「おおう、これは凄い」

男は目にした光景に、思わず感嘆の声を漏らした。

小高い丘の上に立つ男の目には人工物が一つもない、見渡す限りの草原と突き抜けるように青い空が映っている。そこには男がこれまでに見た事のない、自然そのままの風景があった。

「これがVR(仮想現実)か」

つぶやく男の声には隠しようのない興奮と感動、そして喜びの響きがあった。

 男が子供の頃、当時一時代を築いていたTVゲームのハードから初めてRPG(ロールプレイングゲーム)というジャンルのソフトが発売された。

 自分が勇者となり敵と戦って己を鍛え上げ、そしてついには魔王を倒し世界を救う物語。男はそのゲームで初めてRPGやファンタジーという言葉を知り、その世界に魅了された。

 粗い2Dのドット絵から始まったこのゲームは時とともに凄まじい進化を遂げ、男が社会人となる頃には画面上に現実と変わらないか、時にはそれを凌駕する程に作りこまれた世界を見る事も出来るようになっていた。

 ゲームの画面上では自分の分身とも言えるキャラクターが、精巧に作られた世界を縦横無尽に動き回る。

 まるで自分がそこに居るかのような感覚と、実際はそれは映像でしかないという現実。

 それが良く出来ていればいるほど、実際にゲームの世界に入り込んでそのキャラクターになってみたいという夢や憧れを持ってしまうのも止むを得ない事であろう。

 今はまだ不可能だが、今後の技術の進歩によりゲームの世界をまるで現実のように体感できる『VR(仮想現実)ゲーム』を遊ぶ事が出来る時代が来るのではと、多くの者が期待した。

 だがそれは男が中年と呼ばれる年になってもなお現実にはなっておらず、まだまだそれは実現不可能な夢でしかなかった。 

 だが、技術の発展は歩みを止めず、ゆっくりとそして時には劇的に進歩する。 

 さらに数十年が経ち、男が会社も定年退職して既に老人と呼ばれる年になり久しくなった頃、『仮想現実』はついに現実となった。

「ようやくここまできたな」

 VR機器のヘッドセットを撫でながら感慨深げにそうつぶやく老人の顔は、隠しようのない喜びがあふれ出ていた。

 彼の前にあるVR機器はカラーボックス程度の大きさの本体と付属のモニター、そして本体下部から伸びる太いコードで繋がるヘッドセットで構成されている。

 VR機器は脳に干渉して仮想現実を認識させるという仕組みの都合上、医療機器としての側面も備えておりゲーム専用機というわけではない。

 使用する者の目的に沿ったソフトをインストールする事で、仮想現実を使った精神的アプローチの治療行為はもちろん、スポーツ選手のトレーニングや学生向けの各種体験型学習など、その他にも様々な用途で使う事が可能なのだ。 

 これらVR機器の有効性は先行導入されていた軍事・医療分野での成果が証明した事もあり、一般家庭向けのVR機器は発売と同時に爆発的な勢いで普及していった。

 だがそうした世界的なVR機器普及の波の中、老人となっていた男は同じ時期に大病を患い入院してしまうというトラブルの為に出遅れてしまい、退院してVR機器を入手できたのは発売から1年以上が過ぎた頃だった。

 そして退院して2ヵ月後の今、ようやく半世紀以上の時を越えた夢であるVRゲームを始めようとしていたのである。

 発売から1年以上経っている事もあり、男が好むRPG系のVRゲームも十数種が発売されていた。その中で男が選んだのは主流であるMMOではなく、一人用のRPGゲームであった。

 現実では加齢であちこちガタがきた体でも、仮想現実では健康な若い頃の運動能力を取り戻す事が出来る。そうした理由もあって、この時代では多くの高齢者がゲームをプレイしていた。

 しかし当たり前の話だが心は老人のまま変わらない。いくら男がずっとゲーム好きだったとはいえ、MMOで若い世代に混じって同じように遊ぶ熱量までは所持していない。

 老人はずっと独身で、現在も一人暮らしだ。独身だと高齢者でも精神的に若いとは良く言われるが、それにも限度があるのだ。

 また友人や親戚も近くに住んでいて孤独ではない為、今は交流を求めてMMOを選ぶ必要を感じておらず、それよりは他人に左右されず自分のペースでゆっくりと仮想現実を楽しみたいと考えたのだった。

 そうして選んだゲームのタイトルは『ニューワールド&ニューライフ』という人族・魔族・妖精族・獣人族の4つの種族が暮らす世界アーステリアを舞台としたファンタジーRPGだ。

 レベルとスキルを併用した極めて自由度の高い成長システムと、NPCやサポートキャラ等に高度AIを多用したリアリティのある世界観で人気のゲームである。

 また一人用のゲームでありながら、オーソドックスな冒険者から農民まで数多くの職業があり、またそれに合わせてメインクエストも十数種類用意してあるという徹底ぶり。

 普通のRPGとして楽しみむもよし、まったり牧場ライフを楽しむもよし、生き馬の目を抜く商売の世界で成り上がるもよし、あえてメインクエストを進めず平穏無事に日々を過ごすもよし、その楽しみ方はMMOに引けをとらないほど自由だ。

 ただ社会的影響に配慮してか、一人用ゲームであるからこそ犯罪行動に関しては厳しいペナルティが科せられており、犯罪者プレイはほぼ不可能な仕様になっている。

 もちろんこの点も、健康な肉体はともかく健康な精神を持っているこの老人にとってはまったく問題にならなかった。