泣き止み、落ち着いたシェイラを、ディアナは『その場で』見送った。シェイラ曰く、「絶対に姿は見ませんから。……またディーと離れてお話するのは寂しいわ」ということで、気付けばほぼ密着姿勢のまま、会話していたのである。

ちなみに件の問題点、『シェイラと『紅薔薇派』の関係をどうするか?』については、とりあえず今日は保留にすることで決着した。現実的に考えれば、シェイラが堂々と『紅薔薇派』を宣言するのは、後宮の争いを激しくするだけである。少し落ち着けば、シェイラもそのことに気付くだろう。

『姿は見ない』との約束どおり、別れるときのシェイラは目をつぶってディアナから離れ、くるりと後ろを向いた。びっくりするくらいに律義である。別れの挨拶を交わし、角を曲がって消えていったシェイラを見送って、ディアナは深々と息を吐き出した。

「……誰か、いる?」

『はっ』

降ってきた声はシリウスのものだ。昨日も詰めていた『闇』の首領が今日もいることに、ディアナは純粋に驚く。

「どうしたの? シリウス、ちゃんと休んでる?」

『あのこわっぱとやり合いました後に、一度下がってデュアリス様にご報告致しました。ついでに休憩も頂きましたので、問題なく』

「そう。お父様はなんて?」

『『その小僧が少しでも妙なマネをしたら、遠慮はいらんから捻り潰してやれ』とのことです』

「……うわぁ」

呟きを漏らしたのはディアナではない。いつの間にかそこにいた、『小僧』本人である。

「あら、カイまでどうしたの?」

『小僧、どうやら命が要らないらしいな』

「……あのさ、シリウスさん。ひとまず殺気は片付けよう。ちょっと本気で怖いから。それからディアナ。もうちょい驚くとかないワケ?」

「だって、カイは『闇』レベルの隠密でしょ? 神出鬼没は当たり前じゃない」

「あぁ、うん。突っ込んだ俺がバカだった」

何やら一人で納得し、カイは若干、姿勢を正した。

「『牡丹』の情報、欲しい頃じゃないかと思ってさ。顔出してみたんだ」

「ありがとう。助かるわ」

『……本当に出すな、顔を。ディアナ様は側室筆頭たる『紅薔薇』だぞ。ほとんど誰も知らない穴場とはいえ、後宮内で男といるところを人に見られたらどうなると思う』

「あ」

「あ」

『……ディアナ様、貴女もですか』

シリウスの声は、隠しもせずに呆れていた。ディアナは慌てて言う。

「いやだって、この後宮でソッチの立場思い出せと言われても、結構難しいわよ? 陛下の関心はシェイラ様にしか注がれてないし、『紅薔薇』に求められてるのは後宮の舵取のみだし。この状況のどこに、『わたくしは国王陛下の妻たる側室、貞淑であらねばなりません』って思うヒマがあるの?」

「ていうか、そういや側室さんって『陛下の奥さん』だったよね。俺まずそこから抜けてた」

「大丈夫、私も忘れてたから」

「あれ、じゃあひょっとして、昨日お茶ご馳走になったのヤバいんじゃない?」

『……なん、だと?』

低い声と共に降ってきた殺気。ディアナがびくりとなり、カイが慌てて上を向く。

「ちょっと落ち着こうって、シリウスさん! お宅のお嬢さまが本気でビビってるよ!」

『……申し訳ございません、ディアナ様』

「あ、ううん、大丈夫だけど……カイを叱らないでね? 私が誘ったの」

「ごめん、俺も考えなしだった」

『……むしろ部屋の方が、顔を合わせるならば安全かもしれませぬが。ディアナ様、くれぐれもお気をつけて』

「……分かりました」

「じゃ、俺も天井裏行くよ」

言うなりカイの姿は消えた。……正確には、一度茂みの中に潜り、木を伝って建物内に侵入、天井裏に回ったのだ。

『お待たせー』

「言うほど待ってないわ。いつも思うけど、貴方たちの身体能力って人間離れしているわよね」

『クレスター家の御為に、日頃から鍛練を重ねておりますれば』

『……それ、俺には当てはまらないよね? ま、単に資質と努力の結果だよ』

『ふむ。そうとも言うな。――して、ディアナ様。ご用件は?』

「その前に、カイの話を聞きましょう。『牡丹』の様子はどんな感じ?」

緩んでいた空気が、ディアナの一言で引き締まった。シリウスも声を発さず、カイの言葉を待っているようだ。

数拍の間の後、少し低めのカイの声が落ちてきた。

『一言で言えば、浮かれてるね』

『何の役にも立たん情報だな』

『俺からすれば、何でアレで浮かれられるんだろうって感じだけど』

「カイ貴方、陛下が『牡丹』においでの間、ずっと天井裏にいたの?」

『そうでなきゃ、『護衛』にも『密偵』にもならねーじゃん』

良い性格をしている……。ディアナとシリウスは、ほぼ同時に同じ言葉を内心で呟いた。この少年は『護衛』を命じられたのを良いことに、ちゃっかり天井裏で盗み聞きしていたらしい。

「それで、陛下の目的は何? まさかとは思うけど、本気でシェイラ様を捨ててリリアーヌ様に走ってはいないわよね?」

『……ディアナ、気持ちは分かるけど抑えて。さすがにその勘繰りは、王様が可哀相だよ。彼なりにシェイラさんを守ろうとしてやったことだ』

「――ふぅん?」

ディアナの相槌は実に冷たい。シェイラの大泣き後とあっては、国王の意図がどこにあろうが泣かせたことに変わりはないし、と思考がそこに戻ってしまうのだ。

カイもそれは分かっているのだろう、降ってきた声は苦笑混じりだった。

『俺は表の方には行かないから、王様が何でそんなこと考えたのかは知らない。けど『牡丹』での様子を見た感じだと、側室たちを邪険にしたらその不満がシェイラさんに回ってくるかもしれないって、やっと気付けた風だったね』

「遅いわよ」

即座に返した一言に、今度はシリウスが苦笑する。

『お気持ちは重々承知ながら、ディアナ様。ここは陛下のご成長を喜ぶべきところかと』

「えー…」

『『えー』じゃないよ、シリウスさんの言うとおり。少なくともこれで、王様が後宮に目を向け出したんだよ?』

「そりゃ確かにそうかもしれないけれど、あくまでシェイラ様をお守りするために、でしょ? それなら『今更』としか言いようがないし、その考えをシェイラ様にお伝えしなかったことで、シェイラ様のお心は深く傷付いていらっしゃるし。意欲は評価できても、やり方がまず過ぎるわよ」

『まぁ、それは確かにね』

国王をフォローしているかに見えたカイは、ディアナの意見にあっさり全面同意した。どうやら本気で国王を庇っていたわけでもないらしい。

『王様は『牡丹』にそう長い間いたわけじゃない。あのお嬢ちゃんが涙ながらに引き留めたから、そこそこ長くはなっただろうけど。その間ずっと、お嬢ちゃんを気遣うことしか言ってなかった。何か不自由はないかとか、困ったことがあれば言ってくれて構わないとか』

「……ここぞとばかりに食いつくリリアーヌ様が目に浮かぶわね」

『あー、『紅薔薇』のことはボロクソ言ってたね』

「でしょうね。想像つくわ」

『ただ一つ付け足すと、王様がそれを真に受けたような雰囲気でもなかったけど』

「……へぇ?」

それは意外だ。あの国王のことだから、てっきり『牡丹』とは『紅薔薇』の悪口でさぞ盛り上がっただろうと想像していたのだが。

「陛下が『紅薔薇』の悪口にお乗りにならなかったの?」

『うん、あれは俺も予想外だった。『牡丹』のお嬢ちゃんがあることないこと吹き込んでも、『そうか、覚えておく』だけ。思ったような反応が返ってこなかったお嬢ちゃんは不満そうだったよ』

「……何か悪いものでも召し上がったのかしら」

『そこは素直にご成長を喜んで差し上げてください』

シリウスの突っ込みはもっともであるが、これまでがこれまでであるので素直に喜びにくい。第一現在の状態を総合すれば、国王の成長はマイナスの状況をほんの僅かプラス方向に揺り戻す程度の効果しかないのである。長い目で見れば、大きな変化なのかもしれないが。

「……うん、そうね。これからに期待ってことで、一応喜んどく」

『王様相手でも容赦ないねぇ、クレスター家って』

軽く笑ったカイはしかし、次の瞬間雰囲気をがらっと改めた。

『王様は、そんな感じだったけど。『牡丹』のお嬢ちゃんたちは、そうはいかない。……ディアナなら、分かるだろ?』

「えぇ。一度でも『公式に』陛下からの訪れがあれば、現後宮では圧倒的に優位に立てる」

他ならぬディアナ自身が良い例だ。たった一度、国王が部屋に来ただけで、勝手に『陛下の寵姫』扱いされた。実際は寵愛どころか、正面きって宣戦布告されただけにも関わらずだ。

『ディアナ様の場合は、ディアナ様ご自身が何もおっしゃらずとも、噂が一人歩き致しました。これが『牡丹』となりますと……』

「積極的に、噂を広めにかかるでしょうね」

『そのつもりみたいだよ。『牡丹』のお嬢ちゃん、これで後宮内で、自分と『紅薔薇』の立場は同じだって言ってた』

「同じ?」

『そ。同じ『名付き』で、同じように陛下の『寵愛』を受けた身。もう大きい顔はさせないってさ』

「ふぅん。真正面から何かできる度胸が、あのお嬢さまにあるとも思えないけど」

何しろ本気で牽制済みである。あれで正面から向かって来られたら、むしろリリアーヌに対する評価を修正しなければならない。

『正面からやらなくたって、いくらでもやりようはあるよ。あのお嬢ちゃんの頭が残念だからって、油断しちゃダメだ』

「そうね。裏からネチネチやるのは得意そうだもの、『牡丹様』は」

ある意味側室らしい側室と言えなくもない。

『牡丹派』がどのような情報戦を仕掛けて来るのかは分からないが、国王はひとまず『名付き』全員の部屋(但し『紅薔薇』は除く)を回る心積もりのようだ。『牡丹』だけが圧倒的優位には立てないだろう。

「そういえばカイ、陛下が今宵『睡蓮』にいらっしゃることは、リリアーヌ様はご存知なの?」

『へ? 何それホント? 俺も知らなかった』

「……てことは、リリアーヌ様もご存知ないわね」

『いや、知ってたらあんな浮かれ方しないと思う』

「それもそうね。……ライア様、相当上手にお隠しになったわね」

さすがは『社交界の花』、見事な情報管理である。

欲しい情報が一通り入手できたタイミングで、有能な『闇』の首領が問うてきた。

『――それで、ディアナ様。私は何を致しましょう?』

「何度も行き来させてしまって申し訳ないけれど、今のカイの情報と合わせて後宮の状況を、お父様に報告してきてくれる? それから、陛下が後宮に目を向け出した、そのきっかけを調べてくださるように、お願いしてきて欲しいの」

ぱっと見一人で話しているように見えるディアナの表情は、恐ろしいほど真剣だった。何も知らない人間が見たら、よっぽどの悪巧みをしているのだろうと思わせるような。

「私の思い過ごしなら良いけれど。陛下の後宮訪問には、陛下のお考え以外にも何か、あるのかもしれない」

『何か、とは?』

「あの陛下が、自分から『後宮に行こう』と考えるとは、私にはどうしても思えなくて」

『なるほど。つまり、誰かの入れ知恵の可能性があるってこと?』

「えぇ。それが善意からのものなら問題ないけど」

そうと限らないのが『王宮』という場所だ。

『了解しました。デュアリス様に報告し、至急調査をお願い致します』

「お願いね。こんなの口頭で伝えるべきじゃないけど……正直、手紙書いてる時間も惜しくて」

『お気になさらず。お任せを』

その言葉を最後に、シリウスの気配は消えた。ほー、とカイが息を吐く音が聞こえてくる。

『すごいねー、シリウスさん』

「当たり前よ。ウチを支える、大事な『家族』の一員だもの」

ディアナはふと、上を見た。

「貴方もありがとう、カイ。……でも、あまり無理はしないでね。できる範囲で良いから、ちゃんと休みも取って」

『……はいはい。ありがと』

落ちた声は、どこか面白そうな響きを有していた。