The Annals of the Flame Kingdom (WN)

Episode 177: Words of Gratitude and the Carnivore

 コンコンコンと、三度のノック。室内からの『どうぞ』という声に一つ頷き、浩太は扉を開けて室内に顔を出した。

「……起きてたか?」

「おろ? 浩太? 起きてるよ~」

 ベッドの上に寝そべったまま本を読んでいた綾乃が顔をあげる。どちらかと言えば――というより、『がっつり』お行儀の悪いその姿に顔に苦笑を張り付けたまま浩太は口を開いた。

「だらしねーよ。しゃんとしろ、しゃんと」

「えー? 別に良くない? 誰も来ないんだしさ」

「俺が来たじゃん」

「尚の事いいじゃん。今更、気を使った方が良いの?」

 こくんと首を傾げる綾乃に苦笑の色を強くする浩太。そんな浩太の姿に『にしし』と擬音が付きそうな、それでいて可愛らしい笑みを浮かべた綾乃が部屋の隅の椅子を指差した。

「立ってないで座れば? 流石に立たれたまんまじゃ気も使うし」

「あー……ああ、うん。そうさせて貰う」

 一瞬悩むように中空を見つめた後、浩太は部屋の隅の椅子を引っ張って来てベッドの側に置くと黙ってそこに腰を下ろす。そんな浩太をチラリと見やり、綾乃が口を開いた。

「そんで? 言うんだったらさっさと言えば?」

「……何を?」

「お礼」

「……は?」

「あれ? お礼を言いに来たんじゃ無いの?」

 そんな綾乃の言葉に、びっくりした様に目を見開く浩太。そんな浩太を面白うそうに見やり、綾乃は言葉を続けた。

「なんで分かった! って顔してる」

「……正解。なんで分かった?」

「椅子を勧めたらちょっと悩んだ顔したでしょ? わざわざこんな時間に訪ねて来たんだから、普通は込み入った話だと思うじゃん?」

「あー……すまん、配慮が足りなかった。時間、遅かったか?」

「いーよ、別に。ともかく、椅子を勧めて悩むって事は、直ぐに済む用事なんだろうって。そしたらもう、お礼ぐらいしかなくない? 『ありがとう。じゃ!』ぐらいで済むしさ?」

「……すげーな、お前」

「ちっちっち。簡単な推理だよ、ワトスン君」

「誰がワトスン君だ、誰が。んじゃお前はホームズかよ?」

「マイクロフトの方だけどね」

「……誰?」

「シャーロックのお兄ちゃん。職業柄、探偵よりは銀行員に近いと思うよ?」

「……しらねーんだけど。なに? ホームズってお兄ちゃん居たの?」

「ちゃんと本ぐらい読みなさいよね。漫画ばっかじゃなくてさ?」

「……うるせーよ」

「……」

「……なんだよ?」

「君は実にバカだな~」

「……おい、仔狸。青狸の真似すんな」

「あによ。あんたに合わせて漫画にしたのに」

 ぶーっとほっぺを膨らませて見せる綾乃の頭に軽くチョップ。大袈裟に頭を抱える綾乃に、浩太は肩を竦めて見せた。そんな浩太の表情に、不満そうに頬を膨らませたまま綾乃は言葉を続ける。

「ドメスティック・ヴァイオレンスだ!」

「発音イイな、帰国子女。つうか、ドメスティックってなんだよ。どこが家庭内だよ、おい?」

 ジト目を向ける浩太。そんな視線を受けて、綾乃はにやーっと口の端を釣り上げて。

「あら? 違ったっけ? 私、貴方の『側室』になったんでしょ?」

「……あー……」

「側室とはいえ、家族は家族じゃないの? ん~? どうなのかな? だ・ん・な・さ・ま?」

 にやにや此処に極まれりと言わんばかりの表情を浮かべる綾乃。そんな綾乃に口をパクパクと開閉させた後、諦めた様に浩太は小さく溜息を吐いた。

「……まあ、礼も言わなきゃいけないしな。ありがとうよ、綾乃。ぶっちゃけ、お前が……その……なんだ? あそこで『ああ』言ってくれなかったら完璧に詰んでた」

「あんた、あんな鉄火場向いてないもんね。見てて面白いぐらい真っ青になってたし」

「虐めるなよ。つうかな? そうは言うけどあんな状況でやれ結婚だどうだって言われて冷静で居られると思うか?」

「魔王でしょ、浩太。『ぐわはは! すべての美女はワシに嫁げ!』ぐらい言ってみなさいよ?」

「銀行員だよ、俺は。普通のな」

「ホンモノの『普通の』銀行員が聞いたら火を噴いて怒りそうだけどね。でもまあ、別にお礼を言われることは無いんだけどね? 別に浩太の為じゃないし」

「いや、そうは――」

「ああ、違った。べ、別に浩太の為じゃないんだからね!」

「――言い直す意味、あった?」

「気分の問題。ソニアちゃんのアイデア自体は悪くは無かったからね。ただまあ……エリカとかエミリちゃんとかは納得しなさそうだし。シオンもかな? でも一番は多分、ソニアちゃんが納得しないから。方法として正しくても、誰も幸せにならないんだったらやる意味は無いんじゃないかな、って思っただけよ」

「……コメントに困るな、それ」

「いいじゃん、色男。まあ、私だって完全に納得できる訳じゃないしね。だから、まあ、完全にただの問題の先送りに過ぎないだけよ、こんなの。それでお礼を言われるのも……なんだろう、若干『もにょ』とする」

「もにょ、ね」

「もにょ、よ。だから別にお礼は良いわよ。でもまあ、折角部屋に来たんだし? どーする?」

「……どーするって?」

「折角だしさ? 正妻に手を出す前に、側室のあじ――っ~~~!! 痛い! 浩太が叩いた!」

「……このバカが」

 先程よりも強めのチョップが綾乃の頭に炸裂する。叩かれた頭を押さえて涙目で蹲りながら、非難の視線を向ける綾乃に浩太が力いっぱい溜息を吐いて見せた。

「ドメスティック・ヴァイオレンスだ!」

「こういうのは教育的指導っつうんだよ、ばかたれ。何が味見だ、このバカ、アホ、間抜け、ポンポコ」

「最後のなんだし! うー! いいじゃん! 据え膳喰わなきゃって言うでしょ? 据え膳どころか口元に箸持っててあーん状態よ? 男の恥!」

「狸って肉食だったっけ!? 綾乃、落ち着け!」

 ガバっと立ち上がり、そのまま綾乃は浩太のネクタイを掴みあげる。彼我の身長差から、綾乃の髪から香る甘い香りが鼻孔を擽る事に浩太は少しばかり胸の高鳴りを覚えるが、『いや、これは流石にあかん!』と常識的な判断で綾乃を押しとどめる。そんな浩太に不満そうな視線を向けて綾乃は。

「……甲斐性なし」

「……おい」

 酷い言われようである。小さく溜息を吐きながら、浩太は綾乃の頭をポンポンと軽く撫でた。

「……あー……なんだ。その、な? よく考えて見ろよ? この状況でさ? 俺がお前と……その、なんだ。そういう事して良いと思うか?」

「……思わない」

「だったら――」

「……思わないけど……でも……やっぱり不安、だしさ」

「――……」

「ソニアちゃんは此処で一歩リードでしょ? エリカだって浩太とキスしたし」

「そりゃ……まあ」

「エミリちゃんとこは一家総出で浩太を婿に迎え入れようとしてるでしょ? シオンは……お金あるし」

「シオンさんの扱いが酷い!」

「『経済的安定』を見てるってアンタに言った事なかったっけ? バカに出来ないのよ、お金の力も」

「……あったけど」

「まあ、それを抜いてもエリカもエミリちゃんもシオンだって皆綺麗だし。その……私はどっちかって言えば仔狸系だし」

「……なんだよ、仔狸系って。可愛い系って事で納得しろよ」

「いい年だしさ、私も。流石に可愛い系じゃちょっと……しんどい?」

「いや、聞かれても」

「そうだよね」

 そう言って、綾乃は力無く笑う。

「……こう……私だけ、何にもないな~ってさ。だからこう……なんていうのかな? さっさと『手付き』になっとけば安心かなって」

「いや、安心って」

「振られる事に関しては慣れてるでしょ、浩太? それにアンタはバカみたいに優しいからさ? 離れて行くのを追わないことはあっても、自分から離れて行く事は無いでしょ?」

「……良くご存じで。流石、同期」

「アンタの恋愛遍歴把握してますから、こっちは。どれだけアンタの恋愛相談受けたと思ってんのよ?」

 もう一睨み。浩太に視線を送った後、綾乃はネクタイに掛けていた手を離して、うーんと背伸びをして見せた。パジャマ代わりのダボッとした服からチラチラとおへそがのぞくその仕草に、浩太が思わず視線を外す。

「……ん、まあそんな感じでちょっとテンパってた、私も。よく考えれば――っていうか、よく考えなくても無いよね、これは。どんだけサカってんだって話だよね。ごめんごめん、忘れて、浩太」

 ごめん! と頭を下げる綾乃。それも一瞬、上げた表情にはいつも通りの笑顔が。

「……はあ」

 ――いつもより、少しだけ寂しそうな笑顔が浮かぶ。外した視線をチラリと戻した後、もう一度明後日の方に視線を向けたまま浩太はガシガシと頭を掻いた。

「あー……その……なんだ? お前が……その……くそ! なんだ、これ! めっちゃ恥ずかしいんだけど!」

「……浩太?」

「だから……その……アレだ、アレ! ソレだよ!」

「……いや、浩太さん? アレとかソレとか言われても」

「分かれよ!」

「日本語不自由か。分かる訳ないでしょ!」

 先程までの憂顔は何処へやら、一転してジト目を浮かべる綾乃。その姿に、もう一度『くそ!』と悪態を吐いて。

「だから……その、なんだ! そんなに不安になるなよな! そ、そもそもだな? 俺が……その、なんだ! 生まれて初めて告白したのはお前で……だ、だから! その……お前は俺の……」

 ――――初恋の人だから、と。

 そんな浩太の言葉が綾乃の耳から脳に届き、一瞬のタイムラグの後、ようやく回りだした頭がその意味を正確に理解した所で。

「………………うわぁ…………」

「酷くない!?」

 心底嫌そうな声が綾乃の口から漏れた。そんな綾乃に過剰に反応した浩太の突っ込みに、綾乃がまるでゴミを見る様な目で浩太を見つめた。

「……ちょっと待って? どっから突っ込めばいいの? あんだけ華々しい女性遍歴晒しといて『初恋の人です』とかどの口が言うのとか、アンタその初恋の人の目の前でなに他の女とキスぶっかましてるのとか、いやいや、貴方今日婚約したんですよねとか、そもそもいい年こいて初恋って……うわぁ……」

「それ以上口を開くな! 俺の心が音を立てて折れる!」

 浩太、涙目。それこそいい年した男性がする仕草ではないそれに、ますます綾乃の目が細まり――そして、その目が優し気なそれに代わる。

「……なーんてね。じょーだんよ、じょーだん」

「……フォローはいらん」

「拗ねないでよ。私も恥ずかしかったんだから、お互いさまって事でさ。それに……ちょっと嬉しかったからさ。そっか……私、浩太の初恋の人か~」

 赤く染まった頬に両手を置いてやんやんと言わんばかりに身を捩る綾乃。そんな仕草をジト目で見つめていた浩太だったが、やがて諦めた様にその口を苦笑に形作った。

「……別にエリカさんやエミリさんを貶めるわけじゃねーけど……それでも、俺が困った時に最初に頼るのはお前なんだよ」

「……うん」

「その……だから、アレだよ。お前は俺に取って重要な人間っていうか……その、不安になんてならなくても良いって言うか……」

「どの立場からの意見よ、それ?」

「……うるせー。俺だって偉そうな事言ってる自覚はあるんだよ」

「これもじょーだん。嘘だよ、浩太。その……」

――すごく、嬉しい、と。

「……そっか」

「……うん」

 微笑みを湛えて。

「……凄く、凄く、嬉しい」

 なんだかちょっとだけ気恥ずかしくなり、お互いに視線を逸らす……のだが、お互いに意識をしあってる手前、チラチラと向ける視線がビリヤードの球の様な勢いで激しくぶつかる。

「ま、まあともかく! そういう事だから!」

「う、うん! あ、アリガト……」

「っ! えっと……その……そ、そうそう! それで具体的な今後の作戦なんだけどよ!」

「う、うん! その、ソニアちゃんがテラに手紙を送ったって! カルロス一世、まだテラに居るらしいから、至急ソルバニアの宰相をラルキアに呼び寄せる依頼をしてるって」

 急な話題の転換に、なんとか付いていく綾乃。が、そんな綾乃の言葉に今度は浩太が顔を真顔に戻した。

「……どしたの?」

「……ソルバニアの宰相って……フィリップさんか」

「知ってる人?」

「そこまで詳しい訳じゃないな。逢った事はある、程度だ。能力ある人だし、人間も出来てる」

「……なんか前後の文が繋がってなくない? 逢った事はある程度なのに、人間性まで分かるの?」

「いや、だって、お前」

 一息。

「…………カルロス一世の下で宰相が出来るんだぞ? 人間出来てるに決まってんじゃん」

「…………ああ…………うん」

「そういう意味ではクラウスさんに似てるのかもな。シオンさんの友人だし」

 どちらも不憫、という所がとても良く似ている。一瞬嫌そうな顔を浮かべた綾乃だが、気を取り直したようにコホンと一つ咳払いをして見せた。

「……まあ、そもそも人材集めが趣味みたいな人の下で長年宰相が出来るんだもんね。能力が無い人を情実だけで重用するタイプじゃなさそうだし、優秀な人なのは間違いないか」

「そういう事。そういう事だけど……でもなんでだ? フィリップさんをラルキアにって」

「王族の結婚だもん。ある程度『格式』があるんだって」

「……ああ、なるほど。報告の使者、って事か?」

「そういう事。ソニアちゃん曰く、『仮にもソルバニアの宰相が務める『格』の仕事ではありませんが、だからこそフィリップというカードを使う意味があります』だってさ。意味は」

「分かる。ジョーカー使うようなもんだな」

 別に官僚や政治家に限った話では無いが、面談相手には当然、『格』というものがある。同じ程度の規模の会社であれば、社長が面談に来るなら社長かそれに準ずる人間が応対するのが一般的である。今回の場合、ソルバニア王国の宰相閣下が直々に使者を務める以上、フレイム王国側も下手な人材を出すわけには行かず、それ即ち現在の国政の中心であるエドワードか、或いはクリスと直接『お目通り』が叶う、という算段だ。

「エドワードとクリス殿下がどれだけ優秀か知らないけど、海上帝国の宰相閣下と互角に戦うのは厳しいんじゃない?」

「……そうだろうな。一方的に有利な条件を取ってくる気がする」

「そういう意味ではソニアちゃんも本気なのよ。言っちゃなんだけど、わざわざ宰相閣下まで連れて来て進める程にはね。だからまあ、アンタも『覚悟』はしなさいな。ああ、何についての覚悟か説明がいる?」

「……いらねーよ」

「私が言うのもなんだけど、結構茨の道だよね~、浩太。ソニアちゃんだけじゃなくて、エリカでしょ? エミリちゃんでしょ? シオンに私って……よ、色男!」

「茶化すな」

 少しだけジト目で綾乃を睨んだ後、諦めた様な、それでいて穏やかな笑顔を浩太は浮かべて見せる。

「……ま、贅沢な話だとは思うからな。頑張らなくちゃな」

「……うん、頑張って。せいぜい、私に愛想付かされないようにね?」

「善処する。でもアレだな? ソルバニアからだとスケジュール的には厳しいか? 次の訪問日には間に合わない、か」

「テラとソルバニアで片道十日だもんね。ラルキアまでだと……二週間ぐらい?」

「ぶっ通しで来ればもう少し早いだろうけど、それでも無理だろうな流石に」

「まあ、いいんじゃない? エリカも心の準備が必要だろうし」

 そう言ってもう一度『にしし』と笑いながら綾乃はゆっくりと浩太の服の袖をつかむ。

「……どうした?」

「ん。ま、まあほら……せ、折角来たんだしさ? その、あ、味見は冗談だけど、それでも、ほら……そ、その……」

 頬を赤く染め、潤んだ瞳で浩太を見上げて。

「その……ちょ、ちょっとだけ、お話していかない?」

 何時になく可愛らしい仕草を見せる綾乃に浩太は自身の赤く染まった頬を悟られないよう、全力でそっぽを向いた。