馴染みの喫茶店は、夜になると簡易の酒場になる。
それは彼がこの街に越して来たときからずっとそうで、そしてそれは、今晩も違（たが）わない。スプートニク宝石店《ジュエリー・スプートニク》店主、スプートニクがその店の入口扉を押して開けると、括りつけられたドアベルは、酒を嗜む客らの喧騒もものともせず店内に響き渡った。
「いらっしゃいませ！」
ドアベルを追いかけるように響き渡る馴染みのウェイトレスの声に、軽く手を上げることで挨拶の代わりとする。空いた席に適当に腰掛けて店内を見回していると、伝票を握ったウェイトレス――エルサがすぐにやってきた。
「いらっしゃい、スプートニクさん。今日は夕ご飯？ それとも晩酌？」
「晩酌。ビールとつまみくれ。なんでもいい、旨い奴」
「あら嫌だ、うちの料理は何でも美味しいわよ。――かしこまりました。少々お待ちになってね」
「あと」
伝票を持って背を向けるエルサを、寸でのところで引き留める。くるりと振り返り「何かしら」と笑う彼女へ、スプートニクはこんなことを尋ねた。
「ホールのケーキって、すぐに準備できるか」
「え？ あるわよ。苺のでいいかしら、ちょっと待っていらして」
「それでな、貰うのは俺じゃなくて」
と、エルサは不思議そうに首を傾げた。
続きは言葉でなく、指先を向けることで示す。近くのテーブルで常連たちと楽しそうに酒を飲んでいる、一人の客の姿。「俺じゃなくて、アイツに」
「どうして？」と訊かれるがそれにも答えず、いいから、と急かすように言うと、やはり不思議そうな表情をしたままではあったものの、リクエストに応えるため厨房へと入っていった。
やがて出てきたエルサは、スプートニクの要望通り、クリームたっぷりの大きなホールケーキを持っていた。問いかけるようにこちらに向けられた視線へ、一つ頷いて返事とする。彼女はにっこり笑うと、ポニーテールを揺らしながら指定の人の元へ行った。
スプートニクよりやや背の高いその人は、エルサと並べば更に大きく見える。エルサの手によって目の前に置かれた大きなケーキに、彼がぱっと笑顔を浮かべたのを確認すると、スプートニクは席を立った。
「え、何なに、このケーキ。貰えるの？ ありがとう！」
「ええ、貰える、っていうか――あら？ どちらに行かれたのかしら。さっきまでそちらの席にいらしたんだけど……」
「いやァ嬉しいな、こんな美味しそうなケーキ、どんな可愛らしいお嬢さんからのプレゼントだろう。そうだ、良かったらそのお嬢さんも一緒にむぷ」
言葉が途中で切れたのは他でもない、彼の顔がケーキの中に盛大に突っ込んだからだった。……というのは勿論、彼の後頭部を掴んで、ケーキに押し込んだ人物（はんにん）がいたからだが。既に出来上がっている常連客たちが、突然の見世物に目を剥き、どっと沸く。
一時（いっとき）後、ケーキの中から、頭がのっそりと上がる。その首は、同じく緩慢な動作で、背後に佇むスプートニクの方を向いた。
クリームに埋もれた顔は、どんな表情をしているのかまったく判別できない。だが現状を喜んでいないことだけは確かだろう。真っ白な顔を真っ直ぐに見て、スプートニクは無表情のまま告げた。
「条件反射って怖いな？」
「そろそろ俺に対して『謝罪』って行動を覚えたほうがいいよ君ィ！」
一度敵としたものの認識を改めるのは難しく、どうもこの男の顔を見ると攻撃せずにいられないのだ。食って掛かる彼の前髪から飛ぶクリームを避けるため、一歩後退。
深く深くため息をついた彼は、頬のクリームを指で拭うと、それを口に入れた。
「あと反射じゃなくて明らかに自覚あって淡々と準備しただろうコレ。……あ、甘くて美味しい」
そういえばこれは大の甘党だった。次はグラタンか唐辛子の山にしてやるべきだと勉強し、スプートニクは改めて彼を見た。魔女協会コークディエ支部副支部長にしてその実（じつ）ただの変態、正体の一を魔法少女とする男、ソアラン。
彼はエルサの持ってきたタオルで顔を拭うと、元から持っていたグラスの中身を一気に飲み干した。
「エルサちゃん、これ旨いね。もう一杯くれるかな」
これと指したのは、ケーキのことではなく飲み物のことだろう。氷の周囲と底の方にうっすらと、琥珀色の液体が見て取れる。彼の手からグラスを受け取りながら、エルサはまるで意外なものを見たかのように瞬きをした。
「だけどリャン君、今日はよく飲まれるのねえ。何か嫌なことでもあったの？」
「……『リャン君』？」
そして彼女の言葉に聞き流し難いものを聞いて、スプートニクはつい、繰り返す。なんだ、その愛称は。
それに応えたのはソアランだった。顔型のついたホールケーキをフォークでつつきながら上機嫌そうに言うことは、
「あ、俺の名前の『ソア』って、こっちの大陸にはあまりない文化だけど、家名ってやつなんだ。で、『ラン』より『リャン』の方が正式な発音に近いんだよね。そういうわけだから君も『リャン君』って呼んでくれていいよ？」
「呼ばねェし気になったのはそこじゃねェ。なんでそんな親しげなんだお前ら」
「あれからときどきいらしてくださるのよ、リャン君。ご飯の食べっぷりもいいし、お酒も常連の皆さんと楽しく飲んで下さるし、嬉しいわ」
「アハハ。こんな可愛らしいウェイトレスさんがいるお店でお酒が飲めるとあったら、そりゃ毎日でも飛んでくるよ。で、なんでか今日は一層エルサちゃんが可愛らしく見えたから、どうもお酒が進んじゃってね」
「ま、お上手」
「あァ、勿論、いつものエルサちゃんが可愛くないってことじゃないよ！」
相変わらず調子のいい奴だ。
が、気になったのはそこではなく、この男が頻繁にリアフィアット市を訪れているという事実の方である。ときどき、というのが具体的にどれ程の頻度を指すのかは知らないが、少なくとも魔法使い連中に怪しまれないようにはしてほしいものだ。あれらにこれ以上、この街を侵されたくはない。
が、それらのことが魔法使いに悟られるということは、取りも直さず彼の、もしくは魔法少女の『武器』を、魔女協会に知られるということに繋がるのだから、おそらくそのあたりのことは、これも上手いことやっているのだろう。そう思いながら、スプートニクはビールを一口飲んだ。
軽薄な文句を聞き流しながら、エルサは伝票で口元を隠してくすくすと笑う。
「でも」
逆接を口にした彼女は、目を細め、不意に悪戯っぽく笑みを作った。――しかし。
次の瞬間に彼女が告げたフレーズには、この場にいる約一名にとっては、まったく笑えない言葉が含まれていたようだった。それは――
「あんまり遊んでばかりいると、婚約者さんが悲しむわよ」
ソアランの頬が、引き攣った。
ちょうど油断していたときに、古傷を触られた、と言ったところか。彼が過去に婚約者を喪っていることを、スプートニクは覚えていた。
そして客相手の商売人であるエルサは、人の心の機微に敏い。それはほんの少しの変化であったが、彼の笑みが崩れたことに、確かに気づいたようだった。そしてその原因が、おそらくは自身の言葉にあることも。
だが、スプートニクにはわかっていた。『そうではない』。彼女はそのことを、知っているわけではない。
「そうだぞ。うちで婚約指輪仕立てたんだ、別れられたら困る」
最初ソアランをここに連れてきた際、スプートニクはエルサに彼を『婚約者への指輪を仕立てにきた客』だと紹介した。だからエルサは『婚約者』のことを言ったのだろう。何の、他意もなく。
半ば棒読みになったが、それでソアランは気付いたようだ。揺らいだ瞳に焦点が戻った。
「あ、ごめんなさい、私……。縁起の良くないこと、言っちゃったかしら」
「いやァ、とんでもない。よくぞ見抜いた、とびっくりしただけだよ」
声のトーンの下がったエルサに、ソアランは肩を竦めて苦笑する。演技がかった仕草ではあったが、その軽薄な笑い方はとても彼らしかった。
「実はちょうど、彼女と喧嘩しちゃったところでね。それも、朝の目玉焼きには塩かソースかなんてつまんないことで。一応仲直りはしたんだけど、喧嘩の最中に彼女が『こんな調子であなたとこの先何十年も暮らしていけると思わない』なんて言ったものだから、まだちょっとだけわだかまりが残っていて。どうして彼女の機嫌を直したものかと悩んでいたのを思い出したんだ。気を使わせちゃったかな、ごめんよ」
よくそうもさらさらと、口からでまかせを吐けるものだ。
スプートニクはいっそ感心してソアランのでっち上げを聞いていたが、エルサの方は、眉を寄せ、深刻そうに「まあ、そうなの」と相づちを打った。
「ごめんなさいね、そうとは知らず」
「いや、いつまでも目をそらしていていい問題ではないからねェ――そうだ、エルサちゃん。君、何かいいアドバイスないかな？ 彼女と同じ女性として、何か、こうしたら彼のこと許しちゃう、みたいなの」
「そうねえ……私なら、美味しいものお土産に買ってきてくれたら、ちょっとは許してもいいかな？」
「美味しいもの！ それはいいね、参考にさせて貰おう」
「お役に立てたなら嬉しいわ。ところでその場合には、うちのケーキなんかもおすすめだけど？」
「アハハ、なかなか商魂逞しい。――じゃ、おすすめを何種類か包んで貰ってもいいかな」
「かしこまりました。毎度ありがとうね」
そう言ったエルサの表情にもう陰りはなく、また席を離れる彼女の背ににこやかに手を振るソアランも上機嫌そのものだった。
諸々が丸く収まったのを確認して、スプートニクは元の席に戻る。
と、向かいにやってきた影があった。無論のこと、ソアランだ。片手にグラス、もう片手にへこんだホールケーキを持ってきた彼は、許可を取ることもなく、勝手に椅子を引いて座る。そして、右手の親指を立ててスプートニクに向けた。
「ナイスアシスト」
「隙がデケェんだよお前」
こんな調子で、よくも副支部長という立場まで成り上がれたものだ。
魔女協会の構成人員は、余程の無能ばかりなのだろうか。そんなふうに思われていることに気付いたのだろう、ソアランは照れたように髪を掻いた。
「いやァ、普段はもうちょっとしっかりやってるんだけど、どうも気が緩むんだよね、この街。魔法使い（あいつら）がいないってなると……」
どうも、箍（たが）が外れるね。そう言って、果実酒を呷る。言葉の続きを、酒の力で喉の奥に押し戻したようにも見えた。
何かあったのだろうか。そもそも、ここから遠く離れたコークディエ市を縄張りとするはずの彼が、何故ここにいるのか？ その『何か』が自分の、もしくは自分たちの今後に関わることであるのなら、ここで見逃すことは得策でない。けれど――
「……ひぇっ？」
ソアランが突然上げた奇妙な声のせいで、スプートニクは我に返った。
不意に背中に氷でも放り込まれたらこんな声が出るのでは、と思わせるそれ。見やると彼の目は、スプートニクの背後、窓辺の方に向けられている。何があるのかは、なんとなく予想がついた。何故ならここしばらく、スプートニクの周りはいつも『そう』だからだ。
振り返る。既に暗くなった窓の外には、小さな人影があった。パーカーのフードをしっかりと被っているのは、防災のためではなく、自身の正体を隠すためなのだろう。
室内のスプートニクと目が合ったことに気付くと、人影は、慌てて窓の下に姿を隠した。――いや。
本人としては隠れているつもりなのだろうが、フードについた熊の耳が取り残され、窓の向こうでふらふらと揺れている。やがて頭がまた少しずつ上昇してきて、二つの瞳が再び室内を覗き込んだところで、スプートニクはそちらを見るのをやめた。
しかし謎の行動をするその少女を、看過できなかったのがソアランだ。見開いた目をそのままに、スプートニクに尋ねてくる。
「え、何あの、可愛い生き物」
「あれでも隠れてるつもりなんだ。目を合わせてやるなよ」
「いや、でも」
放っておけばいいのに、面白いように挙動不審になる彼。そして放っておけない人間は、この店内に、もう一方（ひとかた）いたようだ。
「スプートニクさん」
エルサだ。手には何も持っていない。
彼女は机の横に立つと、顔はこちらに向けたまま、目だけをそっと動かして窓の外を指した。
「あの愛らしい不審者さんは、どうされる？ 外はちょっと、冷えてきたみたいだけど」
こっそりと、背後を見る。
言った先から、彼女は口を押さえて、小さく頭を振った。何かを吐いたわけではなく、ただくしゃみをしたというだけのようだ。垂れた鼻水をポケットから取り出したティッシュで拭うと、赤くなった鼻を構わずに、彼女はまた『監視』の体勢に戻った。
――まったく。
風邪でもひかれたら、仕事の手が足りなくなる。そう思ったスプートニクは財布から幾許かの金を取り出すと、エルサに握らせた。
「適当な席に通して、温かいものでもくれてやってくれ。オーダーミスで余った料理とでも言って。余りはチップだ」
「うふふ、かしこまりました」
「普段ならオーダーミスなんてしないんだけど、お得意様のお願いだから、特別よ」と冗談めかして言うと、彼女は尻尾を揺らしながら外へと出て行った。本当に、良く出来たウェイトレスである。
しばしの後戻ってきた彼女の足元には、ロングパーカーを羽織った一人の少女がくっついていた。被ったフードに二つの耳があるのと同じように、尻のあたりでは小さな尾がぴょこぴょこと揺れている。少女はエルサの影に隠れるようにして奥の席へ通されると、そこからまた、先ほどと同じような視線をこちらに向けはじめた。
つい、ため息が漏れる。
俯いた顔を上げると、奇妙な表情のソアランと目が合った。笑おうとして、けれど事情が分からず笑っていいものか迷っているようである。やがて彼は、スプートニクが先ほど言おうとしたのとまったく同じ言葉を口にした。
「……何かあったの？」
「……最近、変なんだよ」
リアフィアット市は大陸東部に位置する、ルカー街道の宿場町として栄えた中程度の街である。
年間を通して温暖な気候から、多種多様な果物・花卉の産地としても知られているその街は、魔女協会の支部こそなけれど警察局の治安維持活動は非常に優秀で、未解決の事件はゼロに等しく、とても暮らしやすい土地だ。
そんな街の片隅に、店員二名の小さな宝石店があった。――『スプートニク宝石店《ジュエリー・スプートニク》』。