「昨日、魔法を使って魔女協会に連絡を致しました。――スプートニク宝石店に確かに予告状が届いていたことと、店主から援助は不要である旨を伝えられたことを、です」

椅子に腰かけ、簡単な挨拶を終えたイラージャが切り出した言葉。スプートニクはそれを、カップを傾けながら聞いた。

スプートニクとイラージャの前、作業用机に置かれた二つの来客用カップは、先ほどクリューが「お客様でないとはいえ、何も出さないのは失礼にあたりますから」と持ってきたものである。

これは有難いと受け取ったが、しかし差し出されたそれの中身は茶ではなくただの白湯であった。予期せぬ中身に絶句したスプートニクへ、彼女はにっこり笑いかけると「お客様でないのですからこの程度で充分ですね?」と吐き捨て出て行った。小姑か。

温く味のない、旨くもないただの湯を、舐める程度に口にする。そのときふと、小さな疑問を抱いた。

「通常、魔法使いは、リアフィアット市では魔法はほとんど使えないんじゃないのか」

「ええ。ですが送受話程度の簡単な魔法なら可能です。私には無理ですけれど、ソアラン様ほどの力があれば。とはいえそれでも、雑音の多い不鮮明なものとはなりますが」

「成る程。……で、報告の結果は?」

「協会は我々二人に、帰還を命じました。魔女協会は、今回の魔法少女の件に関わらない、とのことです」

「それは重畳」

極力意地悪く見えるよう笑ってやる。予想通り彼女は不快に頬を歪めたが、それはすぐに消えた。

「で? アンタはそれを伝えに来たのか」

「いいえ」

スプートニクの問いかけに、しかし彼女はかぶりを振った。――半ば予測していたことだが。

それでは何をと尋ねるまでもなく、イラージャはその続きを答えた。潜めた声でゆっくりと、まるでそう語れば自身の心中が彼に伝わるとでも言うかのように。

「頼みというのは、他でもありません。私を、魔法少女のやって来る現場に立ち会わせて頂きたいのです」

その申し出にスプートニクが欠片も動じなかったのは、これもまた、予想していたことだったからである。引こうとする上司(ソアラン)に、一度とはいえ抗議した彼女の姿を、彼は忘れていなかった。

驚かぬ彼に彼女が何を思ったか、それはスプートニクには定かでない。特に知りたいとも思わず、ただゆるゆると首を振った。

「言っただろう。俺は――」

「魔女協会の人間としてではなく!」

しかしそれを遮り、彼女は言った。喉の奥から絞り出したような声であったのは、叫びたい衝動を必死に堪えた成果だろうか。下手に騒げばクリューが来る、そうなればこの話し合いの席すら立ち消えになる――切羽詰まった様子の彼女に、そこまで計算出来ていたようには思えないが。

彼女の机の上で組んだ両手に、力が入るのが見て取れる。

「一人の人間として、イラージャ個人として。置いては頂けませんか」

正しい回答を見つけられず、机に肘をついたまま彼女を眺める。笑わない、生真面目そうな緑の瞳。やがてゆっくりと頭を伏せ、彼女のそれが長い睫毛に隠れる。その動作が辞儀であるとすぐには気付けなかったのは、続いた物言いがあまりに切羽詰まったものだったからだ。

「見返りも、用意致しました。私のお願いは、取引は、あなたにとって悪い条件でもないはずです。……もう、時間がないのです」

組まれた手は声と同じように震えていた。泣いているわけでは、ないようであったが。

俯いたことで、彼女の右耳に掛かっていた髪が一房ほつれてさらりと落ちる。そのまま、他に何も言うことはないとばかりに沈黙した――が、これでは拒絶するにも譲歩するにも、まったく情報が少なすぎる。

スプートニクは「仕方ねェな」と呟いて、頭を掻いた。

それを聞き留めたらしくイラージャがはっと顔を上げる。決して慈悲をくれたわけではないぞと心の中で前置きしてから、スプートニクは淡々と言った。

「時間がない、ってのは何だ。アンタと俺の取引ってのは、俺にとってのメリットってのは何だ。アンタの説明は諸々足りん。全部聞いてやるから、取り敢えず、話せ」

すると、彼女の視線が泳いだ。どこから話すべきかと迷っているというよりは、どこを話せば納得してくれるかという打算か計算を行っているようである。しかしそれは、対スプートニクの情報戦で勝利を収めたいというよりも、恐らくは別の段階の。

「俺に魔法使いの知り合いはいない。あるのは宝石商の繋がりだけだ」

だからそう、付け加えてやる。暗に、魔女協会の人間としてどんな不都合なことも内密にできる、と。すると彼女の瞳が大きく揺らいだ。きゅっと唇を結び、スプートニクを見る。その様子は、彼が信頼に足る人間か、測っているようでもあった。

結局イラージャが彼をどう値する人間と判断したのか、スプートニクは知れない。それでも暫くの沈黙の後、彼女はぽつりと、こんなことを呟いた。

「少し遠回りになりますが、聞いてください。ここから話すのが一番早いかと思います。私の上司に当たる、ソアラン様の……ソアランの、今後の処遇に関してです」

「あの男の?」

処遇、ということは何らかの責任でも取らされようとしているのだろうか。何かやらかしたところで、そう簡単に尻尾を見せるような人間とは思えなかったが――

「どういうことだ」

「はい。ソアラン様……いえ、すみません。ソアランは」

「様でも閣下でも大先生でも、好きな敬称で呼べばいい」

「……ありがとうございます。先日ソアラン様自身もお話されていましたが、彼は近い未来に出来るリアフィアット支部長を任されるであろう方です」

「言っていたな。だとしたらあいつは現在でも、それなりに地位のある役職にいるんじゃないのか」

「現在はコークディエの協会支部の、副支部長の任にございます」

彼女は、ここより西北にある都市の名前を口にした。水の都コークディエ、かつて訪れたことがあるが、二つ名の通りやたらと運河が多かったのを覚えている。リアフィアット市からコークディエ市までは馬車で数日はかかるはずだ。

「ですが、店主様。ご存知でしょうか。失礼ながらリアフィアット市とは、我々魔法使いにとって辺境この上ない土地でございます」

「知ってる。普通の魔法使いは、魔法を殆ど使えなくなるらしいな」

「はい。私は勿論のこと、ソアラン様ですら、リアフィアット市では魔法をほとんど行使できません。魔法使いにとって魔法を行使できないというのは死活問題です、そのような土地に設立された支部など、いったいどんな魔法使いが利用しましょうか。支部長と言えば聞こえはいいですが、リアフィアット支部ともなれば、殆ど、左遷のようなものです」

そして彼女は俯く。続いたものは、低く聞き取りにくい声であった。

「私は、ソアラン様が、こんな地方に据え置かれるべき人間とは思いません」

イラージャは固く組んでいた手を解くと、カップに手を伸ばした。

白湯を飲むわけではなく、ただ両手でそれを包む。温もりもないだろうが、それでも彼女は手を離さない。暫くじっとカップの中を眺め、やがて、意を決したように顔を上げた。

「どうもスプートニク様は、魔法使いがお嫌いなようでいらっしゃる。ですから、私とひとつ、取引をしては頂けないかと、思います」

探るような物言いと、視線。それに気付かないふりで、スプートニクは彼女の言葉を繰り返す。

「取引?」

「ええ。――魔法少女を捕まえた暁には、リアフィアット市支部の計画を白紙に戻すよう、私が魔女協会に掛け合います」

彼女のその言葉に、スプートニクは些か驚いた。

どうもそれほど力のある魔法使いではなく、また協会に於いて大した地位にいるわけでもないらしい彼女が、まさかそんな大きなことを言い出すとは思わなかったからだ。細く息を吐くことで無表情を貫き、机の下で足を組み直す。

「設立を決定したのは、組織上層の人間だろう。アンタがどうこう言ったところで、なんとかなるような計画とは思えんがね」

けれど彼女は動じない。そう聞かれることも予測していたのか、流れるように淡々と答える。

「もとよりリアフィアットは魔法使いの力の殆ど及ばない土地です。こんなところに支部など作ったところで予算の無駄になることは目に見えております。それでも作りたいと考えるのは、恐らく、ソアラン様という人を本部から遠ざけるため――厄介払いをしたいがためです。魔女協会では今でこそ男女平等が叫ばれてはおりますが、それでも根底には女尊男卑の考え方が色濃く残っております。現に上層部は今なお女性だけで構成されておりますし、男性が協会本部に近いところで立身することを、面白くないと考える者は少なくありません。……コークディエの支部長と、副支部長であるソアラン様の折り合いがそれほど宜しくないことも、公然の秘密ではあります」

「それと、自称魔法少女の確保に何の関係がある」

「確保に成功した場合には、協会本部に、魔法少女の確保に貢献したのはソアラン様であるという報告を出します」

躊躇いも、またそれに類する間もなくイラージャは言った。

「魔法少女ナギたんが何をやってのけたか、店主様はご存じでいらっしゃいますでしょうか」

「いや」

「魔女協会に納められた重要な魔法道具や重要書類の盗難、破棄、何人も犯してはならぬとされる始祖様の祭壇に足を踏み入れたこと。……協会幹部の怒りを買う所業だけでも、枚挙に暇がありません。ナギたんは相当に、この魔女協会を騒がせてくれました。ソアラン様がそれを捕まえたとなれば協会内で相応の噂にはなるでしょうし、それだけの立役者を地方に据えるということに異を唱える輩も出てきます。そうなればリアフィアットに支部を作る必要はなくなりますし、そうでなかったとしてもリアフィアット支部の必要性をもう一度考え直すべきという声は出てくるでしょう。そうなれば」

「立ち消えになるのは目に見えている、ということか」

「それに!」

もう一押しとばかりに、鼻息荒くイラージャが身を乗り出した。作業机に強く両手をついたせいで、カッブの水面が波を立てる。

「私がなぜ魔法少女ナギたんの担当になっているかというと――他でもない彼女自身が、私を苦手としているからなのです」

「苦手としている?」

彼女とは対照的にやや上体を引きながら、スプートニクは彼女の言葉を繰り返す。それを受け、イラージャは大きく首を振った。

「はい。恐れている、と言っても過言ではないと思います。理由は私にはわかりませんが、私と現場で会いまみえるたび、彼女は仕事をやりにくそうにしていますから。現に、彼女が犯行を失敗したときはいつも私が警備に携わっておりました。――これは私の思い上がりや勘違いではありません。予告状でナギたん直々に『出来ればイラージャを現場に呼ぶのはやめて下さいごめんなさい一生のお願い』と名指しされたこともございます!」

「予告状で警備体制に注文つけるのは『怪盗らしい振る舞い』なのかねェ……」

「理由こそ不明ではありますが、ともかく奴が私を苦手としていることはお解り頂けたかと思います。当日、現場に私を置くことで、店主様にデメリットは存在しないと思うのですが」

胸を張り、したり顔でかく言う彼女。さァ如何(いかが)ですお買い得ですよ――という幻聴が聞こえてきそうな表情から視線を外し、それに対する答えは保留とする。

代わりにぽつりと、こんなことを呟いた。

「魔法少女に、会った」

彼女の顔色が変わった。目が見開かれ、上体がやや前のめりになる。

「いつ。どこで、ですか。予告状を彼女本人から受け取った、ということでしょうか」

「いいや、違う。昨日、アンタらが帰った少し後のことだ」

白湯を一口、湿らす程度に含む。先を急く様子のイラージャを焦らしたいわけではなかったが、ゆっくりソーサーに戻したあと、その手で自分の右肩に触れた。

「右肩と、左足をやられた。こいつを投げつけたら」作業机の上に転げた鏨(たがね)を取り上げ、指の間でくるりと回す。「空中で回転し、そのままの勢いで俺に帰ってきた。確認だが、魔法使いっていうのはリアフィアット市でそれだけの魔法を使えるのか」

「有り得ません」

やはり否定をした。ただでさえ白い頬から、血の気が引いている。

「魔法を使い、宙にものを浮かせる。勿論協会本部であれば、そんな行為は魔法使いならほぼ誰でもできます。……しかしリアフィアット市では。こんな、東では。どんな魔法使いもそんな所業、出来ようがない。というのに」

けれどそれを行ったことは事実。そして彼女も、その事実までもを否定しようとはしなかった。

そしてどうも彼女の様子では、それを否定し難い、過去の事例があるらしい。イラージャは被りを振った後、「あの魔法使いは、おかしいのです」と言った。

「魔女協会には、とある符があります」

「符?」

「魔法使いは始祖様の加護を受けて魔法を行使しますが、その符を対象の者に使用することで、始祖様の加護を遮断することができるのです。始祖様の加護を遮断されれば、魔法使いは魔法が使えません。そのはずです。なのに……」

彼女は顔を上げ、窓を見た。外には誰もいない。あの白い魔法使いも、お節介な警察官の姿もない。ただ陽光が差し込むだけだ。

「かつて魔女協会はそれを、魔法少女ナギたんへの対抗策として使用しました。が、何故か彼女には、符の効果がなかったのです。始祖様の加護のない環境でも、何故か、魔法を行使することができたのです」

「理由は。方法は」

「わかりません。わかれば、奴を捕まえるのも……・いえ、それだけではありません。その技術の仕組みさえわかれば、魔女協会の更なる発展に繋がるでしょう。魔女協会の未来にも大きく貢献することになるのです。彼女は、なぜそれだけのことができるのに」

協会に害成す存在として佇もうとするのか。そう続け、悔しそうに唇を噛む。

けれどスプートニクはそのとき、イラージャの苦悩とはまったく違う、一つのことを思い出していた。――あのとき確か、魔法少女は。

「店主様。どうかなされましたか。ご気分でも」

「なんでもない」

しかしそれは、イラージャに言ったところでどうにもならないことだった。だからそう、答えたのだが――彼女はどうも、スプートニクが別のことを思っていると誤解したらしい。暫く黙考したのち、ゆっくり立ち上がると、机を回って彼の隣に佇んだ。

どういうつもりだろう。真意を量り兼ねたまま、彼も立ち上がる。ヒールを含めてもまだ頭半個分は低い身長がそこにあった。クリューと彼ほどの身長差はないにしても、威圧感では負けていないはずだ。「どうした」と尋ねるが、彼女はそれに答えることはしなかった。

「右肩、と仰っていましたね」

「何を……」

やはり答えず、ただ両手でスプートニクの肩に触れる。

本来なら拒絶すべきところだったろうが、彼女の敵意ない様子に戸惑い何も出来ずにいると、彼女はそっと、彼の右肩に自身の額を寄せた。

「私たちは魔法使いのための組織にございます。魔法使いが犯した罪は、我々皆の罪でありましょう。例えそれが、組織に属さぬ者の所業であっても」

イラージャがゆっくりと深く息を吸い、吐く。

と、肩に熱を覚えた。火傷するほどの強烈なそれではなく、心地良さを感じる程度のそれ。しかしそれ以上にスプートニクが驚いたのは、温もりと同時に、訪れた変化の方だ。

「痛みが」

「少しは、和らぎましたでしょうか」

腕を動かせば引き攣るような違和感がある。完治とは世辞にも言い難いが、それでも確かに、傷の負担は軽くなっていた。

肯定すると、彼女はスプートニクを見上げ、薄く笑った。けれど表情と裏腹に、額にはびっしりと汗が浮いている。その細い声から、上がりかけた息を必死で殺しているのがわかった。ほんの少しの傷の治癒、それだけの魔法でも、このリアフィアット市では彼女の身には結構な負担となるのだろう。

「この程度のことであれば、私にも……可能です。私に、出来るだけのことは、致します。ですから、どうか……」

「――おい」

声が呼吸に負け、掠れていく。ずるずると力が抜けていく彼女の体を、スプートニクは抱えて支えた。

「おい。どうした」

揺さぶっても返事はなく、ただされるがままに白金色が揺れるだけ。

どうも気を失ってしまったらしい。恐らくは魔法を使ったことの弊害だろうが、いかんせん魔法使いの知識など乏しいせいで、そういった事態の対処法など知らなかった。取り敢えずどこかに寝かすべきであるのは確かだが、そもそも魔法使いの魔力とは、睡眠で回復するのだろうか――スプートニクが悩み始めた、そのときである。

くわん、という軽い音がした。

「……えっ?」

次いで聞こえる、小さな声。戸の方からである。

顔を上げ、そちらを見る。とそこには、阿呆のように口をぱかんと開けたクリューが立っていた。

足元でくるくると舞っている盆が、恐らくは先程の音の根源だろう。彼女が何に驚愕しているのかは――考えるまでもなかった。つい舌打ちをする。なんともタイミングの悪い従業員である、あと十分も遅く来てくれれば、どうにでも対処出来たものを!

先ほどまでは盆を掴んでいたのであろう両手が小刻みに震え、はわ、はわと言葉にならない声が漏れ始める。直後訪れるであろう災難を想像するに難くなかった。耳を塞ぎたいが、両手が塞がっていてそれも出来ない。やがてクリューの目が潤み、頬が染まり――そして目の前の光景を、現実として認識したとき。

「スプートニクさんの、不潔――!」

理不尽な金切り声が、彼の耳を劈いた。