『本日臨時休業致します』――貼られた一枚の紙に、走り書きされたその言葉。
一瞬躊躇ってから、ナツはゆっくりドアを押し開ける。そこではスプートニクの他に、二人の警察官が待っていた。
クリュー誘拐の一報から、一時間は経ったろうか。
アンナ曰く、散歩をしていた彼女の弟がたまたま、気絶したクリューを二人の男がどこかへ連れ去っていくのを見たのだという。何が目的なのかはわからなかったが、犯人たちが、連れ去る際、宝石がどうこうと言っていたのを聞いた、というアンナ弟の証言から、スプートニク宝石店への身代金請求あたりが濃厚な線として挙げられている。
警察局への連絡は、ナツが居合せたこともあり早かった。そのおかげで捜査本部の立ち上げから捜索まで迅速な処置が取れているのは、不幸中の幸いだ。
ナツの姿を認めると、二人は彼女へ敬礼をした。それに目礼だけで返して、早足でスプートニクに近寄る。彼の方は近寄るナツの気配に少しだけ顔を上げたが、すぐにまた視線を床へ戻してしまった。
「……犯人から、連絡は?」
本来なら聞くべきは彼へでなく、警察官に対してだったが。
意気消沈の様子のスプートニクを見ると、話しかけずにはいられなかった。
「ない」
返事は、一言だけ。
以降は俯いたまま、無表情で、何も言わない。けれどそれは何も思っていないというのとは少し違い、ともすれば溢れてしまいそうな何かの感情を、必死に押し殺しているように見える。さすがの彼も、従業員が攫われたとなれば動揺するのだろう。
事件に巻き込まれた被害者家族の心情は察するに余りある。それがたとえ傍若無人なスプートニクであってもだ。いや、むしろ、普段それだけ自由にしている彼だからだろう。これだけ静かになられてしまうと、逆に心配だった。憔悴して見えるのは、昨晩ほとんど寝ていないから、だけではないはずだ。
けれどいい報せがある。ナツは、不自然にならない程度に明るい声音でスプートニクに話しかけた。
「あのね、スプートニク。クリューちゃんと、彼女を攫った奴らが、街外れの三番倉庫にいるのがわかったの」
「……三番倉庫?」
どこを見ているのかわからなかった灰の瞳に、焦点が戻った。
俯いた首がゆっくりと上がり、彼女を映す。まるで、彼女の言葉に一縷の希望を見出したような――彼もこんな目をするのだと、少し驚く。
ナツは彼を元気づけるよう、大きく頷いて見せた。
「そう。今、警察局が、犯人に気づかれないよう密かに周りを固めているわ。大丈夫、クリューちゃんはもうすぐ助けられる。だからあなたも、あまり……」
「何分だ」
気に病まないで、と続けようとしたとき。
スプートニクが、ぼそりと言った。
「え?」
「警察局が突入、クーの身柄を確保できるまで、あと、何分かかる」
ああ、なるほど。一刻も早く助けてほしいということか。
なるべく穏やかな声で、宥めるように、答える。
「大丈夫、あと二十分も要らないわ。私たちに任せて。――クリューちゃんは絶対に助け出すから」
すると彼はおもむろに立ち上がった。のろのろと歩き出す。
どこに行くのか、と声をかけるまでもなかった。宝石加工室の前で足を止め、
「……加工室にいる」
ぼそりと、聞き取りにくい声音でそう言うと、ドアノブを捻って中に消えた。ドアを閉じる音もまた、普段のそれより弱々しい。
警察官二人の、どうするべきか、という視線が彼女を向く。
ナツは小さくかぶりを振った。
「一人にさせてあげなさい」
彼の消えていったドア。
揺れない『宝石加工室』の札から、彼女はそっと目を逸らす。
――然し乍ら。
後ろ手にドアを閉めると、彼は静かにドアノブから手を離した。
ゆっくりと顔を上げ、室内を見回す。薄手のカーテンを越えて差し込む光が、部屋中を照らしている。彼の大事な仕事部屋であり、商売道具の眠る場所だ。作業中でない今、テーブルの上はきれいに片付いている。棚に並んだ瓶は、洗浄剤だけが残り少ない。
細く長く、息を吸う。煙の味がしないことに物足りなさを覚えるが、煙草の脂(ヤニ)で道具を汚すのは嫌だった。
天井を仰ぎ、思いを馳せる。
あの女警部は言っていた。――大丈夫、あと二十分も要らないわ。
「二十分、ねェ――」
呟く。
同時に、表情を殺すことをやめた。
その頬に、抑えきれない笑みが湧く。
喜びではない。――怒りにだ。
「――五分もあれば、充分だ」
そして彼は机の上から、愛用の腰袋を取り上げる。