発表が終わって気が済んだのか、クリューはイラージャのもとに戻っていった。

応接ソファにイラージャと並んで座って、何やらきゃあきゃあ言っている。イラージャは黒塗りにした部分の内容を知っているようで、どうして言わなかったのかと笑いながらクリューに尋ねたが、クリューは頬を押さえて、拒否するように体ごと左右に振った。

しかし。昨晩ルアンの話をしたのに、それを一向に気にかけようとしないのもクリューにしては珍しいような気がする。自分の目的である手紙に気を取られているのか、それともやはり男友達というのは少し違うものなのだろうか――などと思っていると、そのうちにルアンが行動を起こした。

「スプートニクさん。俺、行ってくる!」

「おー」

大きな深呼吸を何度か繰り返したのち、手にプレゼントを握りしめ、賑やかに喋る二人へ大股でずかずか歩み寄っていく。

二人の会話は手紙の件からすでに離れ、イラージャの敬愛する上司様の話になっていた。あの男がどれだけ素敵でどれだけ立派かという話。これはルアンにはタイミングが良くないか、とスプートニクは思ったが、彼は早々に二人に話しかけてしまっていた。

「あ、あ、あのさっ」

「そうだ、ルアンさんにも聞いてみますね」

ルアンのひっくり返った声。しかしそれの続きを遮り、イラージャは、いいアイデアが思い浮かんだとばかりに手を叩き合わせた。

唐突な宣言に、ルアンの勢いが削がれる。

「な、何?」

「あの、私――」

遮られた時点、いや、言葉を飲み込んでしまった時点で、ルアンの負けはきっと確定してしまっていたのだろう。ルアンがイラージャを思う気持ちより、イラージャがソアランを思う気持ち――あるいはあの変態を素敵な人だと誤解する気持ち――の方が大きかったのだ。

イラージャは言った。

「私も指輪作ったの、差し上げようと思うんです――ソアラン様に」

ルアンの想いなど、露ほども知らず。

そのときのルアンの表情がスプートニクから見えなかったことが、やや残念でならない。

「あ、あの、変な意味じゃないんです。ただ本当に、ええと、そう、日頃の感謝を。日頃の感謝を伝えたくて」

かく言うが、イラージャの肌の白い頬は真っ赤に染まり、胸の前で握られた包みは力を入れすぎているようで皺が寄っている。『変な意味ではない』けれどそこに何かを隠しているのだろうことは一目瞭然だった。

それからしばらく沈黙し、やがて囁くようにイラージャは言った。

「喜んで、頂けるでしょうか」

それにルアンが黙り込んだのは、ほんの少しのことで。

彼は迷うことなく、こう、返事をした。

「喜ぶよ!」

それは、爆ぜるように元気な声だった。

「勿論だよ。そんなに心がこもったもの、気に入らないわけないじゃないか。俺が保証する!」

彼のそれが空元気であることは、笑えないほど良くわかった。――女性二人がどう見たかは知らないけれど。

心中は知らねど、ただ声だけは鮮やかに。

「受け取ってもらえるといいな。応援してる!」

「は、はい! ……では、あの、クリューさん。ちょっと、私も、行ってきます!」

「行ってらっしゃいです。お気をつけて」

答えたクリューは、にっこり笑っていた。彼女の笑顔をよく見ているスプートニクにはなんとなく不自然な笑い方だったけれど、イラージャの方はそれに気付いていないようだ。大きく頷き、先ほどのクリューのように「頑張ります!」と宣言すると、イラージャは店を出て行った。

――やがて、ドアベルの音が収まる。

誰も何も喋らないどれだけかの沈黙ののち、スプートニクの喉からあくびが一つ湧いて出た。ルアンは閉じた入口扉を見ているし、クリューは思うところがあるのか、入口扉を凝視する彼の背を見ている。

スプートニクはカウンターから立つと、歩いていってイラージャが座っていたところに腰を下ろす。そして、クリューに小声で話しかけた。

「将来いい男になるな、あれは」

「ルアンくんはいい人ですから」

クリューもまた小声で、当然のこととばかりにそう答える。友人を褒められて嬉しいのか、彼女の頰が緩んだ。

――しかし。スプートニクは気になっていた。

「慰めてやらないのか。友達なのに?」

「ええと」

と、ここで初めて、クリューは困ったように眉を寄せた。

なんて言ったらいいかわからないんですけど、と前置きして、

「それは、私のお仕事じゃない気がするからです」

「どういう意味だ?」

「ええと」

ううん、ううん、と唸って。

しかし答えは出なかったようだ。上目遣いにスプートニクを見、やがて。

「……どういう風に言ったらいいんでしょう?」

知るか。

そしてクリューに結論の出ないまま、またクリューの考えがスプートニクにはわからないまま、スプートニクはルアンを見る。

彼は引き続きイラージャの出て行った入口扉を見ていた。泣いてはいないようだが、さて、たった一日ばかりの恋を終えた彼の胸中はいかほどのものか――

――カラン、カラン。

思ったとき、ドアベルが鳴った。

それは勿論のこと、店へ入って来た人がいたからだ。しかしそれは顧客ではなく、またイラージャが帰ってきたわけでもなかった。それは、

「こんにちはー! クリューちゃんいますか!」

「ほら、うるさいのが来たぞ」

クリューの友人の、アンナだった。

迎え撃つように放ったスプートニクの言葉。しかしアンナは、気にすることもなくけらけら笑った。

「あっスプートニクさん失礼だなー。昨日まで風邪ひいてた人間にそれは、ちょっとひどい言い草じゃない?」

そういえば昨日は姿を見せなかったな、とスプートニクは気付いた。アンナはクリューにとってこの街で一番の友人だ、雑貨屋に遊び道具を買いにきたとなったら、自分もとついてきそうなものなのに。だけど成程、風邪をひいて寝込んでいたのなら納得もできた。

言いながらけらけら笑うアンナは、もともと大した病状でなかったのかそれとも予後が良いのか、体調不良の気配などまったく感じさせない様子である。やがてアンナは視界の中にもう一人、クリュー以外の友人を見つけて首を傾げた。

「あれ、ルアン?」

「……おう」

「どうしたの。お買い物?」

ここで会うなんて珍しいね、と首を傾げる。ルアンはおう、だかああ、だか言いながら手に持った者を背に隠そうとした――が、アンナはそれを目ざとく見つけてしまった。

「あ、綺麗なラッピング。お母さんにプレゼント?」

喜んでくれるといいねと快活に笑うが、それを受け取る人は――しかしそんなこと、アンナは知る由もない。

そんな友人たちの様子を、さてクリューはどう思っているのだろう。見ると、彼女は笑っても戸惑ってもいなかった。真剣な表情で、ただ行く末を見守っている。

どうしたものかと考えた挙句、スプートニクも、クリューに従うことにした。

「これ……」

手の中の包みを、じっと見つめるルアン。さて彼は、その不要になったものをどうするのだろうか。捨てるのならそれでもいいだろう、思いながら眺めていると、やがて彼の手が動いた。

――アンナに向け、握った包みを差し出したのだ。

「……お前にやる」

「えっ」

唐突な贈り物に、アンナが驚きの声を上げた。そして――

――スプートニクは昨晩からずっと、昨晩のクリューの言葉と、今朝からの彼に対する振る舞いを不思議に思っていた。彼女なら、恋をしたという友人を応援したり、慮ったりするのではないだろうかと思っていたからだ。ずっと納得のいく答えが出ていなかったけれど――

贈り物を渡された直後のアンナの反応を見て、スプートニクはそれらのクリューの振る舞いに、ようやく、成程な、と思うことができた。

ルアンからの贈り物を受け取った、アンナは。

……まるで先ほどのイラージャのように、耳まで真っ赤になったのだ。

やがてアンナが、戸惑ったようにこちらを見た。スプートニクを見たわけではない、その隣のクリューを見たのだ。クリューは目が合うと、ただ、にっこり笑った。

向けられた笑顔、しかしアンナはその中に答えを見つけることができなかったらしい。改めてルアンに向き直ると、困惑した様子を隠さずに尋ねる。

「な、なんで?」

「なんでもいいだろ。……俺、もう、いらないからだよ。持ってけ」

「開けていい?」

「いいよ」

開けて中から出てくるのは、贈られる人のことを想って作られた、とても綺麗に仕上がった指輪。

ペリドットと、それを支えるように糸で編まれたリングが、アンナの手のひらに転がった。

「えっと、快気祝いみたいなものだと思えばいいんじゃないかな。良かったね、アンナちゃん」

言葉を失うアンナへ、助け舟を出すように言うクリュー。さてそれは、風邪が治って良かったねなのか、プレゼントをもらえて良かったね、なのか。

いずれにせよアンナはそれを受け取り、俯いた。そして、

「あ、ありがと」

「うん」

「だ、大事にするね」

「……うん」

スプートニクの脇で、クリューが訳知り顔でうむうむと頷いている。どうも現在の状況は、彼女の中で一番いい結果に落ち着いたらしい。

それから不意に顔を上げると、クリューはスプートニクの耳に口を寄せ、外に漏れないよう両手で囲って、

「それで、んっと、ですね。さっきの話なんですけど、説明が難しいんですけど。あと、アンナちゃんからちゃんと聞いたわけじゃないから、絶対じゃなくて、きっと、なんですけど」

「あァ、もういい。なんとなくわかった」

片手を振って了承の意を示してみせる。

と、クリューは「わかってくれて良かったです」と、困ったように笑った。その表情はスプートニクの知る彼女のどれより、どことなく大人びている。

いつの間にかそんな顔でも笑うようになったのだな、と、スプートニクは少しだけ、意外に思った。