The Former Hero Wants To Lead An Ordinary Life

162. The Brave is the second part of the encounter.

この世界に転生し、俺は一度も魔物に遭遇したことはなかったし、物語(フィクション)以外で魔物の話を聞いたこともなかった。

今の状況を現実として認めたくないのは、誰よりも俺自身かもしれない。

……これが、時々今でも見てしまう悪夢だったらいいのに、と現実逃避したくなる心を叱咤し、頭を目まぐるしく働かせる。

(どうする…)

米良は恐れかパニックを起こしているのか、一向に動かない。

――俺も、逃げるとは言ったが、どこへ逃げるべきか、考えあぐねていた。

逃げて……追われた場合、この状態のルカを引き連れて寮へ戻ればそれこそ生徒たちを危険にさらすことになるし、論外だ。

携帯電話で誰かに助けを求めるにも、――前世ならともかくこんな異常事態へ即座に対応できる人間などすぐには浮かばない。警察だって困るだろう。この学園にいるかつての仲間が頭に思い浮かぶが、彼らだって今はこれをどうにかできるとは思えない。魔力はもちろん、ロクな武器もないのだ。

俺にしたって、懐にカミソリ一本忍ばせているだけである。カミソリではさすがに歯が立たないだろう。

(それに……)

もし、このクワガタの存在が公になればルカは即殺処分されるか、運が良くても捕獲後に解剖コースという末路が待っているに違いない。

米良が、そんな結末を望むだろうか。

――俺は、もう「勇者」ではない。

自分の好きに行動できる。

すぐに逃げ出すかと思われた米良は、まだその場に留まり続けている。俺は横目で米良を窺った。案外肝が据わっているのか、一瞬垣間見た米良の視線は、まっすぐにルカへと向けられていた。俺も目線をすぐにルカに戻し、そっと口を開いて小声で囁く。

「ルカは、あんたに懐いているんだよな。……落ち着かせることができるか?」

異形を恐れ排除するだけではなく、もし対話し――共存の道がわずかでも残っているなら、それを試してみる価値もあるのではないだろうか。

「……やってみる」

決意の滲む声が米良から返ってきた。その声の強さに、先ほどまであった動揺の色はない。

俺の脳裏には寄り添う魔王とハチコウの姿があった。

あいつらだって異種だ。

それでも心を通わせ、そこに確かな絆が存在する。

希望や可能性はある、――はずだ。

「ルカ…! 僕だよ、芳樹(よしき)だよ…! 君を、迎えに来たんだ…! ごめん…僕が、悪かった。ずっと…ずっと一緒にいて、苦楽を共にしてきたのに。誰よりも僕を支えてくれていたのに、……君を、放り出すような真似をして。すごく後悔した。だから、……僕のところに帰ってきてくれないか? どんな君でも、僕は愛する自信がある…!」

…………………なんというか、まるで喧嘩して出て行った恋人を連れ戻すためのセリフみたいなことを口走る米良に俺は一瞬ぽかんと現状を忘れた。熱烈な愛の告白にも聞こえるが、忘れちゃいけないのは相手は嫁でも婚約者でも恋人でもなく、ペットのクワガタである。しかも自分の背丈ほどに巨大化した。ちなみに頭にハサミがついているのでルカはオスだ。雌雄の区別くらいは俺にもわかる。

これ、寮に連れ帰ってどうする気だよ……。

大騒ぎになるぞ。

わずかばかりの希望や可能性に賭けたつもりだったが、米良に任せていては明るい未来への展望は得られないかもしれない……。

俺としては、ひとまず気が立っているルカを落ち着かせて、ハチコウのように裏山で大人しく自活してくれたらと考えていたのだけど、寮に連れ帰るというなら話は別である。

「……おい、寮に連れて帰るのはさすがに無理があるぞ。どこで飼うんだよ」

「前みたいに部屋で一緒に暮らせばいい」

それが無理だから外に逃がしたんだろーが。

俺も夢見がちだったが、米良の方が輪をかけてひどかった。

そして、肝心かなめのルカ氏の反応はイマイチである。

黒光りする大顎を開閉し、こちらを威嚇する様子をみせてくる。米良の言葉が届いている気配は残念ながらなかった。

「……あのさ、そもそも虫に……クワガタに耳ってあるんだっけ?」

「耳の位置は昆虫によって違うが、クワガタは前脚についている。そこで空気の振動を感知できるから、音にも敏感に反応するんだ」

クワガタ博士はよどみなく答えてくれたが、……なんとなく言葉の壁はハチコウよりもさらに厚い気がする。前脚についてる耳ってどんなだよ、想像つかねぇ…。

「ルカ…、頼むよ。戻ってきて」

哀れに懇願する米良に、しかしルカは無情だった。

頑丈な脚を伸縮させ、――次の瞬間、ルカがその巨体を宙に躍らせ、俺たちの方へ尖った顎を突き出しながら飛び掛かってきたのだ。

俺はとっさに横の米良を突き飛ばして地面の上を転がった。

ルカは明らかに俺ではなく米良を狙っていた。

ずん、と地響きをたて、俺たちのいた場所あたりにルカが着地する。

落下した地点の土が頑丈な大顎によって草ごと抉られたありさまを見て背筋がぞっとした。あれが直接に自分や米良に当たっていたら到底無事では済まなかっただろう。 

どうする……なんて考えている暇はなかった。

ルカが大顎を広げて、再び米良に向かって突進していったからだ。

鋭く先のとがった顎を振りかざすルカを、信じがたいという顔で地面に倒れた体勢のまま身動き一つできずにただ見つめるだけの米良の前に、俺の身体は気付けば勝手に飛び込んでいた。

瞬間、右わき腹に衝撃が走る。

大顎に身体ごとぶつかるようにして米良から軌道をぎりぎり反らしたものの、顎の先端が俺のわき腹を掠めていった。

腕の力だけで突進の勢いをいなすことはさすがに無理だった。

遅れてやってきた痛みと熱に顔をしかめながらも、掴んだルカの大顎から手は離さず、背後の米良に叫ぶ。

「とにかく逃げろ!」

ルカはおそらくもう米良の知るルカではない。

よしんば米良のことを覚えていたとしても、――今のルカからは飼い主への親しみは感じられない。むしろ憎しみの方が強く伝わってきた。

クワガタに心があるかどうかはわからない。

でも、ギチギチと歯ぎしりするように威嚇音をあげるこいつは、自分を捨てた米良に憤りを向けているように見えた。

それが悲しみからくるのか恨みから来るのか。

俺にはわからなかったが、こいつが米良にターゲットを絞って攻撃していることだけは確かだ。

「でも…ッ」

ルカを押さえる俺を見て、米良がよろりと立ち上がりながらも迷いを見せる。自分だけ逃げることなどできないとその目が訴えてくる。米良は俺が思っていたよりも根性があるやつだった。だが、今その根性はいらない。むしろ邪魔だ。

「こいつが狙ってるのはおまえだ! 俺が抑えてるうちにさっさと行け! 寮の方には逃げるなよ!」

俺は米良の躊躇いを一喝した。

とにかく米良を先に逃がすことが最優先だ。戦うにしても逃げるにしても、米良と一緒ではやりにくい。

「早くしろ!」

なおも迷いを見せていた米良だったが俺の張り上げた声に、ようやくこちらに背を向けて走り出した。

寮とは反対側のF校舎の方へ。

この時間帯ならまだ登校する生徒もいないだろうから良い判断だった。

米良が逃げ出したことに敏感にルカが反応した。

脚にあるという耳で聞いているのか、他の感覚器で察知しているのかはわからないが、ルカには米良がわかるのだろう。

大顎をやみくもに振るって俺を吹き飛ばそうとする。

「追わせねぇよ」

激しく動くルカを力ずくで抑え込む。わき腹を激しい痛みが襲ったが、米良の姿が完全に視界から消えるまで俺は手を放さなかった。

わき腹だけでなく、大顎についた棘に引っかかれた腕にも傷が見る間に増えていく。

Tシャツに滲んだ血を見て、俺は覚悟を決めた。

――米良には悪いが、共存の道は捨てる。

心を決めた俺の行動は早かった。

大顎を軸に地面を蹴る。

ひらりと足で空を裂いて、大顎の根っこ、つまり頭部へと踵落としを食らわせた。 

『魔物の急所がわからんときは、とりあえず頭に一発ぶち込め』

という、師匠の言葉に従ったのだ。

この師匠の教えのせいで単純な俺は、聖剣で魔物の首を飛ばしまくるわりと血生臭い「勇者」になったのだが……、おかげで『首狩り勇者』なんて禍々しい二つ名を頂戴したりしたのは明らかな黒歴史だろう。

ルカは俺の踵落としに怯みはしたが、倒れるわけでも気絶するわけでもなく傷もついていないようだった。

……むしろ俺の踵の方が負傷した。かなり痛い。打ち身ならいいが、下手したら骨にひびの一つくらいは入っていてもおかしくないくらい痛かった。今の俺の身体は、いくら鍛えても「勇者」のようにはならない。あたりまえだがただの高校生で、常人だ。

「くそかってぇな…」

強度もアップしているとか、ギルド印の「栄養剤」効きすぎだろう。ギルド許すまじ。そして師匠のウソつき。

それでも多少のダメージを与えることはできたのか、ルカのヘイトが米良から俺に移ったようだ。

米良が逃げた方向ではなく、踵落としの後にジャンプして距離をとった俺の方にルカが突進してきた。

大顎で挟み込もうとしてくるのを、木を盾にして躱す。

めりっと樹皮が抉れ、木肌にささくれだった白い傷がつく。

……その傷跡はさきほど目にしたものに酷似していた。やはりあれは熊ではなくルカの仕業だったのだ。

とりあえず真っ向勝負は避け、いつもの戦法へ移行することにした。つまり――

(逃げる)

俺は寮の方でもF校舎の方でもなく、もう一方の人気のない場所、裏山の斜面の先にある崖の方角へむけて走りだす。

もちろん今回はただ逃げるだけで終わるつもりはなかった。この巨大クワガタを島に野放しにするわけにはいかない。米良が手なずけることに成功していたならば、もしかして別な道もあっただろうが、……ルカは米良を拒絶した。

ハチコウと魔王の関係のようには早々うまくはいかないってことだろう。

腹に張り付いたTシャツがべたついて気持ち悪い。

汗ではなく、血だ。

紺色のTシャツで良かった。目立たないで済む。……なんて馬鹿なことを考える余裕がまだこの時の俺には残っていた。

ちゃんと勝算もあった。

無策だったわけではない。

このままルカを誘導して、崖から落とすつもりだった。

……さすがにあの高さから落ちればいくら頑丈でも無事では済まないだろう。

上手くやれるつもりだったのだ。だけど――

「うそだろおい……」

崖の上、開けた場所までたどり着いた俺は、本日何度目かになる驚きに目を瞠(みは)った。

俺を追ってきたルカの黒い背の下から、薄茶色の羽があらわれ、それが大きくひらかれた。空気を震わせる微細な振動音があたりに響く。

ふきっさらしの崖上に吹く強い海風にも負けない羽音をたてて、その巨体が宙に浮きあがった。

完全に失念していた。

そうだ。

クワガタは飛行可能な昆虫だった…。

(だけどそのデカさで空を飛べるとか思わねぇだろ普通!)

黒いボディーは鉄のように頑強でいかにも重そうなのに、その身体はまるで重力のくびきから解き放たれたように空を舞う。

なかば呆然としていると、上空からルカが一直線にこちらへ突っ込んできた。俺はそれを寸でのところでスペインの闘牛士のごとく躱すことに成功した。

しかし、息つく暇もなくすぐに空中で向きをかえて再び襲ってきたルカの大顎が、わき腹の痛みに動きが鈍り避ける感覚が甘くなった俺のTシャツを引っ掻ける。

「――っ!?」

俺はルカごと崖の上から宙空へダイブした。

朝日の照り返しを受けてきらめく海面が、視界の端へやけに綺麗に映り込む。

振り落とされまいと反射的に大顎を掴んだところで、――俺は手のひらに感じた違和感に愕然とした。

「マジかよ…」

ルカの大顎が見る間に小さく縮んでゆく――。

(まさか、)

こんなところで薬の効果が切れたってことか!?

――すでに俺の身体はルカごと落下を始めていた。

崖から落とす計画は、成功といえるだろうが…、――自分まで落ちるつもりはなかったのに。

空中でほぼ元の大きさになってしまったルカに手を伸ばす。

指先がもう少しで届くというところで……、

俺の身体は強く海面に打ち付けられ、激しい水音と白いしぶきをあげて海に沈んだのだった。