コン、コン。

ノックの音がした。クルーロルが返事をすると、戸が開く。湿気を含んだ空気を入れ換えるように入ってきたのは、使用人と、それから。

「あなた……と、スプートニクさん。あらあら、ユキも。お帰りなさい」

「……ただいま。お養母(かあ)様」

マリアだった。クルーロルの妻にして、ユキの養母。ユキは笑ったが、彼女に対しては何か思うところがあるのか、いつもの悪い笑い方ではなく、けれど綺麗な愛想笑いでもなく、緊張のようなものも滲んでいるようだ。

一方マリアは彼女に対し、好意的だ。養娘に久々に会えたことに喜びを隠せずにいる。

「ええ、ええ。どうぞ、ゆっくりしていきなさい。それから、そちらの皆さんは――」

マリアの視線はナツと、ソアランたちに向けられる。

ナツは微笑み、背筋を伸ばした。

「初めまして、奥様。警察局リアフィアット支部のナツと申します。そちらにいるスプートニクと、今こちらに滞在しているクリューちゃ……クリューさんの友人です」

「魔女協会コークディエ支部のソアランです。……ユキさんの、えっと……古い、知人です。こっちは部下のイラージャ」

「まあ、まあ。賑やかで楽しいこと! そうだわ、皆さんにお茶とお茶菓子を」

指示を受けた使用人は、一礼して部屋を出ていった。マリアは持ち前のほのぼのとした雰囲気を振り撒きながら室内を歩き、クルーロルの隣に立った。

「それで、あなた。クリューさんは見つかったのかしら」

「――え?」

どういうことだろう?

クルーロルを見るが、彼は眉一つ動かしていなかった。

「いや、まだ報告はない」

「どういうこと、お養父様」

「何、大したことではない」

問いかけたのはユキだというのに、クルーロルに睨まれたのはなぜかスプートニクだった。

「『スプートニクが君を虐待していたと聞いたから、うちで保護する』という話をしたのが、あまりにショックだったらしい。街へお前を捜しにいったのか、それとも家出のつもりか、気付いたら屋敷からいなくなっていた。……彼女が驚いたのも無理はないだろうな。そんな事実などないのだから!」

最後は当てつけのようだった。罪悪感に苛まれながらも、なんとか言い返す。

「なんでそれを早く言わないんですか! 捜索を――」

しかし彼には、落ち着いている理由があった。

「叫ぶな、スプートニク。お前をこの街にやった『魔法使い』というのは、目の前の馬鹿娘だ。そして、そいつがお前をここに連れてきた理由も、今、わかったろう」

「……あ、そうか」

熱くなりかけた頭が、すっと冷えた。すべてのことは解決しているのだ。

だから後は単純に、クリューが知らぬ街で迷子になっているというだけの話。

「とはいえ、ここはあの子には慣れぬ街だ。そのまま放っておくわけにはいかないのもわかっている。すでにうちから警察に迷子届けは出してあるし、使用人にも捜索させているから、じきに見つかるはずだ」

「……はい」

「お前はもう少し、他人を頼ることを覚えろ」

思えば今回のことはすべて、情報不足が招いた悲劇、あるいは喜劇だ。言い返せる言葉もなく、頭を掻いて腰を折る――

「待ってくれ」

そのとき。

口を挟んだのは魔法使いソアランだった。見ると彼はソファから立ち上がって、蒼白な顔で、こちらをじっと見ている。

「ソアラン様?」

「どうしたの、リャン」

イラージャとユキの声がけにも、ソアランは棒立ちのままでいる。表情を変えず、うわごとのように、

「地下で、アリスから聞いたんだ」

「何を」

苛立ちの垣間見えるユキの様子に、ようやくソアランの首が動いた。

「支部長が今、ヴィーアルトンを訪問してるって……」

支部長。彼の言うその人を、またそれがもたらす意味を、スプートニクはわからなかった。だからどのような危機が存在するのかも、正確な意味は汲み取れなかったが、

「支部長って……魔法使いジャヴォットが!?」

あのユキが叫んだから、ただ事ではないのだと、察した。

「なんでアイツがここにいるの!」

「その、クリューちゃん絡みの報告は俺が関わってたから信用ならない、スプートニク宝石店とクリューちゃんの再捜査をするって言って……多分、スプートニク宝石店が所属するクルーロル宝石商会を調べるために……」

聞けば聞くほど、ユキの顔色が澱んでいく。

ユキの動揺。珍しい顔だ。眉を寄せ、親指の爪を噛むユキに、形容しがたい居心地の悪さを覚える。彼女にはいつでも、余裕ぶっていてほしいのに。

「支部長は――支部長は」

「アイツが、何」

「言ったんだ。あの地下で、俺に」

うわごとのような言葉。

――はたと。

ユキに聞いていないことがあると、思い当たった。それは、

「あのとき」

ファンションが死んだとき。

ファンションに殺意を抱き、殺すために動き、そして確かに、願いを叶えた人間は。

「捕まったのか。お前を殺すために動いたという、人間は」

「実行犯は処分された。――真犯人は、証拠不十分で無罪釈放となった」

そして。

眉間に深い皺を刻み、頬を青白く染め、額に血管を浮かせたユキが、吐き捨てた名は――

何年にも亘り胸に抱えてきた、怨嗟の塊のようだった。

「魔女協会コークディエ支部現支部長、魔法使いジャヴォット!」

つまりそれが、すべての元凶――

――ノックの音がした。

「誰だ」

「お話中失礼致します、旦那様。お客様がいらしておりますが、いかが致しましょう」

「客?」

主の怪訝そうな声に、使用人は首を縦に振った。

「宝石商です。アポイントはないとのことですが、急遽、旦那様のお耳に入れたいことがあるそうで――」

「取り込み中だ。仕事の話なら、後日改めさせろ」

「で、ですが」

「私の指示が聞こえんのか!」

怒号。しかしそれをすり抜けるようにして、

「お邪魔しまぁす!」

甲高い挨拶とともに、女の子が一人、応接室に走り込んできた。

大股でずかずかと歩くたび、赤いリボンで作られた金髪のツインテールが揺れる。勝ち気そうな表情には見覚えがあった。名前は何だったか――

「す、すみません旦那様、待つようにと言ったのですが聞かず――こ、こらっ」

となると、使用人の言う『宝石商』というのは。

思い浮かべたその瞬間、実際にその男が現れた。使用人に捕獲されじたばた暴れる女の子を見、「ああ、すみませんうちの従業員が」と頭を下げる。

「お前」

「あっ、クリウさん。いやいや、相変わらず厄介ごとの近くにいらっしゃいますね」

「うるせェ、何があったよ。端的に言え」

軽口を叩くリョウの頬は、強張りを隠せていない。

強めに肩を殴ってやるがそれでも目だけは笑わなくて、どうにもならない胸騒ぎがする。彼だって一人の商人なのだから、多少の修羅場は潜り抜けているだろうに。

「すみません、実は、うちの従業員が――」

「助けて!」

悲鳴のような甲高い声に誰よりも早く反応したのは、当然と言うべきかナツだった。その救難要請は、自分が今、使用人に捕まってしまったことに対してではないらしい。ナツは女の子に駆け寄ると、腰をかがめ、目線を合わせて、穏やかな声で尋ねる。

「大丈夫よ。何があったか、お姉さんに話してみてくれる?」

優しく頭を撫でられて。

よほど怖い思いをしたのか、安心したのか、女の子の目から、ぽろぽろ涙が零れ出した。

「クリューが……!」

その光景に――スプートニクは既視感を覚えた。

さほど古くない記憶。スプートニクのいる場所へ、勢いよく飛び込んできた金色の髪の女の子。また、その子が青い顔で、ナツに縋りつく姿。

張り詰める空気。硬い声で呼ばれる従業員の名前。それから――

「魔法使いに、連れていかれちゃった……!」

――誘拐。