「スプートニクさん……?」

「……」

答えない。

クリューを抱えたまま、痛む足に活を入れて、再び駆け出す。しかし、闇雲に走ることだけはやめた。行く方向に、意味を持たせる。目指す場所が決まったからだ。

走れるだけ走って――

やがて足の痛みに走れなくなった頃、スプートニクはクリューを地面に下ろした。

自分の足で立ったクリューが、訝しげに、あるいは心配そうに、スプートニクを見た。

スプートニクは何も答えず、クリューの手を引く。

道から逸れ、草を掻き分けながら歩いていく。かつてここを訪れたときは、スプートニクは一人だった――いや、あのときも『二人』だったか。スプートニクはこの場所を、かつて『案内人』に導かれながら歩いた。

疲弊した『案内人』が倒れそうになるたび「おい、ちゃんと歩けよ」と尻を蹴飛ばして笑った。ほのぼのした記憶である。多分ほのぼのしているはずだ。多分。

記憶を探りながらしばらく歩くと、古びた小屋が現れた。スプートニクの記憶は間違っていなかった。

立ち止まり、背中の重みを確認する。それはまだ、そこにいた。

「おい、使い魔」

「キュイ」

返事があった。

腕時計を確認する。――夕刻が近い。

スプートニクの背から降り、草の上からこちらを見上げた使い魔シャルへ、スプートニクは一つ、ある指示を出した。

「――できるか」

「キュイ」

使い魔は足を一本ゆっくり振った。

仕草の意味は、造作もない、か、任せろ、か。いずれにせよ使い魔は一度だけぴょんと飛び跳ねると、ぬいぐるみらしからぬ――また蜘蛛らしい素早い動きで、茂みの中に入っていった。姿を消して、二人の前に戻ってくることはなかった。

二人きりになって。

スプートニクは、鳶色の瞳を見た。

「覚えてるか、ここ」

そして、その小屋を指さした。

ここはスプートニクの見知らぬ土地だ。クリューの忘れた場所だ。

過去がどうであれ、今の自分たちにとっては、知らない場所だ。

研究所跡を飛び出し、駆けている間、スプートニクはそう思っていた。しかし――

――そうではないということに、どうしてすぐに気付けなかったのか。自分の頭の悪さに辟易する。

クリューの頬が強張っている。彼女も、思い出したらしい。

クリューが、魔法使いジャヴォットに連れて来られた場所。朽ちた研究所跡。それは、かつてクリューが日々を過ごしていたという、研究所分室だった。

魔法少女は研究所を襲撃した際、クリューを建物の外に転移させた。追っ手を撒いた後、身柄を確保しようとそこに向かったがクリューの姿はもうなかったという。

想像する。魔法少女がクリューを助けようとして、研究所を襲撃したあの日。

理由もわからず転移させられ、いきなり一人ぼっちになったクリューは、突然のことに途方に暮れた。住んでいた施設のようなものは見えるが、煙が上がっている。壊れるような音も聞こえる。戻ることもできず、森の中を彷徨い、疲れ、恐らくは散々泣いて、やがて見つかり――

囚われた。

研究所の崩落の日、魔法使いたちがクリューを見つけられなかったのは、魔法少女の力量を測ることができず、クリューがどこに転移させられたのか把握できなかったからだ。

魔法少女が――魔法使いソアランがクリューを見失ったのは、彼女がもう一度、今度は魔法少女以外の人物に攫われ、隠されたからだ。

だから。

研究所分室から遠くない場所に『奴ら』が巣食っていたとして――

研究所分室から遠くない場所に『そこ』があったとして、何もおかしい話ではなかった。

「……怖いか」

尋ねる。

しかしクリューは泣かなかった。

「ちょっとだけ、です」

いつかも似たような受け答えをしたなと、思い出す。

スプートニクは、クリューの手を握り直し、小屋を見据えた。古びた木製の掘っ立て小屋。それが『奴ら』の塒(ねぐら)だった。

煙突から、煙が出ている。人の気配がする。

スプートニクはその戸を――

左足で蹴り開けた。

「邪魔するぜェ」

えっ……? と。

室内から返された、虚を突かれたような声は、はたしてどれの発したものだっただろう。興味がない。

まず目に入るのは、大きな丸テーブルと、体を捻ってこちらを向いた七人の男たち。五人は腰かけ、二人は壁にもたれているが、全員動きを止めている。

男たちの顔つきは、『当時から』覚えていないからこれまた興味がない。

ただ、きっと、当時と同じ人間だろう。

スプートニクはクリューを連れてずかずか小屋の中に入り、テーブルに右手を突くと、再会を祝うため、友好的に笑ってやった。

かつてこの掘っ立て小屋で、クリューを『飼って』いた――賊たちに向けて。

「息災だったか。重畳だ」

沈黙。

そして。

「っあ゛――――!?」

悲鳴を上げる男、嘔吐する男、腰を抜かし失禁する男――反応こそそれぞれだが、皆、悪霊でも見たような表情をした。失礼なことだ。

しかしそういう反応をするということは、スプートニクのことを覚えているということだろう。覚えていたということは、手間が省けて喜ばしいということだ。もし忘れていたとしても、思い出させてやるつもりだったが。

口ひげを蓄えた男が、椅子を蹴って立ち上がり、ぶるぶる震えながらスプートニクのもとにやって来た。

「っに、にににににに兄さん兄さん違うんです兄さん。あれから俺たち、すっかり心を入れ替えまして、その――足を洗い、罪を償い、今は皆、真っ当な仕事に就いております。ですが、自分たちの犯した罪を忘れてはいけないと、ときどきこうして集まって……な、中には街で嫁を取り、こ、子供がいる者もおります! ですから、ですから……!」

「ほォ――ん成程。あれだけの悪事を働いておいて自分たちはのうのうと幸せになってんの。成程成程なァ――るほど。善良の塊みたいな俺には到底解せねェ所業だなァ?」

「あっいやっあのえっとそのっ」

「あっお前、あのガキ――いやえっと、お、お、お嬢! いやお嬢さん! あのときは、若かったといえ本当に、本当に、取り返しの付かない……あの、兄さんもお嬢も、金が必要ならいくらでもお持ちください! だから命は、命だけは……!」

「おいお前ら何してんだ! 兄さんとお嬢に茶を! 茶を出せ! わかってるな、とっときのいい奴だぞ!」

「茶はいらねェ。金もだ」

騒ぎ立てる彼らに、ぴしゃりと告げる。

すると、賊ら――いや近況報告が確かなら『元』賊らと呼んでやるべきか――が、一斉に静かになった。ただ、安堵したわけではないようだ。どころかさらに青ざめていく。

「金を……いらないって……!?」

「兄さん……あの兄さんが、まさか……まさか更正なさって……!?」

散々な言われようである。

スプートニクはかぶりを振った。

「金は要らない、が――」

殺気。

振り返ろうとした瞬間、右肩に鈍く重い痛みが走った。奥歯を噛み締めて堪え、肩を手で押さえながら今度こそそちらを見ると、

「……追いつかれたか」

そこにいたのは、男――賊の一人――ではない。

女だ。予想通りの、黒い影。

「ま、まさか、まさか兄さん……」

「察しがいいな、その『まさか』だ。――魔法使いに追われてる」

男が、ひぇ、と泣きそうな声を出した。

「……スプートニクさん」

「大丈夫だ、下がってろ」

痛みに顔が歪みそうになるのを誤魔化すため、笑い――

景気付けだ。室内に踏み入る魔法使いを見据え、スプートニクは声を張り上げた。

「野郎ども、武器を持て!」