がらがらがら。
「がら、がら、がら」
がらがらがら。
「がら、がら、がら、がら」
翌朝。
台車を押しながら、上機嫌で歌いながら、クリューは家への道を行く。一晩、何事もなく過ごすことができた喜びと、達成感。それから前日の夜、エルサにたくさん話を聞いてもらえたことが、クリューの心を軽くしていた。ヴィーアルトン市でやりたいことも、自分がどうなりたいのかも、ぼんやりだけど、見えてきた。これならきっと、体験学校も楽しく過ごすことができる。
――最後の問題は。
がら、がら、……がら、がら。
それに思い当たって、クリューの歩む足が遅くなる。最後の問題は、雇い主にして保護者スプートニクのこと。クリューの体験学校に関して、あまり気乗りしている様子ではなかった彼を、いかにして説得するかということである。この誘いに関し、スプートニクがどうして良く思わないのかはわからない。
しかし。行きたいものは、行きたいのだ。たくさんのことを勉強して、知って、立派になって、それで、それで。
「きゃ」
灰色の瞳に、クリューだけを写すスプートニク。他の誰でもないクリューだけに、愛の言葉を囁くスプートニク。優しい微笑みで、綺麗な指輪を差し出すスプートニク。頬を押さえて理想の光景にしばらく浸り――そんなことをしている場合ではないと我に返る。それを妄想でなく現実のものとするために、今、行動が必要なのである。
スプートニクの説得一つもできずして、何が大人か! がらがらがらがら、台車を押して、店までの道を急ぐ。遠くない距離は、すぐにゴールを迎えた。スプートニク宝石店。
朝とは言え、もう日はそれなりに高い時間である、入口扉の札はもちろん『開店』に変わっていた。今日は特別なお客様の来店予定はなかったはずだから、店主は恐らく、いつものようにカウンターに座っている。帰ってきたクリューを見て、スプートニクは、きっと。
台車は玄関扉前の段差を上れないから、玄関前に一旦放置。
ぺしぺしと頬を叩き、二度ほど深呼吸、気合いを入れて。
「た、ただいま、です!」
押し開けた扉の上で、ドアベルが鳴る。
そしてドアベルに負けないような声で、帰宅の挨拶をすると――
「お帰り」
思った通りカウンターに座っていたスプートニクから、何の変哲もない、挨拶が帰ってきた。
沈黙。
ドアベルの残響音が消え、時計の針の音だけが残る。ときどきスプートニクの新聞をめくって、紙の擦れる音がして――ただそれだけの時間が、店内に流れて。
新聞を読む店主を眺めたまま、何も言えずにそこに佇んでしまったのは、帰宅したクリューに対するスプートニクの反応が、クリューの予想とあまりに違っていたからだった。きっとスプートニクのことだから、笑いながら「どうせ泣いて一晩過ごしたんだろう」とか言って、からかってくると思っていた。そこを鼻で笑って、しっかり一人で過ごすことができたこと、一人でもヴィーアルトンに行けることを語り、説得しようと思っていた……だけに。
拍子抜けである。
――いや。
説得!
「あ、あの、あの……」
「ん?」
胸の前で手を組み、声をかけると、スプートニクの視線が新聞から離れた。気のない声――というか、興味のなさそうな様子で「どうした」と言うスプートニクだが、慌てて声をかけたせいで、上手い説得方法を思いつけない。
だけど、言うことは決まっていた。声の出ない喉を振り絞って、つっかえつっかえに、言葉を吐く。
「……あの、あの。が、学校……」
すると。
答えはあっさり、帰ってきた。
「行けばいいだろ」
「えっ」
昨日までは、渋っていたはずなのに。どう説得しようか、迷っていたのに。
信じられなくて、念のためもう一度、尋ねる。
「いいんですか」
「荷造りには気をつけろよ、簡単には取りに帰れないんだから」
疑問をよそに、スプートニクはあくびを噛み殺したような表情で、声で、淡々とそんなことを言う。クリューが一晩いなかっただけで、どうしてそんな考え方が変わったのだろう――それも突き放したような、距離のある物言いで――
……もしや。
スプートニクの、どこか遠い物言い。そのせいでクリューの心が、違和感を、そして不安を生み出すまで、さほど時間はかからない。不安で満ちた心が描くものは、宿で見た、昔の夢。スプートニクと離れることへの恐れ。姿を消した彼へ、行かないでとすがった、古い、古い記憶――
スプートニクは。
もしかしたら、クリューのことを。
「……いらない、ですか」
「は?」
「クーは……いらない子、ですか」
わがままは悪いことだ。わがままで人を困らせるのは、いけないことだ。
クリューが、学校に行きたいなんてわがままを言ったから。スプートニクはクリューのことを、いらない子だと思ったのだろうか。だから、ヴィーアルトンでも、学校でも、勝手にどこへでも行けばいいと――だから、こんな、淡泊な返事を。
「何を言っているんだ」と彼が眉を寄せた。その表情の意味は、不快、だろうか?
すぐに泣いてしまう弱虫も、大人じゃない。わかっているけれど、今はまだ、勝手に溢れ出すのを止められない。学校なら、泣かなくなる方法も教えてくれるだろうか?
「ふ、う、うぇっ」
「おま……どうしたんだよ」
スプートニクが、椅子から腰を上げた。商品棚の隣で泣き出したクリューの前までやって来て、クリューの頭に指を触れさせる。スプートニクの困惑した声が聞こえる。
大事な人を困らせるのも、大人じゃない。
わかっているけれど――
「クーは、クーはぁっ」
スプートニクに抱きついて、叫んだ。溢れた涙が、彼の服を濡らす。
しゃっくりが、クリューの気持ちの邪魔をする。
「クーはたくさんのこと、ちゃんとわかりたいです。イラージャさんの考えたこと、わからないこと、ちゃんと全部、わかるようになりたいです。だから、学校に行きたいです」
「行けばいいって言ってんだろ。それで何で泣くんだよ」
「でも、でも、それで、スプートニクさんの、いらない子になるのは、嫌です!」
たくさんのことをわかりたいから、大人になりたい。そして大人になりたいのは、スプートニクの隣に立ちたいから。彼に見合う、彼に愛してもらうにふさわしい人に、なりたいから。
だから、学校に行ってみたい。
でも。
「クーが学校に、うぇ、ふぇ、い、行きたいって言って、それが、わ、わがままだから、スプートニクさんが、怒るなら……く、クーのこと、嫌いになるならっ」
それで二度と、頭を撫でてもらえないようになるのなら。
二度と、彼の隣にいられなくなってしまうのなら。
「い、行かない、です。が、学校なんて、行かないです」
それでスプートニクに嫌われてしまうのなら、何の意味もないのだ。
「う、ううっ、うぇぇっ」
「お前は本当に、よく泣くなァ」
泣くクリューを見て、彼は困ったように笑った。
その言い方はいつもの彼のもので、先ほどまでのような突き放したような冷たい感じはしない。クリューの考えすぎだったようだ……ほっとしたら涙がますます出てきて、ぱかりと開いた口からも、盛大な声が漏れた。
「あーん、あーん」
「泣くなって」
「あーん、あーん、ひっ、あーん」
「ったく」
「あーん、あー……げほ、げほ」
げほ。三回目の咳で、宝石が出てきた。
口に手を当てて、宝石を受け止める。両手の中に収まったそれは、すみれ色をしていた。場所によって色の濃淡があって、角度の加減できらりと光を反射する。変わった色合いの石だった。
宝石。自身の『体質』。――クリューの一部。
「……あー。あの、な」
それを眺めていると、声がした。
店に入った直後のクリューのような、どこかふわふわした、固まらない声。見上げると、クリューの頭に右手を置いたまま、そっぽを向いている。
「ヴィーアルトンな、行ってこい。お前のことがいらなくなったから、言ってるんじゃない。旅も、滞在も、勉強も、いい体験になるだろう。遠い地だから、いろいろ面倒はあるだろうが、勉強してこい」
「……いいんですか」
「店は、俺一人でも回せる。お前が帰ってくるまで潰さねェから安心しろ」
帰ってくるまで。――それは、クリューの帰りを待っていてくれるということだ。
胸がぎゅうっとして、ほかほかする。先ほどまでとは違う意味で、彼にくっついていたくなる。
「それで。行くのか、行かないのか」
本当は離れたくない、でも――答えは、決まっている。
だけど。
「でも、スプートニクさん」
「ん?」
「行く必要ない、お前にはまだ早いって行っていたのに、どうしていきなり、心変わりしたんですか?」
すると、なぜだか。
彼は、意表を突かれたような顔をした。
「それはー、そうだな、あのー。何だ……」
右手をクリューの頭に置いたまま、左手の人さし指をまるで指揮者のようにふらふら動かして。
「アレだ。ヴィーアルトンに旨いパン屋があるんだ」
「は?」
「あそこのメロンパンはとにかく旨くてな。それ以外にも、さすが都会、旨いものとか面白いものがたくさんある。俺は店があって行けないのに、お前ばかりヴィーアルトン市で遊べるなんてずるいだろ。だから行かせたくなかったんだが、よくよく考えてみたら、土産に買ってきてもらえばいいんだと気が付いた」
「そ……」
そんな子供じみたことのために!
クリューはつい、絶句した。自分はたくさんたくさん悩んだのに、スプートニクは菓子や娯楽のことで拗ねて八つ当たりしていたなんて!
先ほど泣いた水分と体力がもったいない。がっくりと、肩を落とした。
「それで、行くのか、行かないのか」
「行きますっ」
鋭く答え、頬を膨らませた。と同時に、くっついているのが馬鹿らしくなって、抱きついた腕を解いた。遊びと娯楽にうつつを抜かす主の店なんて、いつか潰れてしまうかもしれない。そうならないためにも、従業員の自分がしっかり学んで、支えなければ!
そうと決まれば、今度は学校に行くための準備をしないと。外に置いたままの鞄を回収してきて、今度は旅の荷物を準備しないと――
「それじゃ、手紙を書かないとな。体験入学の誘い、受けるって」
「あの」
封筒と便箋はまだあったかな、とカウンターの下を覗き込むスプートニクに、声をかける。
「ん?」と聞き返した彼に、クリューは手を組みうつむいて、上目遣いで、希望を告げた。
「その、お手紙。……私に、書かせてくれませんか」
これは、自分のための、旅だから。
――できる限り、自分で。