「ちょっと、サラマンダーさん! ちゃんとジークを守るんですよ!」

「グギャ! グギャ!」

「ハイは、一回!」

「グギャ!」

言葉は通じないはずなのに、サラマンダーと会話するマリエラ。ちゃんと通じていそうだから不思議だ。まぁ、“ジークを守って”というマリエラの願いは、顕現するための魔力にたっぷりこもっていたから、サラマンダーもイメージとして伝わっているだろうが。

「じゃあ、いって来る」

「うん、行ってらっしゃい!」

笑って手を振るマリエラと、それに答えるジーク。ジークについて歩くサラマンダーも、バイバイとばかりに尻尾の先を振っている。

(笑顔で見送れてよかった……)

階段を下り、死地へと赴くジークらに手を振りながらマリエラは思う。さっきまでは、ほんとは泣きそうだったのだ。今だってジークのことが心配でいてもたってもいられない。今から戦う赤竜はあのデス・リザードより何十倍も強いのだ。

リンクスを失ったあの日を思うと、とても怖くてどうしたって泣きそうになるのに。

「グーギャ、グーギャ」

えっちらおっちらと左右に体を揺らしながらサラマンダーが階段を下りる。ラプトルという獣は後ろ脚の二足が発達しているけれど前足は短いのだ。速度を出して走る場合は、尾を上げ頭を下げて、つまり前のめりな体勢で走る。そんな体勢で階段を下りたりしたなら……。

「ギャーウ!」

ごろごろごろりんどーん。

転がり落ちても仕方あるまい。

「……ジークたち、本当に大丈夫かな」

「へーきへーき」

マリエラの心配は、サラマンダーの間抜けな有様のおかげですっかり別の心配に置き換わってしまった。

「さーて、マリエラ。『木漏れ日』に帰るぞ。その方が、ジークたちも安心して戦えんだろ」

「はーい、師匠」

ミッチェル君たち少数の護衛を伴なって階層階段を上っていくマリエラと師匠。そして、階段を転がり落ちたサラマンダーと慌てて追いかけるジーク。

そんな二人のしばしの別れは、サラマンダーのお陰もあってまるでいつもの狩りに出かけるような、そんな雰囲気を醸し出していた。

他の討伐メンバーが待つ55階層まで転がり落ちたサラマンダーは、この階層に降り立ったばかりのレオンハルトの隣に滑り込むという、スライディングな着地をきめた。

慌てて追いかけたジークは、サラマンダーを見つめるレオンハルトと目が合って、ひどく居心地悪く感じてしまう。

なにしろ今回の討伐で、騎乗するのはジーク一人だ。レオンハルトの竜馬であっても、56階層の灼熱の大地には耐えられない。今回の討伐では、ジークは身分の上でも冒険者のランクとしても恐らくは最下位であろう。犯罪奴隷は冤罪が証明されたけれど、借金奴隷であったのは間違いのない事実であるし、Aランクになれたのもつい最近のことなのだ。

居並ぶ上位者諸氏を差し置いて騎乗する気まずさに、ジークはレオンハルトにサラマンダーを指し示す。

「将軍閣下。よろしければ、サラマンダーに騎乗ください」

「いや、それは君が乗りたまえ。作戦上必要なことだ。変な気遣いは無用。何より随分と君に懐いているようだ」

「グギャーン」

転んじゃったーとばかりにジークの手に自分の頭をぐりぐり押し付けて来るサラマンダーをちらと見ながら、レオンハルトがジークの提案を穏やかに断る。

「は。ありがとうございます」

なんと寛大な方だろう。そんな風に思いながら、ジークはお前も頭を下げろとサラマンダーの頭を押しながら自らも頭を垂れる。もっとも、サラマンダーは頭をなでてもらっていると思っているのか、「グギャグギャ」と嬉しそうにしているのだが。

「……兄上、精霊を具現化する魔法陣ですが」

ウェイスハルトが、レオンハルトの隣を歩きながら周りに聞こえない小声で兄に話しかける。

「不要だ。軍には向かん」

「同意です」

階段から転がり落ちるサラマンダーの醜態を見たせいか、それとも支配力が皆無に近いマリエラが呼び出したおかげで、奔放な有りのままの精霊の姿を見たせいかは分からないが、レオンハルトがこの魔法陣に下した結論は、ウェイスハルトと同じものだった。

この結論で救われたのは、魔法陣を描きうるマリエラだったのか、それともレオンハルトら自身だったのか。

精霊魔法というものが世界から失われた事実を見れば、その答えは明らかだったかもしれない。

「グッギャギャー」

集合している討伐部隊の方へ歩くレオンハルトらの後ろを、ジークとサラマンダーは付いて行く。あれだけ派手にこけたのに、サラマンダーはけろりとした様子だから、仮初の肉体とはいえ、随分と丈夫にできているらしい。

新参者だというのにサラマンダーが階層階段から転がり飛び出すという登場を飾ってしまったせいで、ジークは少しばつが悪そうに討伐メンバーに挨拶をする。

メンバーは以前と同じレオンハルト、ウェイスハルトと迷宮討伐軍に籍を移したディック、同じく迷宮討伐軍のAランカーが5名。そして冒険者ギルドのギルドマスター『破限』のハーゲイに、『雷帝エルシー』ことエルメラ。

それにエルメラの夫ヴォイドとジークが加わり総勢12名での討伐となる。

「紹介しよう。新たにAランカーとなったジークムント。『精霊眼』を持つ弓使いだ。そしてこちらが、『隔虚』ヴォイド殿だ」

隔虚。その名を知らぬ者のないSランカー。

エルメラが雷帝であることは知っていたジークだったが、その夫のヴォイドがかの隔虚であったとは。この階層に降り立った時は、マリエラ同様エルメラの見送りに来たのだとばかり思っていたジークは今や眼帯で隠していない両目でヴォイドを驚きのままに見つめる。

「やあ。やはり弓を使う方が君にはあっているようだ」

けれどヴォイドの方はというと、両目の揃ったジークも不思議なラプトルさえも気にはしていない様子で、街で会うのと変わらぬ様子で穏やかに声を掛けると、戦いの前だとは思えぬ穏やかさでエルメラの隣で微笑んでいた。

エルメラもヴォイドと顔を見合わせて微笑みながら「よろしくお願いしますね」と声を掛けてくれる。いつもはひっつめた髪をほどき、ぴたりとした魔獣革のスーツを身にまとったエルメラの方が、ヴォイドより余程インパクトがある。

「よお、ジーク。しっかり頼むぜ」

そう言って声を掛けてきたのはディックやほかの隊長たちだ。迷宮討伐軍とは地竜の討伐で何度か顔を合わせているから、皆顔見知りだ。

「随分立派に育ったもんだぜ!」

「はい。ご指導のおかげです」

「よせやい、弓は教えてないぜ!」

「グギョウ!?」

キラ、ピカーン。いつも通りのサムズアップでハーゲイが声を掛け、後光さす彼の頭部にサラマンダーが反応している。

誰もジークの右眼が治り、それが精霊眼であることを指摘したり、ヴォイドが長らく行方不明であったSランカー、隔虚であることにむやみに反応したりしない。この55階層以下で知り得た討伐隊員の情報は最重要機密として決して口外しないことは全員が《誓約》している。隔虚の正体ほどセンセーショナルなものはないだろうが、Aランカーともなればスキルや技など隠しておきたいことは誰しもあるのだ。

いや、《誓約》などしていなくても、そんな無粋な話など、誰もしたりはしないだろう。

ここにいる人間は、全員がこの街屈指の強者で、けれどこの階層を下に降りたら誰が死んでもおかしくはない。前回全員生きて戻れたことだけでも、奇跡のようであったのだ。

今ここに再び全員集えた代償に、リンクスという若い命が迷宮に奪われた。生きていたなら、きっとここに共に集ったであろう、仲間となったに違いない者だ。

誰かを犠牲にしてでも自分が生き残れてよかったなどと、思う輩はこの場にはいない。そんな者はこの決戦の場に来たりはしない。

ここに集った理由は様々。戦う理由は様々あれど、『迷宮を斃す』という意志を、共に託し繋いでいく仲間であるのだ。

レオンハルトがこの場に集った全員の目を一人一人見ながら語り掛ける。

「『迷宮を斃す』——。この意志を諸君らに託す。

『迷宮を斃す』——。諸君らの意志を我らは受け継ぐ。

例え我が命潰(つい)えようとも、この意志は消して潰えぬ。

ここは我らが生き、そして我らの子らが生きる土地。

その命の灯を断じて絶やすわけにはいかぬ。

空の覇王が邪魔するならば、その翼を打ち落とし、

山がそびえたつならば、砕いて先に進むまでだ。

我らは決して歩みを止めぬ。

行こう、諸君。

赤竜を、歩く火の山を打ち倒しに!」

「おぉ!!」

『迷宮を斃す』その目的はみな同じ。

この場に集った者どもは、一斉にレオンハルトに応じると決戦の場、迷宮第56階層へと歩みを進めていった。

遥か頭上の迷宮都市は、いつもとかわらぬ朝を迎える。

そろそろ子供たちが学校へ出かける頃だろうか。

いつもはヴォイドの見送りで「いってきます」と出かけるパロワとエリオは、留守を頼まれた曽祖父ガークの見送りで学校に出かける。

いつも朝一番に焼きたてのパンを買いに来るアンバーは、今日はパン屋には顔を出さなくて、昨日作り過ぎた料理の残りで軽く朝食を済ませると『木漏れ日』の開店準備のためにいつもより少し早く家を出る。

アグウィナスの屋敷では、「今日はウェイス様にお会いできるかしら」と呟くキャロラインの髪を侍女が綺麗に結い上げていて、最近口を開けば「ウェイス様」と言っている妹に少し居た堪れない気持ちになっている兄ロバートは、いつも通り早い時間に屋敷を出てニーレンバーグの診療所へ向かう。

冒険者ギルドには黙ってそこにいるだけなのに、邪魔だ暑苦しい働けと邪険にされるギルドマスターの姿が今朝は見られない。街のどこかでサボ……治安維持に努めている時は、つかの間の静寂に集中できると業務に勤しむ職員たちも、どこかピリピリとした雰囲気で仕事の準備を始めている。

それは商人ギルドも同じことで、いつもは遅刻ギリギリにやって来るリエンドロが、いつもより半刻も早くやってきて今日の仕事の割り振りをしている。

迷宮討伐軍は、各部隊2名の副隊長がいつも通り朝の訓練を指揮するけれど、いつもならば必ず顔を出しに来る隊長たちは8部隊の内6部隊が不在だ。隊長同士の懇親会でもあったのだろうかと兵士たちは噂しながら訓練に汗を流す。

どれも、誤差のようないつもとの違い。

離れて見ると完成した一枚絵のような朝の情景は、近くで見ると幾つかパズルのピースが足りない。

欠けたピースはここ、迷宮の中に集っている。

再び朝の情景に、そのピースのはまり込む日は、果たして来るのだろうか。