一週間後。

俺は、村長の家の二階にある自分の部屋で、窓際に吊るした熊の胆を見ていた。

乾燥した空気のせいか、なるべく温かいところに吊るしていたせいか、良い具合に乾燥してきており、もはや水筒のようにタプンとしていた昔日の面影はない。

色は黒ずみ、シワが寄ってきている。

リフォルムでもらってきたパン種を混ぜ、自分で焼いた硬いパンを噛みながら、俺は物思いにふけっていた。

結局、決戦主義的な方針は変わらず、ルベ家の騎士団が移動を始めたのは二日前のことだ。

なぜルベ家が今頃出発したのかというと、そこには流通の未発達を背景とした、兵站の問題がある。

軍というものは、一地点に集中させるとコストがかかる。

兵には食を与えなければならず、数万人もの軍が消費する食というのは、莫大な量になるからだ。

一箇所に一万人が集まったところで、その周辺数キロ程度の地域には、一万人もの非生産者を養う能力はない。

一日二日程度なら、備蓄や地域の食料庫によって支えられるが、数週間となると、コストをかけて遠方から調達してこなければならない。

それは、舗装道路や鉄道、機関車や自動車などがあれば、簡単に解消する話だ。

遠隔地から大量に物資を輸送する方法があれば、十万人を一ヶ月、同じ場所に留め置こうが、金さえあれば幾らでも食料を運んでくることができるのだから、なんの問題もないだろう。

だが、この世界では、石畳程度の舗装の上を、馬車で資材を運搬しなければならない。

もちろん、軍団はそのための馬や馬車、購入費用を持っているので、調達は不可能なことではないが、時間の経過につれて更に遠方、更に遠方、と食いつぶしていくわけで、切りがないし、遠くなればなるほどコストが上がっていくことを考えれば、やはり限界はある。

そういう事情があり、兵というものは、決戦までは分散させて置くのが良いとされている。

ルベ家の軍が、すぐに決戦場に向かわず、リフォルム周辺で陣を張っていたのは、そのような事情によるものだった。

逆を言えば、決戦場へ移動を始めたということは、決戦が近いということになる。

ぼーっと物思いにふけっていると、カチャ、とドアの開く音が聞こえた。

ドアを見ると、ミャロがいた。

「……? ユーリくん、何を見ているんですか?」

「ああ、熊の胆だよ」

俺は、窓際にブラさげてある奇妙な物体を指差しながら言った。

「へえ、それが熊胆(ゆうたん)ですか」

当然といえば当然だが、ミャロは知っていたらしい。

「熊を獲った時に貰ってきたんですね」

「俺も干したのは初めてなんだがな。完成が楽しみだ」

昔から、こういうせせこましい事をやるのは好きだったんだよな。

大人になってからはやってなかったが、結晶を育てたりとか。

こういうのは、下手に弄ると失敗するから、へんに手をかけないほうがよかったりするんだ。

「実は食べたことないんです」

なんとまあ、ミャロもか。

俺が子どもの頃食わせられたのは、田舎だったからなのかな。

ミャロあたりは、体が弱いから、子どもの頃から強壮剤がわりに与えられていてもおかしくなさそうなものだが。

「ああ、そうなのか。こんなナリはしているが、凄く甘くて美味いんだぞ」

俺がしらじらしい嘘をつくと、ミャロは口元に手を添えて、くすりと笑った。

「うふふ、残念ですけど、とっても苦いことは知ってるんです」

「ああ、そうなのか……」

なんだ。

がっかりだ。

まあ、そらそうだよな。世間知らずのキャロルじゃあるまいし。

「でも、知らなかったほうが面白かったかも知れませんね。知らなかったらよかった」

と、ミャロはなんだか不思議なことを言い出した。

「そういうことはあるかもな。その時のミャロの顔は見ものだろうし」

どんな顔をするのか見てみたい。

「そう考えると、ユーリくんにあられもない顔を晒してしまっていたかもしれませんね。やっぱり知っててよかったです」

「なんだそりゃ」

思わず笑ってしまった。

「うふふ……あれ?」

ミャロの笑みが少し強ばる。

「なんだ?」

「えーっと……あれ……なんだったかな」

段々真面目な表情になってゆく。

「どうした?」

「え、えーっと……すいません、なにかを報告しに来たのですが、忘れてしまいました」

なんだか本気で申し訳無さそうに、慌てた様子で言った。

なんとまあ、ミャロが用事を忘れるとは、珍しい事もあるもんだ。

「いいよ。どうせ大した報告ではなかったんだろう」

ミャロが忘れるということは、どうでも良い報告だったのだ。

ミャロは、外出するときにハンカチを置いてくることはあっても、油鍋を火にかけっぱなしで出かけてくることはない。

有能であることに誇りを持っているミャロにとって、それは自分を裏切る行為だからだ。

それに、本当に重要な、例えば俺が急行して指揮をとらねばならないような喫緊(きっきん)の用件であったのなら、つまらない雑談になどは応じなかったはずだ。

「すいません、確かめてきます」

「いいって。それより茶でも飲んでいけよ」

と、俺は机の上にあった茶のポットに手をやった。

そうして、我が家のように茶器棚からティーカップをとると、それに注いだ。

「ほら、座れ」

椅子まで用意してやる。

「う……。えーっと、よろしいのでしょうか」

「いいに決まってる」

団の他の人間は、馬やカケドリや王鷲の世話をしたりで仕事は作っているようだが、一週間も動かずにいれば、もう馬も鳥もほとんど綺麗なので、今はほとんど暇をしている。

棒きれを振り回したり、若者らしい真剣しゃべり場を繰り広げてみたり、いろいろやっているが、要するに遊んでいるわけで、仕事をしているわけではない。

例外的に、鷲の上手い連中の一部にはやらせてみたいことがあるので、日に一時間ほど、鷲が疲れない程度に訓練させているが、これも仕事というほどの仕事ではなかった。

その間を駆けまわって仕事をしているのがミャロなわけで、言うなれば一番まともに働いているわけだ。

少しくらい休んだところで、責められるいわれはない。

「じゃあ……失礼します」

と、ミャロは椅子に座った。

机を挟んで反対の席だ。

「食うか?」

俺はずいっとパンの入った籠を送った。

「えっと、食べていいんですか?」

食べていいかもなにも。

「なんだよ、ミャロ、ちょっと緊張しすぎだろ」

「緊張ですか?」

ミャロは小さく首を傾げた。

どうも自覚してないらしい。

「寮の食堂じゃ、食べていいんですか? なんて俺に許可を求めたりなんかしてなかっただろ」

いつものように、じゃーいただきます。と言ってパクパク食べればいい。

ていうか、見るからに堅くなってるしな。

「……それはそうですけれど、軍務中なので」

まあ、そりゃ確かにそうだが。

「いいんだよ、俺と二人の時くらいは。軍務中とはいえ、息抜きは必要だ」

だから夜間に当直を作って当直外は飲酒可、とかしてるんだし。

そうだよ、他のやつは飲酒までしてるんだから、気兼ねなんかする必要はない。

「それはそうかも知れないですが」

「それとも、俺と一緒じゃ息抜きにならないか?」

「まさか! そんなことはありません。とても楽しいですけど……」

「じゃあ、ほら、食ってみろよ。まだ暖かい」

パンというのはなんといっても焼きたてに限る。

「はい……じゃあ頂きます」

ミャロは、大きなパンを手にとって、半分に割いて、片方を口に入れた。

もぐもぐと食べると、

「とても……美味しいですね。パン職人のパンより美味しいかも」

などと言い出した。

まあ、普通のパン屋は、こんな贅沢にバターを使ったりしないからな。

バターをねりこんだ生地に、中にゴロゴロとチーズをいれて、焼きあがった後さらに塩を強めに効かせたバターを塗った。

おそらくカロリー的には凄いことになっているが、贅沢なチーズ入り塩バターパンだ。

「口にあったか」

「はい。ユーリくんはなんでもお上手に出来るんですね」

なんか褒められた。

「ミャロはなんでも褒めてくれるな」

褒められるのはいつになっても慣れない。

どうやって喜んでいいものかわからないのだ。

褒められるというのは怖い。

それで驕ってしまえば己の毒になるし、人によっては猿を木に登らせる要領で、自分のいいように他人を使うために褒める人間もいる。

そんな俺の気分を察したのか、

「なんでもではありませんよ」

とミャロは言った。

「そうか?」

そうでもないと思うが。

「じゃあけなしてみましょうか」

けなすとか。

「え……なんだ、面白そうだな。やってみてくれ」

考えてみれば、ミャロにバカとか間抜けとか言われた経験はないな。

「えっと……ユーリくんはものぐさですねー。髪に寝ぐせがついてますよー、人はそういう所から駄目になるのにー」

「ああ、寝癖がついてたか」

思えば、今日は鏡を覗いていなかった。

手で髪をいじってみると、なるほど寝癖っぽいのが手にひっかかる。

どうでもいいっちゃどうでもいいが、団員の前で間抜けヅラを晒す事を考えると、取っておいたほうがいいわな。

あとで水でも被って取っておこう。

「うふふ、ほら、なんでもではないでしょう?」

いや……。

けなしたつもりだったのか、さっきのは。

「うーん……まあそうか」

「寝ぐせがついてますよ、かっこいいですねー、とは言いませんよ。ふふ」

寝ぐせが格好いいとか、そんな褒め方は聞いたことないんだが……。

逆に馬鹿にされたように感じるだろ……。

「じゃあ、こっちは逆に褒めてやろうかな」

そして困らせてやろう。

「はい?」

「いやーミャロは好く気がつくし頭もいいし、なにより博識だし、世知にも長(た)けてるし、有能を絵に書いて額に嵌めたような奴だなー」

「え……」

「それに努力家だし、裏切る心配もないし、顔もいいから見てて気分が和むし。本当に褒めるところがありすぎて筆舌に尽くしがたい」

「えっ……あ、あの……えっ……」

それだけ言うと、ミャロは、両手でぴったりと顔をおさえ、顔をそむけた。

なんだそれ。

いないいないばぁでもはじめる気か。

「どうした? 褒められたりないか?」

「や、やめて……だめ……だめです」

震えた声を返してくる。

「うれしすぎて顔が……うぅ、にやけてしまいます」

「にやけてんのかそれ」

顔を隠すほどか。

見たい。

でも、無理やりそれをすると、ミャロの両手を押さえつけて、俺が襲っているような格好になってしまいそうだ。

やめておくか。

そのまま、たっぷり二、三分はたっただろうか、

「ふーー。落ち着きました」

と、ようやくミャロはこっちに向き直った。

なんだったんだ一体。

「ユーリくん駄目ですよ、あんな風に人をおだてたら」

「別に普通に思ってることを言っただけだけどな。無理におだてたわけじゃないぞ」

「もうっ……あっ」

ミャロが何かを思い出したように固まった。

「元々の用事を思い出しました。馬が桶を噛ったり岩や樹を舐めたりするので、塩が足りないのではないかという話になって、リフォルムまで買ってくるそうです。お金を渡しておきました」

なんだ、やはり大したことのない報告だった。

「ふーん、まあそれはいいが……悪いな、面倒をかけっぱなしで」

「いえ、今のボクはユーリくんが面倒に煩わされないために居るようなものですから」

そりゃまた便利な話だ。

俺じゃなかったらヒモでも養うことになってたんじゃないかこいつは。

いや、元からヒモになるような男は一顧だにしないか……。

「働きたがりは感心だが、ちゃんと休んでおけよ。今は、休みすぎなくらいで丁度いいんだから」

「そうでしょうか?」

ミャロは懐疑的なのか、腑に落ちない顔をした。

「もう少ししたら、休むどころじゃなくなる。帰路が順調にいくとも限らない。肝心要のときに余力が目一杯なかったら、話にならないからな」

「ああ、それはそうですね」

「仕事は助かっているが、ほどほどにな」

我ながら思うが、昼間っからボーっと椅子に座って熊の胆が乾くのを見ていた男の台詞じゃないな。

どんだけ偉そうなんだ。

「はい。わかりました」

ミャロは嫌そうな顔もせず、頷いた。

「では、休憩もしたことですし、そろそろ行きますね」

「ああ」

また仕事だろう。

頭が下がる思いだ。

「それでは」

ミャロは、扉を締めながら軽くそう言うと、部屋を出て行った。

俺は外を見ながら考え事に没頭する作業に戻り、気がついたらパンは冷めてしまっていた。