しかし、夜の学校を探検というのは、いくら何でも、

「やっぱり……良くない……かな?」

「まずは博物館の地下への階段を探さないといけないわよね」

「決断早ぁ!」

つい叫んだ。

「何よ。決定はその場でするようにしないと、いつまでもずるずる引きずることになるわよ。いいの?」

「うっ」

それは、嫌だ。

気圧されるクリューの目の前で、リーエは決議事項を指折り挙げていく。

「考えることは、いつ行くかと、放課後から夜までどこで時間を潰すかと、それから……」

「それと、遅くまで学校にいるなら、夕ご飯も必要だよ。あと、地下室って鍵かかってるのかな……おうちに連絡はどうしよう?」

「一晩丸々過ごすわけじゃなし、もし何か言われたら、授業が長引いて帰りが遅くなったって言えばいいでしょ」

「そっか。……っていうか、リーエちゃんも来るんだね」

「悪い?」

「わ、悪くないけど」

鋭く睨まれて、慌てて否定する。

すると彼女は笑顔になって、「そうでしょう、そうでしょう」と大きく頷いた。

「それから大事なのは、いつの放課後に行くかよね。今日か、明日か、明後日か……」

「ふふん」

しかし、それに対する答えはもう、クリューの中で決まっていた。むしろ、それ以外有り得ない。だからこそ、ふんぞり返って笑ってみせる。

クリューの余裕綽々の態度に、リーエは眉を寄せた。

「何よ」

「リーエちゃんは、こういう言葉を知らないのかな」

こういうとき、昔の人はこう言いました。――人さし指を振りながら、クリューは彼女にその『言葉』を教えてあげた。

「ぜんは……ほら……ぜんは……ぜんは……なんとか、みたいな。あれがいいと思う」

「善は急げ?」

「それ」

この体験学校の中で、一度くらい、リーエより知識のあるところを披露したかったのだ。

早くもその機会に恵まれたことで、嬉しくなる。ちゃんと思い出すことはできなかったけれど、きっと及第点は貰えたはず。むふん、ともう一度、鼻から荒く息を吐いた。

「じゃ、今夜ね」

「うん。……だけど、リーエちゃん」

「何?」

「博物館って、確か、夜は閉まっちゃうよ」

確か、博物館の入口にも、それから体験学校の学校要項にも、博物館の開館時間と閉館時間が書かれていた。閉館、つまり夜は博物館に入れないということだ。

しかし妖精に会えるのは夜、と先ほどリーエ自身が言っていた。クリューの言葉に、眉を寄せたリーエが唸る。さすがの彼女にも難しい問題か――と思ったが、やがて顔を上げた。

「閉館時間って何時だっけ」

「七時半じゃなかったっけ?」

「馬鹿ね、六時半にもなればもう夜じゃない。日が落ちているんだから」

「確かに」

やはり彼女は頭がいい。

「それから……ん、んん」

そのとき不意に、喉の奥に異物感がした。いつもの宝石(あれ)だろうかと思って、ハンカチを口に当て、咳をする。一度、二度。……だけど今回は、三度しても出てこなかった。珍しいな、と思いながら空のままのハンカチをポケットにしまう。

リーエが「喉、弱いの?」と聞いてきた。今に限らず、度々クリューが咳き込むのを覚えていたのだろう。心配してくれるのは嬉しいけれど、あまりクリューの咳に関心を寄せられるのは、良いことではない。そんなところ、と曖昧に答えて終わらせる。

「それから、何だっけ?」

「ええと、あと、夜まで何するか、だったっけ……」

また眉を寄せ、少し唸る。けれど今回は、さほどの時間はかからなかった。

「……うちの店主が話してくれたんだけど、この学校、いろいろ謂われがあるみたい。夜まであちこち見て回るのとか、どう?」

なぜだろう。考える素振りをしていたけれど、その提案の仕方はどこかわざとらしく、まるで前々から準備していたかのようで――

「わかった」

と答えたのは、リーエの提案に対する同意ではなかった。提案に覚えた違和感の正体と、そして、彼女がどうしてクリューの悪だくみに付き合ってくれるのか、その理由に気付いたからだ。

無論、クリューのためではない。また、自己紹介時に語った『従業員としての能力向上のため』なんて真面目なものでも、きっと、ない。

それは、きっと――

「リーエちゃん、店主さんが学生さんだった頃のことを、知りたいんだね」

「なっ……」

大事な人が学生時代を過ごした、この学校のことを。とてもとても、大事な人のことを。ほんの少しでも多く知りたいと思ったのだろう。どうして彼女の魂胆にクリューが気付いたかというと、簡単だ。……提案を聞いて、クリューもまた、まったく同じことを思ったから。

彼女は自身の心の内を、おいそれと認めるような性格ではない。テーブルに強く手を突き立ち上がりながら、クリューを鋭く睨みつける。……けれどその顔は、校門で彼女と話したあのときと同じように、耳まで真っ赤に染まっていた。

しばしの間、ぱくぱく、ぱくぱくと、魚のように何度も口を開閉させて――

「ばっ……馬鹿じゃないの! べ、別に私、あいつのことなんかどうでもいいし!」

「そっか、うん、わかった」

「わかってないでしょ! 何よその笑い方、馬鹿にしてるでしょ私のこと!」

「してないよぉ」

「やめなさいよその生ぬるい笑顔! これはそういうのじゃなくて、これから……そう、この学校のことを、もっとよく知るために! そうよ、そういうやつで、だから、私は別にそんな不純な――」

そういうわけじゃないんだから、とあれこれ叫ぶリーエの手元はがら空きで、そっとフォークを伸ばしてみる。

クリームとレーズンたっぷりのトーストは、甘くてちょっとだけ酸っぱくて、とても美味しかった。

午前中にできあがっていたはずのクリューの下絵は、午後の授業が始まってから少しだけ変わった。

昼休みが明けて改めて見直してみたら、こういう風にしたい、という想いが湧いてきて消えなくなったのだ。そうした方がきっといい、という謎の確信に押されて変えられた絵は、不思議と、そうなることが最初から決定づけられていたかのように堂々と、クリューの手元に生まれていたのだった。

写し取るときに線が震えてしまったり、色を塗るときに絵の具がはみ出してしまったりしたけれど、それでもクリューは台紙に飾られた自分の『作品』に満足した。

スプートニクと同じ道具を使って作られた、クリューの作品。スプートニクはこれを見て、何と言うだろう。ちょっとはクリューのことを見直してくれるだろうか。初めてにしては良くできたと、褒めてくれたりするだろうか?

「そ、そんな、クーなんてまだまだで、えへへ」

「何を一人でぶつぶつ言ってるのよ」

妄想の中のスプートニクに謙遜していたクリューへ呆れたように言ったのは、隣の席のリーエだった。

「あれっ」

その言葉で我に返り、きょろきょろとあたりを見回してみる。

先ほど、先生の「今日の授業も楽しかったですね、明日も楽しくお勉強しましょう」という挨拶があったばかりのはずだが……妙に教室が、がらんとしている。

リーエもすでに自分の鞄を背負っていた。

「皆は?」

「もう帰っちゃったわよ」

「なんと」

クリューが自身の作品を見返して悦に入っている間に、素早いことだ。

「アンタがとろいんだってば」

「とろくないもん」

ちょっと空想に浸っていただけだというのに。

唇を尖らせて抗議するするが、リーエにとっては理由などどうでもいいことだったらしい。「いいからさっさと準備してちょうだい」と机の上の鞄を指さした。

だけど、それより先に決めておきたいことがある。クリューは鞄の上に腕を置いて、リーエを見上げた。

「どうしよう? まずどこに行きたいとか、ある?」

「任せて。授業中に考えておいたわ」

胸を張って、左手に持ったノートを、右手で軽く叩く。

「授業中は授業受けなきゃいけないんだよ」

「夜の学校探検しようなんて時点で、いいも悪いもないんじゃないの?」

「むう」

やはり口では勝てない。

とはいえ、行く先が決まっているのなら、もう教室に残る意味はないだろう。クリューも椅子から立ち上がろうとして、机に手をつき、腕に力を入れて――

「どうかした?」

そのときリーエが尋ねたのは、恐らく、クリューがそのまま動きを止めたからだ。

――ほんの一瞬、地面が揺れたような、建物が傾いだような、妙な感覚がしたのだけれど。机を凝視する。けれど木製のそれは、自発的には動いたりしない。

念のため座っていた椅子も、ぽんぽん、と叩いてみる。こちらも勿論、動きはしない。

「どうしたのよ。何か言いなさいよ」

「う……ううん。なんでもない」

おかしいな、と首を傾げる。リーエは何も感じていないらしい。

見回してみるけれど、特別変わったものは見当たらない。改めて立ち上がるけれど、今度は揺れたりしなかった。やはり、気のせいだったのだろうか?

鞄を背負い軽く跳ね、鞄の位置を整えて、帰宅の準備は完璧である。しかし今日に限っては、まだまだ帰宅したりしないのだ。今日はちょっとだけ、悪い子になるのだ。

「まずは、どこに行く?」

「ええとね……」

リーエが開いたノートを、横から覗き込む。クリューの持ってきたものと違って、彼女のそれは、絵柄のないシンプルなデザインのものだ。それを慣れた様子でめくる姿は、とても大人びて見えた。

「私が店主に聞いたのはね」

「うん」

「放課後のプールに現れる人影とか」

「うん」

「十号館の廊下の、こっちをずっと見る彫像とか」

「うん」

「作品展示室の、血を流す王冠とか」

「うん」

「いろいろあるけど、どれがいい?」

「なんで怖いのしかないの!?」

妖精と聞いたから、きっと可愛くて不思議なお話ばかりだろうと思ったのに、とんだ期待外れである。

「そういう怖い話は置いておいてさ、まずは普通にあちこち見て回ろうよ。私、構内見学でもっとよく見てみたかったもの、たくさんあるの」

「あれだけ見て、まだ足りないの?」

「えへへ」

だって、どこを見ても素敵なのだ。――それに。

廊下を歩くたび、かつて彼の靴底もこの廊下を踏んだのだろうかと思うし、時を告げる鐘の音を聞くたび、彼もこの音を聞いたのだろうかと思う。天井を見上げるたび、この天井は今自分を見ているのと同じように、かつての彼も見下ろしていたのだろうかと思って――

自分と出会う前の彼と、同じものを共有している嬉しさ。この学校にいると、そういうものを、たくさんたくさん感じられるのである。

「まぁ、いいわ。そう言うならそうしましょ、どうせ時間はたくさんあるんだし」

「ありがと」

リーエに礼を言いながら、思う。学校のこと、自分のこと。

自分は彼の隣にいたくて、この学校に来た。彼は宝石商になりたくて、この学校に来たという。――彼もまた、妖精に会いに行っただろうか?