ノヴァルフは護衛から剣を受け取ると、強く握りしめた。

エフィアルが遁走してから庭園に新手の出現はない。各貴族家の護衛団が合流を果たしつつある今、切迫した事態は落ち着いたとも言える。だが、庭園の空気は依然として張り詰めたままであった。なぜならその緊張の原因は襲撃者に対するものではないからだ。

「気張るでない」

「しかし、大婆様」

「浮いておる」

クロウネの放つ短くも強い口調に彼はひやりとしたものを感じ、慌てて周囲を確認する。

庭園に散開する貴族たちは非常に強い警戒を維持しているが、ノヴァルフのように臨戦態勢になっている者はいなかった。戦うこと、逃げること、他家と合流あるいは距離を取ること、いずれを選択しても動けるような状態で構えている。穿った見方をするならば、どう動けば良いかわからず、ただただ気を張っているようにも見えた。

「儂らは知る故、構える。されど知らぬ者には短慮と映ろう」

王城庭園を包む緊張感、その原因はオルシアンにあった。

彼女は襲撃者の一人を仕留めるその刹那、非常に強烈な威嚇を放っている。常軌を逸した魔力量とそこに込められた殺意は場の貴族たちを怯ませ脅威を抱かせるには十分すぎるものであった。

王都全域を舞台にした威嚇合戦は記憶に新しいが、あの時は距離がそれなりに離れていた。ところが今回は庭園内という極めて近い距離である。殺意のベクトルが襲撃者側に向いていたとしても、そのプレッシャーは計り知れないものがあった。

「……軽率でした」

過剰な反応をしていたことをノヴァルフは自覚し、剣を握る手を緩めた。

オルシアン率いる部隊と激突した経験のあるノヴァルフは、威嚇を受けて反射的に戦闘モードになっていた。カルミアを守らなければという意思が余計に力を強くさせたとも言える。だが他の貴族が動けずある意味ニュートラルな状態を保っている中、一人だけ露骨に攻撃的な姿勢を見せてしまっては、粗暴だ、浅慮だと後ろ指を刺されかねない。

そもそもノヴァルフが意気込むことにあまり意味はなかった。なぜならば襲撃があった際にいち早く安全な場所を見つけ、シャクナとクロウネ、そしてノヴァルフを先導したのがほかでもないカルミアであったからだ。彼女は砂埃で視界が遮られても影響なく動くことができた。

反省するノヴァルフをフォローするように、カルミアが話題を変える。

「オルシアン姫は第二魔獣を討伐しに行くつもりでしょうか?」

魔獣が王都に迫ったら戦うと豪語していたくらいだ、十分にあり得ることだと彼女は考えている。

「であろうの」

クロウネもそれに同意を示し、警戒を維持するよう指示を出す。そこに「もしオルシアンがこちらに来ても誘いには乗るな」という意味が含まれていることは明らかであった。もとより一度は断っている、カルミアもノヴァルフもこちらに来ることはないだろうと考えていた。

当の本人であるオルシアンは、庭園をぺちぺちぺちとペンギンのように歩いていた。襲撃者を蹴り飛ばした際、右足に履いていた靴が完全に壊れてしまったのだ。そのため左右で足の高さが合わず、不自然な動きになっている。

やがて片側だけ残っていても仕方がないと考えたのか、彼女は残った左の靴も脱ぎ捨ててしまった。

キックの勢いで一部が破れた黒のドレスをたなびかせ、オルシアンはただ進む。

「いっそ清々しいわ」

それを見たクロウネは軽く笑う。

大衆の面前で靴を脱ぐこと、裂けたドレスをそのままにすること、それは貴族令嬢の立ち振る舞いとして見れば最低だ。裸足で地を歩むその姿は下賤と揶揄されても文句は言えない。

しかし、王国貴族からの注目を一身に浴びながらも揺らぐことのない堂々としたその姿には、どこか侵してはならない神聖な雰囲気さえ漂っている。嘲笑はおろか、誰も近寄ることさえできなかった。

オルシアンが一歩進むと、その進行方向で構えていた貴族たちは波が引くように離れていく。彼女の赤と青の瞳が見つめる先には、クオルデンツェ・ウィルクがいた。

「クオルデンツェ家、いえ、ウィルク殿に協力を求めるようですわ」

断られるでしょうね、そんな予想が滲んでいる声色であった。ノヴァルフはカルミアの言葉に頷いて返事をする。

「ウィルク殿は貴族の責務を理解している……」

言いながら、彼は己の発言に疑問を持った。ここまで言及した理由が自分でもわからなかったのだ。これまでのウィルクの立ち回りから考えれば、オルシアンに同調して魔獣討伐に出撃するとは思えない。レヴィオス領での魔獣討伐はレヴィオス家の責務なのだ。あえて口に出したのは、クオルデンツェ・ウィルクという人物が自分の考える貴族像と一致していて欲しいという願望なのかもしれない、ノヴァルフはひとり自嘲する。

自分が何を期待しているのかもわからないまま、彼はオルシアンを見た。ずんずんと進み続ける彼女の足取りには強い意思を感じる。誰もその歩みを止めることはできないだろう。

クオルデンツェ・シルオペアの護衛団の警戒網に引っかかるまであと数十メートルといったところで、ひとりのメイドがオルシアンの前に現れた。

「お待ち下さい」

「待たない」

メイドを無視してウィルクに近付こうとしたところでオルシアンは一瞬、気を取られた。彼女の前に立ち塞がったのはウィルク付きのメイドだったからだ。次期当主会の前にウィルクと密会したときも、このメイドが前に出て護衛を務めている。そのため彼女はなんとなく顔を覚えていたのだ。

メイドは自分のことをオルシアンが覚えていたと察すると、足を動かされるよりも先に言葉を投げた。

「オルシアン姫のお取次ぎをせよと承っております。準備がある故、今しばらくお待ちいただきたく思います」

「えっ、そうなの?」

ダメだと言われたら強行突破してでもウィルクと話をするつもりのオルシアンであったが、取り次がれると言われればそれを無視するほど勝手でもない。あまりにもダラダラと時間を伸ばされたら話は別だが今この瞬間に限っては強行突破してやろうという彼女の意思は削がれることになった。

これはウィルクにとってはひとつの賭けであった。ここで少しでも足を止めることができれば、彼女の性格をある程度は読めていることを父に証明できるからだ。一連のやりとりを横目で見ていたウィルクは早速、交渉中の父にそれを示して見せた。

そして、一時的とはいえオルシアンの電撃訪問をうまくあしらった事実はクロウネにとっても評価に値するものであった。

「あれを止めよるか。……カルミア」

「なんでしょうか、大婆様」

「あの小娘、蛇に近づいておったと言うたな」

クオルデンツェ家との交流会の後、カルミアはクロウネからウィルクに接触する者を観察しておくよう言われていた。基本的に真面目な性格のカルミアとノヴァルフの婚約者コンビは夜会中も時折ではあるがウィルクの動きは観察していたのだ。そのため、次期当主会の開催前にウィルクが庭園をふらふらと散歩していることをカルミアは認識していた。

彼女は目で見ることはできないが、魔法を駆使することで周囲の物体を認知している。この物体認識の魔法は探知魔法とは全く別種の魔法であるため、主祖多数であっても発動に影響は出ない。もちろん、一度の発動で認知できる範囲や情報量に限りはある。人気のないところに移動するウィルクとそれを追うオルシアンの存在を捉えることができたのは、彼女も次期当主会に出席するため庭園をうろついていたからだ。ほとんど偶然である。

「ええ。おそらくはオルシアン姫の方から接触したのではないかと思います」

夜会中は周囲に他家の姿もあったため、カルミアはまだ必要最低限の報告しか上げていなかった。クロウネの問いに対し、彼女はそのときの状況について簡単に説明をする。

「小娘が恋焦がれたか?」

貴族外交では恋慕の情というものは決して軽視できない要素である。年頃の貴族少年少女が接近しているともなれば注目せざるを得ない。

当然、カルミアもそのあたりは理解している。

「そのような雰囲気はありませんでした。双方ともに」

彼女は既にそう結論付けていた。ウィルクとオルシアン、ふたりの会話からは甘く切ない恋心を微塵も感じなかったからだ。

「ただ、親しげであると感じました。先日の出来事や出自を考えると少し意外に思います」

歴史ある貴族家の嫡男に相応しい言動をするウィルクと、取り繕うことは不可能だと言わんばかりに平民丸出しのオルシアン。それは水と油のように混ざることはなく、理解し合うことはできないだろうとカルミアは思っていた。

実際、会合の場で彼女は同性ということでオルシアンに何度か話しかけられたが会話はほとんど弾まなかった。一方、ウィルクとオルシアンの間ではヒヤヒヤとする場面もあったが、黙り込んだり険悪になることもなく会話は成立していた。少なくともキローデよりずっと息が合っていたと彼女は感じている。

カルミアがその感想を伝えると、ノヴァルフもそれに同意した。

「ほう……」

クロウネが思案を巡らせた瞬間、静かなざわめきが響いた。クオルデンツェ護衛団の中から一人の貴族が、ウィルクが出てきたのである。

周囲の注目を集めるように、ウィルクは一歩一歩優雅に足を進める。華やかさえ感じる威風堂々とした所作には、大貴族の気品がこれでもかと言うほどに溢れていた。

「ウィルク君っ!」

目の覚めるような明るい声が朝空に高く響く。強い意思の込められたその音は、人々の意識を自然と惹きつけた。

再び対峙するふたりは、かたや素足の少女、かたや盛装の少年。それは先日殺意を交えた睨み合いをしたばかりの組み合わせである。

何かが始まるのではないかという予感と期待、そして不安が庭園を支配していく。この場にいる者すべてがあの日の脅威の波動を肌で覚えているのだ。

ウィルクは軽く息を吸い込む。朝の冷たく爽やかな空気が肺に満ちていくのを感じながら、少し大げさな身振りをした。それはこれから発言をするという宣言でもある。

ウィルクの一挙一動が注目される。 

「これはオルシ……」

「私、魔獣を倒しに行くの! ウィルク君も一緒に行こうよ!!」

もっとも、オルシアンにとってそのような貴族の流儀など知ったことではない。彼女にとって大事なことは他にあるのだ。

順を無視して一方的に用件を告げる彼女の無作法に眉を顰める者もいる。だが、言葉を遮られた当の本人であるウィルクは彼女を咎めるようとはしなかった。

その反応は余裕の表れなのだろうか。貴族たちは大貴族クオルデンツェの嫡男の器量を見定めるべく、そのやり取りを食い入るように見つめていた。

ウィルクは焦らない。彼女に礼儀を求めることなど無意味だととっくに諦めているからだ。

「魔獣の討伐……それは第二魔獣のことを言っているのか?」

「え? あれだよ? あれ。あーれっ!」

人差し指を立て、扉を激しくノックするように彼女は何度も片手を遠方に突きつける。そこには王都に迫る巨大な影がある。

あれ、あれ、あれ、と何度も繰り返すオルシアンのペースに巻き込まれないようウィルクは続ける。

「では、ミレンドルヴァ大公家から兵を出すということか? 一緒に倒そうという話だが……」

その問いは、オルシアンに向けたものではなかった。

少し離れた位置にいたミレンドルヴァ大公は、静かにその会話を見ていた。ウィルクの意識が自分に向いていることも理解している。

「キローデ。ならぬぞ」

共に行動をする息子を大公は強い視線で睨んだ。

「ですが、父様!」

大公はもう一度、ならんと口にした。そこには大領ミレンドルヴァの統治者に相応しい重圧が込められている。幸か不幸か、本気になった父親の静止を振り切るだけの胆力はまだこの少年には備わっていなかった。

オルシアン個人の暴走であれば、どうにでも片がつけられる。むしろ今になっては暴れてもらったほうが都合が良い。大公の頭の中では既に今回の落とし所についてのシミュレートは完了していた。

もっとも、その計算にクオルデンツェ家の参戦は想定されていない。なぜなら大公はウィルクとオルシアンの関係を悪いものとして認識していたからだ。少なくともウィルク側は悪印象を抱いていると思っていた。

そんな裏の事情を知る由もないオルシアンは、素直に言葉を返した。

「違うよ。行くのは私だけ」

その瞬間、ウィルクは静かに笑った。

「ほう、ミレンドルヴァ大公家からはオルシアン姫だけが出るということだな」

その声には非難の色は込められていない。だが、ウィルクははっきりと断言した。そしてオルシアンが反応を見せるよりも早く言葉を重ねる。

「ところで、私を誘ったということは他にも声をかけたところがあるのではないか?」

オルシアンは次期当主会で会った面々に声をかけたこと、断られたことを短く説明する。

「なるほど、ゼルドミトラ侯爵家とアテラハン侯爵家、どちらも援軍は出さないというわけだな」

そこでウィルクは首をゆっくりと左右に動かし、周囲の反応を確認する。発言に間違いがあるのなら修正してください、そんなポーズだ。

ウィルクはオルシアンをなだめつつ、しばらくの間そのまま待っていた。結局、動きを見せる者はいなかった。

「蛇め、何を考えておる……?」

ウィルクの発言により、ゼルドミトラ家、アテラハン家は前言撤回して今から援軍を出すとは言いにくい状況になった。同様に、ミレンドルヴァ家からはオルシアン以外を出すことも難しい。しかし、それだけだ。

クオルデンツェ家がオルシアンの参戦要請を拒否する理由として「みんなが行かないから」と言いたいのだとすれば、それはあまりにも無意味なやりとりである。そもそも「レヴィオスの責務はレヴィオスが果たすべき」の一言で終わる話なのだから。

オルシアンを怒らせないよう言い訳を強調しているのだろうか、それともまた別の理由があるのか。クオルデンツェ・ウィルクという人物を測りかねているクロウネはこのやり取りの真意について思案していた。

「ひとつ聞かせて欲しい。レヴィオスの責務はレヴィオスが果たすべきという意見もあるだろう。ミレンドルヴァでもそれは重々承知のはず……」

目の前の少女が短気を起こさないよう、慎重に言葉を重ねていく。ごちゃごちゃとした建前だらけのややこしい話に彼女の表情が曇ってきたところでウィルクは言葉を区切った。そして単純明快な質問を投げつける。

「……だからこそ今、正直に答えてもらいたい。オルシアン姫、貴女はなぜ戦おうとしているのだ?」

するとオルシアンはわかりやすい質問を待っていましたとばかりに、当たり前でしょ、と声を上げた。

「兄さんが言ってた。私には皆を守る力があるって。だから私は自分ができることをやるの。魔獣を倒す力があるから守る。だって、それが私の役目だから」

そこには貴族らしい裏も計算も感じない。真正直すぎるその言葉には、本心から出たものであろうと思わせるだけの意思が感じられた。

「ウィルク君も同じじゃないの?」

その刹那、ウィルクが歓喜の感情を僅かに漏らした。

それに気がついたのは、この場でただ一人だけである。狙い通りに事が運んだ、全ての準備は整った、獲物を巻きつけた蛇がまさに首をもたげた瞬間を見せつけられたような、そんな印象をクロウネだけが抱いた。その脳裏にはかつてアルペオ地方を混沌の渦に叩き込み、謀の君(はかりごとのきみ)と呼ばれたクオルデンツェ・カシアの名が浮かんでいた。

ここからウィルクは目的を果たすべく動き出す、クロウネはそう直感する。

はたしてウィルクは大きく頷いて見せた。

「力あるものがすべきことは何か、それを改めて考えさせられる言葉だ」

否定はしていない。だが、全面的に肯定しているとも受け取れない発言である。そこに貴族としての用心を感じざるを得ない。

「オルシアン姫よ、貴女がクオルデンツェを頼ってくれた事実を私は重く受け止める」

オルシアンが声をかけたのはウィルクという個人である。それを家という単位に捻じ曲げたこと、その意図に気が付かない者はいない。発言者である彼女以外は。

話をどう運ぶつもりなのか誰も想像ができなかった。だからこそ、それに続く言葉は多くの者にとって意外なものとなる。

「このクオルデンツェ・ウィルク、ミレンドルヴァ・オルシアンの要請に応じ今ここに協力を宣言する」

大きなざわめきが庭園全体に広がった。

クオルデンツェ家とミレンドルヴァ家の共同魔獣討伐か、ミレンドルヴァ大公が否定に動くのではないか、そんな声があちらこちらで囁かれる。

ウィルクは先手を取って動きを封じるため、片腕を大きく横に伸ばして場の静粛を促した。

「昨晩から続く一連の騒ぎ、これらは果たして偶然なのだろうか!?」

落ち着いた声から一転した激しい口調は、人々の意識を切り替える効果があった。先程の話は完結し、次の話に進むという強いアピールだ。ウィルクは話の主導権を握ったまま離さない。

「たまたま二体の成熟魔獣の襲来し、たまたま司祭勢力が乗じて襲撃を仕掛けた? はっ!? 誰がそれを信じるというのか!」

それは多かれ少なかれ、皆が思っていることであった。

魔獣が一体生まれ、それに便乗して襲撃者がひとりふたり出るくらいならあり得るかもしれない。だが、同じタイミングで誕生した二体の成熟魔獣と、王都社交のために警戒を強化していたレヴィオス軍をすり抜けるように現れた襲撃者たちは明らかに不自然だ。

確証こそないが、状況はそれが偶然でないと示している。だからこそ貴族たちはウィルクの語りに耳を傾けてしまう。

「これら全ては人為的に引き起こされたものと考えるべきなのではないか? 我々は攻撃を受けているのだと!」

だが、一体どうやって。そんな無言の問いに答えるようにウィルクはここで一番大きな声を上げた。

「関与を疑うだけの根拠はある! クオルデンツェはそれを知っている!!」

そこでウィルクはおもむろに自分の装飾具を取り外して手に取ると、天高く掲げた。それは魔獣シベルクローガの宝珠を用いた装飾具だ。 

王都社交の中で、その昏い色をたたえた宝珠を気にしなかった者はいない。小さくて見えにくいが、ほとんどの人物がウィルクの手の中にある装飾具が何なのかを察していた。

「読めたわ」

そしてこの時クロウネの思考は、ウィルクの、そしてクオルデンツェ家の狙いに到達した。

「大婆様?」

「蛇と小娘、存外近いやもしれぬ」

ウィルクは根拠の詳細を語ることなく、近づいてきたメイドにその装飾具を手渡した。メイドはそのままクオルデンツェ護衛団の中に入っていき、それをクオルデンツェ・ルークセへと届ける。

詳しい話は父に聞いてくれ、行動でそう主張していた。

衆人の目が己に戻ってきたところで、再びウィルクは口を開く。

「王都レヴィオスに到着するまでに私は数多の領地を通ってきた……」

それは先程までの敵愾心を煽り、怒りさえ感じさせる口調とは異なり、落ち着きのある声だった。

「これまで地図でしか見たことのない地を、己の眼で見てきた……」

ウィルクが語る中、クオルデンツェ派の貴族たちは既に行動を開始していた。それに気がついている者は決して多くない。

「関所、砦、城壁、いくつもあった。地図で見た通りだ」

ウィルクは語り続ける、次の行動を起こすための時間を稼ぐために。

「だが、この大地のどこにも領地の境界線は描かれていなかった」

余所から邪魔が入らないよう、語り続ける。

「私の足元に広がっていたのはいつも同じ、エルオの地であった」

そしてウィルクはオルシアンを見た。

「……個人的な想いを言わせてもらえば、昨晩からずっと歯がゆい思いをしていた。魔獣が大地を蹂躙しているにも関わらず、動くことのできない己に」

その言葉を聞いたノヴァルフは、そっと視線を逸らす。

「自分が何者なのか、ずっと自問自答していた」

クロウネは夜の出来事を思い出していた。ノヴァルフもまたオルシアンから魔獣討伐に誘われたが、貴族の責務を理由に断っている。だが、彼が内心それを不本意に感じていたこともクロウネは察していた。いままた目を逸らしたのも同じ理由からだとも。

そしてクロウネはひとつの懸念を抱いた。もしやと思い、王国の若い貴族たちを観察すると多かれ少なかれウィルクに共感を覚えている者がいたのだ。

貴族は大地を守るもの、他領だからといって本当に魔獣討伐を任せて無視をしていても良いのだろうか……そんな心に生まれた矛盾に向き合おうとするウィルクの言葉は、若い貴族の心を惹き付ける。

「これも、時勢か」

クロウネにとって、大地の守護者という言葉はただの飾りである。他家に戦争をふっかけたり恫喝するための大義名分でしかない。彼女の生きた時代は魔獣よりもむしろ他家の貴族による侵略から土地を守るほうが重要だったからだ。

だが、レヴィオス王国という同盟が作り出した長い平和は乱世の価値観を少しずつ古いものにしていった。王国貴族間の戦争禁止により領地を守るという要素は対魔獣の色合いが濃くなっていったのだ。今の時代を生きる王国の若い貴族にとって、大地の守護者という大義はクロウネが思っていた以上に重く、心の奥底に根ざしたものになりつつあった。

ウィルクの行動の根っこにあるのは貴族の打算であると、クロウネは半ば確信している。しかし、大地の守護者としての義憤に駆られた行動だと言われれば完全に否定することができなかった。

ウィルクは周囲の状況を確認しながら続ける。

「何者かの謀略に違いない……そうは思っていても動けずにいた。最後の一歩を踏み出す勇気を与えてくれたのがオルシアン姫、貴女だ」

準備が整った。その合図を確認するとウィルクは大きく一歩、前に踏み出す。

「私は何者か。私は貴族、力を持つものだ! ならば、立ち上がらなければ! 悪しき攻撃には報復をしなければならない!」

ある貴族の少年は大人たちの魔獣戦を避けようとする姿勢に苛立っていた。またある貴族の少女は大人たちの消極的な態度を情けないものだと感じていた。彼ら彼女らはウィルクの言葉に感化され、心を踊らし、羨み、憧れた。

プルーメは静かに胸に片手を当てる。そこにはこれまでにない高鳴りがあった。

ウィルクは大きく息を吸い込み、右腕を高く伸ばす。

「私は、私たちの責務を今ここで果してみせる!!!」

その指先は第二魔獣に向いていた。

「行くぞ!! 私に付き従う者たちよ!」

もう片方の腕を動かすと、密かに集い整列していた100人ほどの武官が一斉に前に出て姿勢を正した。そして用意された一頭の馬にウィルクは跳ねるように舞い上がり騎乗する。

「ウィルク君は馬で行くの?」

「ああ」

「私のこと後ろに乗せてよ。この服だと走りにくいから」

そう言ってオルシアンは黒一色のドレスのスカートを広げ、ぴらぴらと揺らしてみせた。見るからに走りにくそうなドレスではある。ウィルクは少しだけ悩んだが、すぐに結論を出した。

「俺の頼みをひとつ聞くのなら」

「何?」

それを口にするよりも先に、ウィルクは手を差し出した。

「これからは手を握ったくらいでえっちえっち言うな。もう言わないと約束するなら乗せてやる」

一瞬、きょとんとした表情を見せたオルシアンだったが、すぐにぱあっと明るい笑顔を浮かべて手を取った。

「もー、しょうがないなぁ」

「しょうがないことあるか、当然の要求だ。そうしないと馬に上げるだけでえっち扱いされてしまうからな。……ほら、上げるぞ」

ウィルクが力を入れると、思いの外簡単にオルシアンは馬に上がった。ふわりと舞い揺れる黒のドレスが目を奪う。

ひとつの馬に騎乗するウィルクとオルシアンを人々は様々な思いで眺めていた。ミレンドルヴァ大公は苦々しく思い、クロウネは警戒心をより強くする。レヴィオス家の者は苦悩し、一方でゼルドミトラ・サーディンは不敵な笑みを浮かべていた。

しかし、そこには共通する感情もあった。それはうっすらとした期待感である。この場における最強と思われるふたりが手を取り合ったのだ。強いことが尊ばれるこの世界でそんなものを見せつけられてしまっては、どうあってもワクワクする想いは芽生えてしまう。ふたりを止めることなどできるはずもなかった。

「振り落とされるなよ」

「うんっ!」

ウィルクとオルシアン、そして急造の部隊は風のように庭園を駆け抜けていった。

「……父様。貴族の責務とは、なんですか」

キローデは隣に立つミレンドルヴァ大公の顔を見ることなく言う。

「我々は力を持つ、人のうちにある主たる者。……大地の守護者ではないのですか」

大公はどう答えるべきか言葉に詰まった。ウィルクの語った内容はただの子供の理想論ではなく、明確な打算に溢れた貴族外交と呼ぶべきものである。既に大公はその目的を理解していた。

しかし守護者としての矜持を刺激するその物言いは、幼い貴族少年にとってあまりにも眩しいものに映ってしまった。

「これでは庇護を受けた地で生を喰むだけの惰弱な存在……」

その声は憤りで満ちている。

「隷する者と変わらないではありませんか」

キローデは去っていくウィルクとオルシアンの背中を食い入るように、ただじっと睨んでいた。