黒ずんだ毛に、その一つ一つの毛が棘のように尖っている。牙は鋭利に曲がり、その巨体を支える脚は筋肉が詰まっているかの様に太く逞しい。名を確かバーサクウルフ。獰猛で同族すら補食対象と見なす凶悪な魔物。そう思い出しながらシャティアは向かって来るバーサクウルフに腕を振るった。

「グォァアアアッ!!」

魔力波によってバーサクウルフは吹き飛ばされ、広場の中心辺りまで引き下がる。シャティアは魔族の子供に被害が行かないようにそちらに移動し、うなり声を上げているバーサクウルフと対峙した。敵の事をまじまじと観察しながらシャティアはふと思いついたかのように首を傾げる。

「バーサクウルフ……獰猛な魔物であるお前が商品として扱われるとは、魔族は本当に強欲な生き物だな」

魔国には魔物を売り買いする商法が存在する。調教し、主人の命令を従順に聞くようにして他の魔物と戦わせたり、または見せ物にしたりする。そういう物が彼らの流行であった。

シャティアとしては自然を愛する身としてそのような事はあまり好まないのだが、魔族が捕まえる魔物はどれも凶悪だったり街を襲う魔物だったりする為、口出しはしなかった。

だが限度と言う物も存在する。今回は魔物自体の強さが許容量を超えているという限度。バーサクウルフはその巨体から分かる通り並の魔物とは違う。彼らに同族を喰らう習性がある事から、生き残っているバーサクウルフはその弱肉強食を生き抜いて来た強者でもある事が分かる。故に危険であるのだ。

「グォォアアアアアアアッ!!」

恐らくはそれなりの場数を踏んだであろうバーサクウルフは咆哮を上げて辺りの屋台を前足で吹き飛ばした。シャティアが魔法を使うのを見て警戒し、遠距離からの攻撃の方が有利だと本能で判断したのだ。だがそれは間違いであった。シャティアにとって近距離での戦闘こそ最も敬遠する物であり、遠距離での攻防は彼女の得意分野であった。飛んで来た瓦礫をシャティアは魔法の盾で防ぎ、続けて指を走らせるとシャティアは手の平に魔力の球を形成した。

「まずはそのうるさいお口を塞いでやろう」

手を振るって無数の魔力の球を放つと魔力の球は高速で回転しながら飛んで行った。バーサクウルフは屋台を吹き飛ばしてそれを壁代わりに利用しようとするが、魔力の球を屋台の隙間を通り抜けるとそのままバーサクウルフへと直撃した。

「ゴゥァアッ!!」

バーサクウルフは一瞬怯むがそこまでのダメージでは無い。煙が晴れるとバーサクウルフは身体を振るわせ、突如体毛が鋼のように硬くなり、針のごとく鋭く伸びた。それが飛び出し、シャティアに向かって飛んで来る。シャティアはそれを間一髪の所で顔をズラして避け、感心したように口笛を吹く。

「ほぅ、それは初めて見た」

バーサクウルフは極度のストレスを感じたり外的から身を守る時に体毛を鋼のごとく硬くさせる。それはシャティアも観察して知っていたのだが、吹き矢のように飛ばす事が出来るのは知らなかった。シャティアはまた一つ知識を埋める事が出来、嬉しそうに頬を緩ませた。

バーサクウルフは再び体毛を硬くして針を放つ。しかし今度のはシャティアは避ける事もせず、飛んで来た針を片手で受け止めてしまった。

「だがもう理解した。その程度で倒せる程我は安くないぞ?」

指先で針を回しながらシャティアは笑い、そう言葉を零す。

所詮は一時的に体毛を硬くして殺傷力を持たせただけの即席武器。十分な早さを持っていないし精密さも無い。この程度なら一度見ればシャティアなら対処するのは簡単だった。

バーサクウルフは恐怖する。目の前の敵には自身の力も針も効かない。今まで数え切れぬ程の同胞を倒して来た彼にとって、初めて直面する格上の敵だった。だがそれでも彼は引かない。ありったけの力を脚に込め、身を屈める。

「ゴォァアアアアアアアッ!!」

「罪の枷」

牙を剥いて咆哮を上げ、飛び掛かってくるバーサクウルフにシャティアは魔法の拘束具を取り付ける。素の戦闘力が高いバーサクウルフから魔力を奪った所で意味は無いが、それでも動きを封じるには十分な手段。動けなくなったバーサクウルフに向かってシャティアは無慈悲に手の平を翳した。

「そい」

力の込もっていない掛け声と共に轟音を響き渡せる巨大な魔力砲が放たれた。動く事が出来ないバーサクウルフは当然それを全身に浴び、砂埃が収まるとそこには黒こげになったバーサクウルフが立っていた。死んではいない。バーサクウルフは小さなうめき声を上げるとその場に崩れ落ち、シャティアもそれを確認すると魔法の拘束具を解いた。

「まぁ、こんな物かね」

いくらバーサクウルフと言えど一体ならシャティアにとってそこまで脅威では無い。どれだけの同胞を喰らった所でこちらは千年以上を生きる魔女。その実力差は明らかであった。

シャティアは小さくため息を吐いて肩を回し、ほぐすように首を回した。そして子供が無事かを確かめる為に市場の方まで戻ると、そこには魔族の人集りが出来ていた。

「あ、貴方、銀の旅人でしょ! 銀髪で、いつもフード被ってる人!」

「噂は本当だったんだ! 商人達を盗賊から助けた謎の旅人……凄い!」

どういう訳か魔族達はシャティアが銀の旅人と名乗っている事を知っていた。いや、よくよく考えればそれは必然の事であった。シャティアは魔王城に来るまで何度も魔族を助けていた。ある時は商人の親子、ある時は旅人、ある時は村人達、そうやって助ける度にシャティアは自身の事を銀の旅人と名乗っていた。それならば自然と噂が広がるのは当然である。が、まさか此処まで噂が広まるとは思っていなかった為、シャティアは戸惑ったように尻込みした。

「是非お礼させてください! 貴方はたくさんの魔族の人達を助けてくれました! 是非お礼を……!」

「あー、いや……我はちょっと用があってな」

魔族はシャティアに迫りながらそう感謝の言葉を述べる。感謝されるのはシャティアとしては有り難いが、自身の姿を見られる訳には行かない。幻覚魔法で変装すれば良いだろうが、こんな民衆の中で魔法を行使する訳には行かない。何かの拍子でバレる可能性もある。シャティアは焦りを覚えた。

「す、すまんが我は此処で退散させて頂く」

結局シャティアは逃げ出す事にした。その場から走り出し、狭い路地裏へと逃げる。何人かの魔族達も追いかけて来たが、シャティアが浮遊魔法で屋根の上まで避難するとあっという間に姿を見失ってしまった。

追っ手が居ない事を確認し、シャティアは疲れた様にため息を吐いて肩を落とした。フードを少しだけズラして顔を出し、シャティアは澄んだ瞳で街を見下ろす。

「……はぁ、やれやれ。我はどうも損な性格をしておるな」

シャティアは何処か寂しげにそう呟いた。

昔、誰かにもそんな事を言われた覚えがある。シャティアからすればただ自分の良心に従って行動しているのだが、それが原因で大変な事になってしまう、なんて事が多々あった。知らぬフリをすれば、無視をすれば、それだけで良い事なのにシャティアはどうしても首を突っ込んでしまう。彼女はもう一度ため息を吐くと指先で首を掻いた。

ふとシャティアは動きを止め、目つきを険しくするとフードに手をやって深く被り直した。息を潜めながら静かに目線だけ後ろの方へとズラす。魔力を感じ取ったのだ。そして案の定、屋根の上には魔族の姿があった。

「貴殿を銀の旅人とお見受けする」

「……シェリス」

その魔族はシャティアも知る人物であった。黒髪に深紅の瞳をした女性、エメラルドの時にその場に居た魔族達の体調であるシェリスであった。彼女には聞こえないように名を呟きながらシャティアは意外そうに彼女の顔を見つめる。そしてそれを同意だと受け取ったのか、シェリスは話を進めた。

「魔王様が貴殿とお会いなりたいとの事だ。招集に応じろ。応じ無い場合はそれ相応の対応をさせて貰う」

「……ほぉ」

シェリスは懐から招集状らしき紙を取り出すとそれを広げて読み上げ、シャティアにも見えるように翳した。シャティアはそれを聞いて面白がるように薄目になり、また普通の目つきに戻るとゆっくりと立ち上がった。

「それはまた光栄な事だ。是非とも我も魔王殿とお会いしたい」

シャティアは臆する事なくその申し出を受け入れた。むしろ自分にとっては利しか無い機会である為、好意的に受け入れた。シェリスはその話し方を聞いて何やら引っ掛かったような表情をしたが、それは自身の仕事には関係無い為、気にせずシャティアを魔王城へと連れて行った。

道を歩き、長い橋を越え、シャティアは魔王城の門の下を潜らされる。巨大な扉が開き、ようやく城の中に入るとそこは巨大な広間になっていた。何本もの柱が設置されており、赤い絨緞が奥へとどこまでも続いている。時折城の兵士らしき魔族達が徘徊しており、ドス黒い鎧を纏っていた。シャティアはそれをまじまじと観察しながらシェリスへと付いて行く。その間もしっかりとフードは深く被り、辺りに警戒を配っていた。

やがてシャティアは長い通路を歩き続け、一つの部屋の前に連れて来られた。先はどうやら王の間のような部屋では無いらしい。という事はこれは表向きな物では無く、内密的な会談という事だろうか、とシャティアは首を傾げる。

そしてシェリスが小さくノックすると、扉の向こうから男の声が聞こえて来た。恐らく魔王の物だろう。

「入れ」

確認が取れたらしく、シェリスはそう言うと扉の横にズレてシャティアにそう言った。シェリスは付いて来る様子は無いらしい。という事はやはり内密的な物なのだろう。シャティアはそう判断して小さく頷くと、ゆっくりと扉を開けて部屋の中へと入った。

そこは本当に小さな客間だった。テーブルの横に赤いソファが添えられ、テーブルの上には蝋燭が置かれている。本当にそれだけの小さな部屋。そんな薄暗い部屋の中で一人の男がソファに座っていた。それはシャティアも昔会った事がある、懐かしい人物だった。

「久しぶりだな、ベルフェウス……今は魔王ベルフェウスか?」

「……シャティファール」

シャティアがフードを取りながらそう言うと、ベルフェウスは確信を得たように目を細めてシャティアの少女の姿を見つめた。二人は大きく変わった。片方は立派にたくましく成長し、もう片方は随分と小さくなってしまった。初めて会った時は真逆の立場となった。だがベルフェウスは静かに感じ取る。目の前に居る少女は姿形は変われど、その内に潜める魔力は小さくなる所かより強大になっている事を。

ベルフェウスはやはり魔女は別次元の生き物だという事を改めて再確認し、小さくため息を吐いた。