「……は?」
胸騒ぎが、緊迫感が、外の風によって再びぶり返す気配がする。――威力を増して!
手のひらに乗った宝石から、光の粒が雪のようにほろほろと零れている。空気に溶けているのか、宝石から離れてしばらくすると消えていった。が、自己主張でもするかのように、粒は次々と宝石の内から溢れてきて止まらない。
「何だ、コレ……?」
呆然と、誰にともなく尋ねる。
答えたのは、セシルだった。「失礼」とスプートニクの手のひらを覗き込み、宝石をじっと見て下した判断は、
「宝石から、魔力が零れております。――宝石に、魔力が込められているときのかたちに似ている」
「魔力……?」
「しかし、リアフィアット市では魔法は発動しないはず……ですからこれは、似せた玩具(おもちゃ)か、」
「いや」
答えながら、頭のまだ冷静なところで、あの男も難儀だなと思う。つまりあれは、私設秘書にすら、自分の使える力のことを話していないのだ。セシルは、知らない。
しかしスプートニクは、この街でも魔法を使える人間を知っていた。――二人ほど。
犯人は、どちらだ?
「とにかくっ」
思考に耽りかけていたスプートニクを現実に戻したのは、ユキの一声だった。珍しく余裕を欠いた、彼女の声。
「出かける準備した方がいいんでしょ!? 私は荷物まとめてくるから、アンタも早く、戸締まりと身支度!」
「あ、あァ」
珍しく切羽詰まった様子のユキ。それが、更にスプートニクから冷静さを奪う。
二階の客室――現在ユキが使っている部屋だ――に駆けていくユキの背中を追いかける。魔法が発動すると言うのなら、ただの人間でしかないスプートニクに、それを止める術はない。抗ったところで、無駄なのだ。
「店主様!」
「悪ィ、話は後で聞く!」
セシルが誰であるのかは、当座の問題ではないはずだと『スプートニクは』思った。
叫ぶセシルの声には構わず、スプートニクも二階に上がると、自室で最低限の手荷物を握る。財布、煙草。鑢(やすり)、錐、それらを収めた道具入れ――馴染んだ道具たち。正装はどうする? 宝石商としての身分を表すピンは?
「……面倒くせェ!」
時計を見る。封筒を開けてから、三分が経過している。迷っている時間が勿体ない、旅路用の鞄に、思いついたものを片っ端から詰めた。不要なら、捨てればいい。
階段を駆け下りて店に戻り、五分。ユキはまだ戻っていない。入口扉以外を施錠、防犯装置を作動させる――そのときもう一度、彼を呼ぶ声があった。
「店主様!」
「なんだ。悪いがアンタも今日は帰ってく――」
「聞いてください!」
切羽詰まった声。思えばセシルのそんな声は、初めて聞いた。ユキに襲われていたスプートニクを助けに来たときにだって、そんな声は出さなかった。彼女が語りたいこととは、それよりさらに大事なことなのだろうか。それは何だ? 何の話だ?
悲鳴に似て聞こえたそれは、すぐになりを潜める。スプートニクの胸元を掴み、続いたものは落ち着いたものだった。しかし、シャツを握る拳は震えている。語る相手を、『教える』べき相手を逃がすまいとするように。
「彼の婚約者であったフランソワズという魔法使い。彼女には、妹がおりました。大変歳の離れた妹で、二人はとても、その妹を可愛がったと言います」
それは、先ほども聞いた話だ。知っている、だからどうしたと言いかけて――スプートニクは口を噤んだ。
彼女の言葉の中に一点、気にかかるもの があったからだ。
「……『言います』?」
セシルはファンションのことを、これまでもずっと、伝聞調で語ってきた。ファンションと共に過ごしていたのは今よりずっと幼いときの話で、物心ついているかどうかも怪しい頃で……だから彼女の中の『姉』は、誰かに聞いた情報でしかないのだと。だからそうして語るのだと、スプートニクは一人納得していた。だが。
彼女の語りの中で、その『お姉さん』は、彼女からとても、遠い感じがしたわ。
確かにそうだ。セシルはなぜ、「二人は私を可愛がってくれたそうです」そう語らないのだろう。エルサの言葉が蘇ると共に、一つの疑い、一つの可能性がスプートニクの脳裏に過ぎった。――もし、そうではなかったとしたら。
もし。
彼女の語っていたことが、『彼女の姉』の話ではなかったとしたら?
「誰の、話をしている」
問いは、乾いた声に乗った。
魔法使いソアランは、セシルを『誰か』に重ねていたという。魔法使いソアランは、自分のことを、セシルに『おにいちゃん』と呼ばせたがっていたという。だから――だけど。
その『誰か』とは、本当に、『ファンション』だったのか?
スプートニクはここに及んでようやく、気が付いたのだ。
――もしや自分は、大変な考え違いをしているのではないか?
「ごめんなさい。きちんと言うべきだった。私があなたに喋ったのは、『彼の婚約者の、妹』の話です」
質問に、セシルは、答えた。
「先生は私の姿を、『婚約者の妹』に重ねていたのです」
セシルが謝る必要はない。彼女は最初から、そう言っていたではないか。ただ、こちらが思い込んだだけだ。セシルは、それらが自分の話であるとは、一言だって。
セシルの瞳が、年相応の少女のように震えている。スプートニクはそれを見返しながら、自分の瞳は子供のように震えていないだろうかと、心配になる。だって――
それがセシルでないと言うのなら、誰が『妹』にあたるのだ!
「説明が中途半端になってしまったことをお詫びさせてください。手短に説明します。――フランソワズの妹は、フランソワズ亡き後、保護のため魔女協会本部に引き取られ、その後、研究所へと送られました」
「待て」
口をついて出た制止は、とにかく落ち着きたい一心から出た、逃げの言葉だった。しかしセシルは聞かず、ただ続ける。時間が少ないとわかっているからこそ。
「一人目の娘を亡くし、二人目の娘すら手元から失った夫妻は、しかし魔法使いにとって協会本部の命令は絶対と――逆らうことすら選択肢になく――その結果、彼らは精神を病み、失踪しました。協会も方々に手を尽くして行方を捜しましたが見つからず、恐らくはもう、彼らもこの世にいないのではないでしょうか」
「……なぜ」
息を吸う。喉がべたついている。
掠れそうになる声を無理やり引き出して、スプートニクは問いかける。
「なぜ妹は、協会本部に引き取られなくてはならなかった」
「『その特殊な体質を保護する』ため」
用意されていたらしい答えに、頭を金槌で殴られたような衝撃を受ける。
しかしそれで止めるわけにはいかない。時間はもう、五分もない。それでも聞かねばならないことがある。店主として。――保護者として!
スプートニクは吠える。
「ファンションの『妹』は、どこへ行った」
「研究所の崩落事故により行方不明になりました」
行方不明。いつの話だ。
自分があれと出会ったのは、いつのことだった?
「事故が起こったのは、フランソワズが亡くなってから、翌々年のことでした。勿論、魔法も魔法使いも、万能ではございません。事故では亡くなった者も、行方不明になった者もおりました。妹の遺体は見つかりませんでしたが、恐らく崩落に巻き込まれて亡くなったと思われます。……思われております、協会には!」
歯噛みする。よりによって、なんで、こんな、時間のないときに。
そんな重要なことを、知らなければならないのだ!
「どうしてお前は、俺にそれを教える!」
「――会ってみたかったから!」
答えに澱みはなかった。
セシルは笑いながらにして、泣きそうな顔をしていた。
「私は孤児院で育ちました。父を知らず母を知らず、ただ一人孤児院で育ち、その中で、婚約者とその妹を守れず憔悴した彼と出会いました。彼は私を、私設秘書として雇いました。彼は、『おにいちゃん』と呼んでくれと、私によく言いました――恐らく、彼は私の姿を、彼女に重ねていたのでしょう。守れなかった、愛くるしい、『婚約者の妹』を。生きてさえいれば、歳の近かっただろう私に!」
ほんの数日前までは、毎日見ていた、鳶色の瞳。
記憶が頭の中で渦を巻く。魔法少女騒動のあの日、クリューを訪ねてきたのは、なぜ他の魔法使いではなく敢えてファンションの元婚約者だったのか。彼はあの日、なぜ『裏の顔』を使ってまで、クリューを攫おうとしたのか。あの日、なぜ魔女協会は、東の街にいる子供の『鉱石症』なんていう胡散臭い話の調査に乗り出したのか? そして――
――『あなたは今度こそ、“彼女”を守ることができますか?』
疑いだしたらきりがない。しかし、可能性として。
「魔法使いアンゼリカの二人目の娘。彼女は、魔法使いフランソワズとその婚約者ソアランより、十と少し離れておりました。よく泣き、よく笑う娘で、愛らしい鳶色の瞳と、栗色の髪をしていて、そして――」
そして。
「お待たせ!」
またしても会話に重なってくれた、戸の開く音とユキの声。しかし今度は、セシルは確かにその名を言ってくれたし、スプートニクも、しかと聞いた。
彼女は、今。
――クリューと名乗っております。
白い雫は時間が経つにつれ量を増し、やがて宝石自体が明滅を始める。潮時であることを悟ったのだろう、セシルが踵を返す。彼女は早足で店内を行くと、入口扉を開けた。
開いた先には、もう夜が広がっている。
「お前も来るか。この魔法は、きっと」
スプートニクは、セシルに向けて手を差し伸べた。彼女は知らないかもしれないが、リアフィアット市で魔法を使えるのは、彼女の主か、あるいはその元婚約者だ。ついて来れば、彼女の主かその元婚約者に関して、何か情報が得られるかもしれない。
しかしセシルはかぶりを振った。
「それは、私に与えられた仕事ではありません」
彼女に与えられた命令は、『リアフィアット市に行って、スプートニク宝石店のクリューに話を聞いてくること』ただそれだけ。誰の差し金であるかにかかわらず、スプートニク宝石店そのものが抱える厄介に首を突っ込むのは、業務を明らかに逸脱していると。
そんな中、彼女がスプートニクへ『ファンションの妹』に関して教えてくれたのは、彼女の最大限の譲歩だったのだろう。譲歩、あるいは妥協。もしくは――
「お二方、入口扉の鍵を忘れずに。それから……」
それから。
「どうか、ご無事で」
吹き込んだ風で、花瓶の花弁が一枚、落ちる。それからたった一言を残し、セシルは店を去っていった 。
自分が誰かの代用であることを受け止め、一人きりでこんな遠い街まで来た、まだ子供の『私設秘書』。彼女の最後の一言は、
「ただの宝石商にすぎぬあなた。あなたがどうか、いつかの主を超えてくださることを 」
*
残り、十秒。
宝石から溢れる光の雫が、帯のようになり、二人を覆っていく。さすがのユキも恐ろしいのだろうか、固くスプートニクの左腕に縋りついている。
スプートニクは考える。いなくなった魔法使いのことも、宝石を吐き出す魔法のことも、それを狙う人間のことも、それらはすべて、大人の事情だ。子供が気に病み、巻き込まれる必要はどこにもない。わかっている。
わかっているけれど――それでも今、一度――
零秒。
あの、底抜けに笑う顔が見たい、と思った。