴も聞こえておりませんので未だ終わっていないかと』

 ……何だろう。エリノラ姉さんが外に行ったという情報が聞けて嬉しいのだけれど、サーラの推測の言い方が何か嫌だ。

 ともかくお目当ての情報が手に入ったので、俺はそっと休憩室の傍から離れて歩き出した。

 暗殺者は色々な理由で無理でも、諜報関係の仕事ならいけるかもしれない。

 ×     ×      ×

 二階へと向かう途中の、一階の階段を上っているとエリノラ姉さんが帰ってきた。

「あ、エリノラ姉さんお帰り」

「ええ、ただいまアル」

「……エリノラ姉さん!?」

「……アル!?」

 しまった! いつものように声をかけてしまった。日頃の習慣という奴はなんて恐ろしいのだろうか。

 俺が慌てる中、先に動いたのはエリノラ姉さんだった。

 瞬時に外靴を脱ぎ、スリッパを履いて階段へと迫る。

 くそ、俺の与えたスリッパの履きやすさが遺憾なく発揮されている。

 スリッパめ。全く優秀過ぎる物というのも困ったものだ。

「待ちなさい!」

 本日、何度目かもわからない程に多く聞いた、鋭い静止の声。

 待てる訳がなかろう。

 俺も硬直した体を動かし二階へと駆け上がる。

 すると、廊下を歩いているシルヴィオ兄さんと目があった。

「あっ、アルいいところに――」

「ま、ち、な、さいっ!」

「危なっ!?」

「ふごおっ!?」

「シルヴィオオオォー! シルヴィオ兄さんがやられた!」

 シルヴィオ兄さんを見ると、顔にはゲコ太がめり込み意識は既にない。ただ廊下を歩いていただけなのに何て間が悪い兄なのだろう。

「ちっ! アルの癖に避けるだなんて」

「ちょっとアルを蔑称みたいに言うのやめてくれません!?」

 俺の唯一の盾であったシルヴィオ兄さんは再起不能。もはや捨て置く事しかできない。

 どうするアルフリート。こうなったら使用人の宿舎へと逃げるか? 

 ともかく立ち止まる事は出来ない。エリノラ姉さんに捕まってしまえば一日愛のお稽古は免れない。

 一心不乱に駆けだすと、何かにぶつかったのか体に衝撃がくる。

「ブフッ!?」

 おかしいな。廊下には障害物なんて無かったはずなんだけど。それに妙な柔らかさだった。俺は視線を前へと向ける。そこには迫力あるスリッパ、竜太君がいた。

「…………さっきも危ないから屋敷の中で走りまわるなと言ったよね?」

 視線を上げると怒りの雰囲気を纏わせながら、仁王立ちをするノルド父さんの姿が。

 どうしてうちの家族は怒った時に笑顔になるのであろうか。

 ちょっと怖いです。

「…………」

「エリノラ、待ちなさい」

 汚ねえの。さんざん可愛い弟を追いかけまわした癖に、自分だけ逃げようとしてやがった。

 でも、何だかいい気味だね。

「アル、笑っているけど君にも怒っているんだよ?」

 わかっているのかい? というようにプレッシャーをかけてくるノルドお父さん。

 しかし、俺の視線はある所へと引き寄せられている。

「アル、どうしたんだい? 何か言いたい事があるのかい?」

「……竜太君の履き心地はどうですか?」

「……ぷふっ! ……いえ、何でもないです……」

 あっ、エリノラ姉さんが笑った。

「………………最高だよ?」

 この時どうして俺がそんな事を聞いたのかは、自分でもよくわからない。

 ただ気になったんだ。物を作る者としての性だろうか。

 結局俺達は仲良く叱られて、昼からは稽古となった。

 この日エリノラ姉さんの訓練メニューが一番厳しかったのはきっと気のせいだ。