窓から外を見上げれば、墨をこぼしたような夜空に白く大きな月が浮いていた。

蝋燭の火の色に慣れていた俺の目が少しだけ眩む。

月に向かって腕を伸ばし、手のひらを月に重ねてもその姿を完全に覆うことができなかった。

同じことを地球でやれば親指ひとつで隠すことができるというのに、こちらの世界の月は随分と大きい。

未だに違和感を覚えるその月輪に、自分が遠い世界に来てしまったことをあらためて意識してしまい、冬の冷気と相まって少しだけ心細い気持ちになった。

こんな夜は暖かくて柔らかいものでも抱いて眠りたいものである。例えば女体とか。

魔法で周囲の空気を温めながら、俺は視線を空から市内へと下げていく。

もうほとんどの市民は活動を終えたのだろう、市内の明かりはまばらで今にでも消えてしまいそうに見えた。

「若様」

熱いお茶を飲みながら市内を見下ろしていると、扉の向こうから男性の声が聞こえる。

窓枠に片足をかけて闇夜を眺めてぼんやりとしていた俺は、言葉にならない唸るような音を発して返事をした。

「お連れ致しました。入室をしてもよろしいでしょうか?」

どうやら待ち人が来たようだ。俺はクオルデンツェ家の嫡男らしい表情を固め、窓から離れる。

余裕を持って椅子に座り、扉の向こうに入室の許可を出した。

「失礼致します」

そう言って最初に入ってきたのは、普段はあまり見かけない武官であった。

入室するなり、彼は流れるように見事な礼の姿勢を取る。その動きはしなやかで、武官特有のゴツゴツとした感じが全くなかった。

「……お前、普段は館に勤務しているのか?」

「はっ!」

俺の疑問に対し、武官は姿勢を正したまま答える。

ニューネリー市の郊外には、単に「館」と呼ばれる建物があった。

その建物の屋根は天を突く槍のような攻撃的な見た目をしており、夜よりも濃い黒の城壁は威圧感にあふれている。

賊の侵入を防ぐために周囲に設置された広い水堀は広く、窓から遠目に眺めれば、水面が月光を反射してきらきらと輝いていた。

「なるほど、様になっているわけだ」

館の役割、それは捕虜収容所である。

クオルデンツェ家は領地を西に拡大してきたわけだが、当然、そこには支配者である貴族家が存在していた。

ジンカーエン帝国・旧ヴォイストラ派に属する貴族家である。

これらの貴族家をひたすらに踏み潰した結果、館には女性貴族や騎士家の娘などが集められることになったわけだ。

館はもともと他領の貴族が来訪した際の宿泊施設、迎賓館のような建物だったそうだが、貴人の捕虜が増えた結果、改修されて収容所になったのである。

なお、男性貴族や騎士は捕虜にしても旨味が少なく、むしろ手元に置いておくと危険なので捕虜にするチャンスがあるのなら殺してしまうそうだ。

父曰く、貴族女性の捕虜は美味いらしい。

もちろんそれは下半身的な意味ではなく、政治・外交的な意味だ。

例えば、滅ぼした貴族家に嫁としてやってきた女性貴族を捕虜にできたらどうなるか。

この場合、クオルデンツェ家は捕虜の実家に対して恐喝外交をしかけることができる。

引き渡す代わりに金銭を求めたり、クオルデンツェ家に対する敵対行動をやめるよう強要したりと様々だ。

即座に恩恵にあずかれるという点ではこれ以上に良いカードはないと、父は言っていた。

他には、滅ぼした貴族家の姫を捕虜にすることもある。

ただ、捕虜姫は使い道が限られる。大体において姫を回収できるのは勝負が決した後、家が滅んだ後の話なのだ。賠償金を要求しようにも相手がいない。

滅んだ貴族家の姫なんて捕虜収容所でどんな扱いをしたとしても誰も文句は言えないし、そもそも知りようがない。そういうわけで、通常であれば捕虜姫の未来は非常に暗いものになる。

なぜなら腐っても鯛、お家が滅んでも姫は主祖のままだ。平民が捕虜姫を犯した場合に生まれる子供は従祖、魔力持ちである。

性に敏感な男性貴族と違い、女性貴族はとりあえず股を広げて寝ているだけで良いので、一年に一人程度のペースだが確実に従祖を手に入れることができる。

従祖の子供はいくらでも使い道があるため、出産後は母親である捕虜姫から引き離され、クオルデンツェ家を支える一員となるための教育が施されるのだ。

もっとも、今なら他領の貴族男性に売るという選択肢もある。

魔獣エルシニアによる奇病で主祖の数が減った昨今、子が不足している貴族家では喉から手が出るほど主祖の姫が欲しいことだろう。

すでに滅んだ貴族家の姫であれば、多少ぞんざいに扱っても文句は言われないので気楽に扱える。

捕虜姫は従祖製造機から主祖製造機にクラスチェンジして売られることになるのだ。

たまに父が他領の男性貴族をニューネリー市に招待しているのだが、捕虜の中に好みの姫がいないか品定めをさせているのだと思う。ちんこにピンと来るものがあれば、お買上げされるのだろう。

仮にこの取引がうまく進めば、クオルデンツェ家は他家に恩を売れるだけでなく、莫大な金銭が手に入り、しかも諜報活動がしやすくなるという、とてつもない利益を得られる。

捕虜姫を他家に売る場合だが、単品で送り出すわけにはいかない。将来にわたって禍根を残す可能性があるためだ。

貴族男性は好きになった女性を偏愛することも珍しくない。怨みを抱えたままの捕虜姫がいつの日か売却先の貴族男性をそそのかし、クオルデンツェ家と敵対するよう暗躍する事態も考えられる。

そこでどうするかというと、クオルデンツェ家の使用人を捕虜姫のお世話係として一緒に送り込むのだ。

使用人は捕虜姫の監視と洗脳を進めつつ、ついでに他家の内情を調べて報告するスパイとしての役割が期待されている。

洗脳と言っても、それはあまり難しい話ではない。知らない土地で知らない男性のものになってしまった捕虜姫の不安な心をケアしてくれるのは、クオルデンツェ家から派遣された使用人しかいない。年若い姫が使用人に依存してしまうのも無理はない話である。

こうしてだんだんと捕虜姫は洗脳され、悪感情を抱かなくなっていく。

全てがうまく進めば捕虜姫はクオルデンツェ家に従順な姫となり、やがて他家の跡継ぎを産むことになるのだ。コストパフォーマンスだけで考えれば下手な実娘を嫁に出すよりも利益がありそうだ。

「こちらが最新の報告でございます」

武官の差し出した報告書を手に取り、俺は軽く目を通した。

本日の待ち人、ゼス教聖高会の司祭シンシアは軍によって拘束された後、館に移送されて軟禁生活を送っていたのだ。

魔力持ちの人間を拘束することは難しい。

魔法を使えないようにする魔封印を施した状態が一番だが、この処置を行うための魔力持ちの人員が必要になり、しかもいつ封が解けるかわからない。

魔力の復活した従祖は鉄製の拘束具程度であれば簡単に破壊できてしまうので、油断ならない存在なのだ。

だが、捕虜が従祖ならまだ良い。クオルデンツェ軍には従祖兵が多いので、容易に脱走はできないだろう。

問題は主祖、女性貴族の捕虜である。彼女たちがその気になったら、騎士が束になっても敵わない。

主祖は魔力量が多いため、魔封印を施そうにも従祖では不可能、同じ主祖であるクオルデンツェ家の家人しかできないのである。

仮に魔法を封じたところでいつ封印が解けるともわからない主祖の捕虜は、時限爆弾のようなものだ。

そんな彼女たちを拘束するために、館は魔力を弾く石材で全面的にリフォームされている。

もっとも、帰るべき家のない捕虜姫は暴れることもほとんどなく、良い子ちゃんをしていることがほとんどらしい。

牢獄は広く、食事も十分に与えられ、天気の良い日などは武官の付き添いがあれば庭に出ることも許されているそうなので、それなりに良い生活はできているそうだ。

館勤めが長い武官は、捕虜姫たちと話をする機会もあるため物腰が柔らかくなる傾向があると聞いていた。

滅んだ貴族家の姫であっても、主祖に対する畏敬の念というものはあるということだ。

「若様のご命令の通り、無理な尋問はしておりません」

報告書に記載された内容はこれまでに受けたものとそれほど変わる部分もなく、すぐに読み終えることができた。

「そうか」

その報告書は、ニューネリー市の聖高教会教会長による無差別攻撃計画や、シンシアの出自に関する事柄などがまとめられていた。

一応、クオルデンツェ家に協力の意思を見せたこともあったため、俺はシンシアに拷問まがいの取り調べはしないよう厳命していた。

俺は拷問でズタボロになった女体に勃起するような加虐趣味は持ち合わせていないのだ。

「よくまとまっている。あとは本人から話を聞きたい」

ニューネリーに迷い込んだ古焼き、ゼス教聖高会の司祭シンシアを今晩中にニューネリー城に来るように伝令を走らせたのは他ならぬ俺である。

とりあえず報告書を読むよりも本人と話をしたかった。

「かしこまりました」

武官が部屋から退出し、そしてすぐに戻ってくる。前後を兵で挟まれた状態のシンシアが一緒だ。

服装はクオルデンツェ家から支給されたのか、修道服ではなく平民が着るような普通の服を着ていた。

尻を撫でるように長く伸びた桜色の髪と、赤の瞳がどことなく温かい印象を与える。

そしてやはり布がぱっつんぱっつんになるくらいに成長したその胸に目が行ってしまう。実に重そうだ。

シンシアは俺の姿を見定めるとはっとしたような顔になり、自己紹介がしたいという意味の姿勢を取った。

俺は護衛や武官を部屋の隅に配置させてから、シンシアに視線を向ける。

「許す」

許可を出すと、シンシアは司祭流の礼とともに名前や出身を語り始めた。

ゼス教聖高会の総本山・聖ナヴェンポスに籍を置く低位司祭。それがシンシアの本当の身分だった。

館に移送された後に武官が出自を問いただしたところ、「聖ナヴェンポスの方から来ました」と、消火器でも売りつけてきそうな返答をしたという。

エルオ大陸では前世地球のように厳密に国境管理などされていない。どちらかというと都市を囲う城壁がその役割になっている。

そのため、シンシアは特に苦労することなくクオルデンツェ領に入ることができたそうだ。

ゼス教の開祖ゼス氏は大陸中を旅して回ったため、信者もまた旅に出ることが良しとされている。。

レヴィオス王国に属する貴族家にありながらニューネリー市には聖高教会が現存しているため、敬虔な信者がたまに巡礼に訪れる。シンシアもその仲間だと思われたらしく、市内入りもそう難しくはなかったらしい。

「このたびは多大なご配慮をいただき、誠にありがとうございました」

机に向かい合うかたちになった俺とシンシアは、決まりきった礼儀のような挨拶を交わし合う。

貴族に謁見する格下の女性という立場を理解している、非の打ち所のない所作であった。

「……さすがに礼をわきまえているようだな。聖ナヴェンポスの……それも、聖巫の下につく司祭ともなれば当然か」

そこで、俺はさっそく本題に切り込むことにした。

聖巫とは、ゼス教聖高会における信仰の象徴として存在する階位である。

その役割だが、重要な式典や儀式、祝祭では最上位の存在として君臨し、そして、人間と精霊の間を取り持つことにあるという。

伝承によると開祖ゼス氏の孫娘が最初にその位に就いたと言われている。

そのためか、この階位に就くことができるのは開祖ゼス氏の血筋を受け継いだといわれる聖ナヴェンポスの名家の娘に限定されていた。

シンシアは聖巫の部下のひとりとして聖都で司祭をしていたらしい。

そんなゼス教の体現者といってもよい存在なのだが、歴史を見れば、栄華を誇り権勢を欲しいままにしていた聖高会の凋落のきっかけを作った存在でもある。

かつて、ゼス教聖高会は二頭政治に近い体制で動いていた。教皇という組織の長と、聖巫という信仰の長の2つの頭がある状態だ。

教皇は聖高会の最高権力者ではあったが、宗教上のトップではなかったのだ。

ただ、そうは言っても実際に聖ナヴェンポスの土地を治め、聖軍の最高指揮権を持ち、聖高会の実務を握っていた教皇位のほうが権力があったことは明らかだと俺は考えている。

教皇の選出にあたっては血なまぐさい権力闘争が繰り広げられることが常であったが、それが最も激化したのが今から200年前の動乱だ。

このときは教皇に選ばれなかった最高司祭とその支援者、そして聖巫が手を組んだのである。

組織の長と信仰の長が争う形になってしまったために聖高会内部の権力争いは泥沼化し、大陸を遍く覆っていたゼス教聖高会の威光は薄れ、乱世は広がり、それがやがて貴族台頭の時代を招くのであった。

紆余曲折を経て、司祭の権威が灰燼に帰してからようやく動乱は終息することになった。

皮肉なことに貴族の台頭によって司祭が力を失ったため、組織が矮小化して争いの規模が小さくなったのだ。決着がついたというよりは、共倒れになったと言ったほうが的確かもしれない。

荒れ果てた聖都に残った司祭たちは、争いが長期化した原因を作った聖巫という階位からすべての権力を剥ぎ取った。

聖巫の権能とされていたものは最高司祭たちの合議による承認がなければ行使ができなくなり、信仰の象徴としての役割を残すのみとなったのである。

噂によると、名家の娘の中から性格と見栄えの良さだけを基準に聖巫を選んでいるとか。

実に興味深い。

「少し話を聞かせてもらいたい」

「私にできることでしたら、なんなりと」

とりあえずその巨乳で俺のチンポを挟んでくれ、などとは言わない。

クオルデンツェ家嫡男としての表情を維持したまま、俺はシンシアにも茶を出すよう使用人に指示を出す。

俺もおかわりを注いでもらい、ふたり揃って茶を口にいれた。

「よい香りですね」

「気に入ってくれて何よりだ」

のんきに茶の香りを愉しむシンシアの胸元を見ながら、俺は考えを巡らせる。

今回俺がシンシアを呼んだのは乳のためではなく、父のためだった。

これまで一癖も二癖もある貴族たちを相手に外交をしてきた父だが、司祭を相手にしたことはほとんどなかった。

それもある意味当然の話で、父が誕生した時点ですでにゼス教聖高会は落ちぶれて歴史の表舞台からは消えていた。無視しても問題ない状態だったと言える。

突如として現れた聖巫の部下に対し、父は手探りで対応をしなければならないのだ。

そして父は、俺の意見を聞きたいと言った。

外交で父に頼られるのは思ってもみなかったので、少しだけ舞い上がってしまったことは否定できない。

即座にシンシアを呼びつけてしまったのはそういう理由がある。

「以前の談話を聞いて随分と博識な司祭だと感心したものだが、まさか聖都から来ていたとは思わなかった」

「いえ、私などまだまだ修行中の身にございます」

「聖都と比べてニューネリー市での生活はどうだ?」

じっと見つめられるとついバストに手が伸びそうだったので、俺は無難な話題を振った。

それにしても大きな胸だ。だぼだぼした服でありながら乳房が飛び出るように突っ張っているせいで、ぱっと見るとデブに見える。

手首や首まわり、顔つきを見れば、痩せ型とまでは言えないが十分スマートな体型だというのに損なものである。巨乳税みたいなものか。

「とても活気のある素晴らしい都市だと感じております。これもやはりクオルデンツェ家による善政があってこそではないでしょうか」

「ほう? 善政か」

「ええ。レヴィオス王国にありながら精霊の教えを失っていないことは大変素晴らしいことです。民草も心穏やかな日々を過ごすことができるでしょう。霧の大地に対する侵攻にも加担をしないクオルデンツェ家には、必ずや精霊のご加護があることでしょう」

貴族家の嫡男に対するおべっかかと思ったのだが、どうやらシンシアの本心のようだった。

要するに聖高教会の意向に沿っている領地運営が素晴らしいというわけである。

「霧の大地に? ……そういえば、聖高会はそんな声明を出しているな。理由がわからないのだが、なぜそのようなことを言っているのだ?」

ゼス教聖高会はレヴィオス王国やジンカーエン帝国に生きる平民に向かって、たまに声明を出している。

貴族による支配は間違っているとか、司祭を弾圧するレヴィオス家は死ねだとか、教会を破壊する領地は滅びるとか。

その定番の文句の中に、貴族は霧の大地に立ち入るな、というものがあった。

もちろんアンチ聖高会のレヴィオス王家はそんなものは無視、むしろ「やめろと言われたから逆にやってやるぜ!」と言わんばかりに、ノリノリで霧の大地への遠征をしていた。

なお、クオルデンツェ家が霧の大地に足を踏み入れないのは地理的に北上できないためであり、別に聖高会の忠告に耳を貸しているわけではない。

貴族支配、司祭弾圧、教会破壊に対する苦情は理解できるが、霧の大地への立ち入りに文句を言う理由はわからなかった。

せっかくだからと理由を尋ねてみたのだが、シンシアも詳しい理由は知らないようで曖昧に首を振るばかりだった。

聖高会のお偉いさんがダメだと言ったからダメだそうである。

「……ですが、貴族は霧の大地に手を出してはならないのです。最悪の場合、大陸全土が穢土に覆われてしまうこともあり得ると聞き及んでおります」

大陸全土が成熟魔獣によって汚染された土、穢土に覆われるということは、それすなわちエルオ大陸の人間が滅ぶことと同義である。

随分と大げさな物言いではあるが、霧の大地には聖高会にとって譲れない何かがあるのだろう。

開祖ゼス氏は霧の大地を含め、大陸全土を旅しているのだ。もしかしたら聖高会に残された文献になにがしかの秘密が示されているのかもしれない。

「穢土か……ふむ。教典の内容についてひとつ、聖ナヴェンポスで学んだ司祭の意見を是非とも聞かせて欲しいのだが」

どうぞ、とシンシアは笑みを浮かべた。

貴族が教典に興味を持っていることに対し、純粋に喜んでいるように見える。

「教典には、主祖は大地を守護せよ、といったような一文があったが……」

「『それから、白き雪の原は言いました。人のうちにある主たる者はエルオを護持しなければなりません。さもなければあなたがたは爾今実る麦に石打ちをすることになるのです。』……純教典の8部73章、12節のことでしょうか?」

「ああ、おそらくそれだ」

「白き雪の原とは、聖教典における雪原の精霊ティアメッサレイルと同一であると言われております。大地の大精霊ハーファネアルの眷属であり、12節の教文解釈ですが……」

彼女は聖都で前世地球でいうところの神学のようなものを学んでいたらしい。

俺から教典の話が出るや、そのさくらんぼのような紅い瞳を輝かせて止める間もなく宗教トークを始めてしまう。

本職の説教というものはそれはそれで興味深いものではあるのだが、俺が聞きたいのはそういう話ではなかった。

ニコニコと笑みを浮かべてとうとうと語り続けるシンシアに、俺は手のひらを向けて一時停止をするよう示す。

「……雪原の精霊の教えは当然、聖高会では尊ばれているのだろう?」

シンシアが頷くのを確認してから、俺は続けた。

「それならば、聞きたい。貴族の圧政から信仰を取り戻すため、大地を穢すことは許されるのか?」

ぴくりと動きを止めたシンシアに対し、まだ話すことがあると目で訴えて黙らせる。

今回、俺はこの質問をするために彼女を呼んだのだ。

「尋問の中で聞いたかと思う。あのディアナとかいう女とこのニューネリー市の教会長は手を組み、何かを企てていたと。そして、それは成熟魔獣を発生させてクオルデンツェ領を混乱させる計画だったのではないかと考えている」

ニューネリーフィールドの規模でそうそうタイミングよく成熟魔獣が発生することはない。教会長の企みと成熟魔獣の発生は何かしら関係があると考えるのが自然だ。

フィールド内部で発見された赤子や居住空間、そしてルペッタの話を考慮すると、主祖や従祖を生贄にした魔獣の成熟化計画が浮かび上がってくる。だが魔力持ちを喰らうことで魔獣の成長が進むというのは、現状では仮説でしかない。

クオルデンツェ家の文官たちはニューネリー城にある魔獣関係の文献を片っ端から読み漁ったそうだが、それを裏付けるものは発見できなかった。俺も暇を見つけては書物を紐解いていてみたが結果は同じだった。

クオルデンツェ家には文献が不足している。だが、聖高会は別である。

ゼス教聖高会の前身となる組織を含めれば1000年以上、いにしえの時代から聖ナヴェンポスに在った聖高会には、レヴィオス王国やジンカーエン帝国の貴族家にはない歴史がある。あまりおおっぴらにできない知識のひとつやふたつ持ち合わせているだろう。

「それは……申し訳ございません、私は存じて上げておりません」

そして既に文官や武官によってそういった情報の聞き取りは行われている。

シンシアは心底申し訳なさそうな口調で俺に謝罪し、前かがみになる。机に押し付けられた乳房がぶにゅりと動く様はなかなかに見応えがあった。

「その予想が正しいかを聞くつもりはない。知らないのだろう?」

「はい」

報告書によると、シンシアは純粋に司祭としての修行を積んでいるため、そういった魔獣関係の知識にはそれほど詳しくないのだと答えていた。

シンシアを全面的に信用するわけではないが、拷問して聞き出しても意味がないと俺は考える。

苦痛を与えて出てきた情報なんてデマカセの可能性もあるので、本当に知りたいと思ったのなら軍の監視のもとで従祖を魔獣に喰わせて検証するのが一番確実だ。

首謀者のひとりであるディアナの仲間と思われていた3人の従祖はただのゴロツキまがいの傭兵であり、こちらは処刑予定となっている。どうせ殺すのであればそっち方面で有効活用しても良いのだ。

ディアナを締め上げて計画の全容を吐かせることができれば一番良かったのだが、クオルデンツェ軍による拷問が待ち受けているとわかるや即座に自害してしまったそうだ。テロリストの鑑である。

「俺が聞きたいのは最初の部分だ。教典の教えに反して穢土を撒き散らすような行為は許されるのか?」

嫌味ではない。ただの純粋な好奇心である。

シンシアは少しものを考える仕草を見せてから、髪を手で撫でつつ口を開いた。

「それは避けるべき解決手段ですが、教典の教えには反しておりません。……いえ、反することが許されているのです」

「はぁ……?」

てっきり司祭擁護の発言が返ってくるものだと思っていたが、シンシアはきっぱりと答えた。

「失礼ながら、ウィルク様は司祭から教典の手ほどきを受けたことはございますか?」

俺は教典を一通り読んでいるが、これは完全に趣味の一貫であり、司祭を招いて家庭教師にしたわけではない。

知らないことを恥じるほど中身は子供ではないので、俺は素直に無いと答える。

「それでしたら、まずは教典について簡単なお話をしましょう」

シンシアは柔らかい口調でこちらに語りかける。それは子供にものを教える教師のようでもあった。

頭の中に教典が入っているのか、彼女は自分が必要としている部分をつっかえることなく暗唱し、それについての解説を続ける。

自信に満ちた語り口は、教典に対して真摯に向き合ってきたこれまでの彼女の歩みを見せつけるようでもあった。

しばらくの間彼女は教典の話を続けたのだが、それには共通点があった。言うなれば、ゼス教の教理とも言うべき根本的な考え方を説いた部分だったのだ。

みんなで仲良く生きていこうとか、人を傷つけてはいけないとか、人のためになることをしようとか、なんというか努力目標、日本国憲法で言うところのプログラム規定みたいな部分だ。

「……挙げるとすれば、このようなところでしょうか。大地を穢土で穢すことは当然、これらの教えに反します」

「当然だな」

成熟魔獣を解き放つテロなど、人を傷つけるし、人のためにならない。一般的な教理に反することは当然のことである。

「それに雪原の精霊の言葉もあるだろう。教典の教えに二重で反しているではないか」

だがシンシアは、続く俺の意見をきっぱりと否定した。

「ウィルク様は司祭の手ほどきを受けておりませんので、仕方がございませんが、それは誤った解釈です。雪原の精霊ティアメッサレイルのお言葉は、『人のうちにある主たる者はエルオを護持しなければなりません』……というものです」

「人のうちにある主たる者とは、主祖のことだろう?」

「はい。そちらはその認識で構いません。では残りの、エルオを護持せよというお言葉はどうでしょう。エルオとは何か。ウィルク様はどのようにお考えでしょうか?」

「大地のことだろう? 民の生きる大地だ」

俺はそういうふうに教わっているし、間違ってはいないはずだ。

しかしシンシアはその答えを予想していたのだろう、特に驚く様子もなく、やんわりと首を振った。

「帝国や王国では 『大地』 と同義に扱われているようですが、これは誤った解釈で正しくありません」

俺のイメージとしては、人々の生きる大地、に似たような感じの単語なのだが、聖高会では学説がいくつもあるほど難しい単語らしい。

なお、貴族の間では完全に 『エルオ = 大地』 が定説……というか確定事項である。

聖高教会の解釈は違うのか、と言葉を漏らした俺に対してシンシアは少し顔を暗くして呟いた。

「レヴィオス王国では正しい教えが失われ、正しい信仰が消えていく……。そしてそれを正せる者はいない……なんて、恐ろしいことでしょう……。聖巫様の仰っておられたことはやはり正しかったのですね……」

今にも泣きそうな口調で嘆き悲しんでいるシンシアには申し訳ないが、俺はとりあえず話を戻すことにした。

「エルオという言葉に対する解釈の違いということだな。それで、聖高会ではどういう意味になるのだ?」

「単純化してお答えしますが、エルオとは理想の地を指します。正しい信仰に守られ、人々が共存する世界。つまり」

「貴族の支配下にある大地など、護るべきエルオではないということか」

「……はい」

なんだろう、司祭にとってこの上なく都合の良い解釈に聞こえる。まあ、その解釈をするのが聖高会なのだから当然か。

「雪原の精霊ティアメッサレイルのお言葉の真意、ご理解いただけたでしょうか」

「ふむ……。大地を守れ、ではなく、貴族を打ち倒せ、というメッセージに早変わりするわけか」

シンシアは俺の言葉に対し、顔を青くしながらも肯定を示し、ふぅと息を吐いた。

貴族に向かって貴族を打ち倒せなんて言うのは、やはり気が引けるようだ。

だがそこをごまかして貴族のご機嫌取りに動くことなく司祭として真実を告げてくるあたり、なかなか良い根性をしている。

「そして精霊からの強いお言葉は、弱いお言葉に優先されるのです」

弱い言葉というのは、みんななかよくしようね、とか、人を傷つけちゃだめだぞ、といった言葉である。

より強い指示があった場合は大雑把な教えは少しくらい目を瞑っても良いらしい。

ロンゲストマッチの原則に近い考え方だろうか。相反する教理に折り合いをつけるための解釈方法としては無難だと思う。

「避けるべき手段ではあるが、教典に反しないとはそういう意味か」

信者としては弱い言葉であっても無視しないほうが良いに決まっている。

だが強い言葉を守るためという大義があるのであれば、それは絶対ではないということだ。

つまり、雪原の精霊ティアメッサレイルの言葉を大義名分とする司祭がいれば、貴族に対する魔獣テロも許されるというわけだ。

「ただ、私はどのような理由があっても大地を穢す行動が正しいものとは思えません。弱いお言葉であってもそれは精霊のお言葉。決して蔑ろにしてはならないのです。聖巫様も同じ思いに違いありません。ですから……」

聖高会はテロ組織じゃないんだよ、と思い出したように補足するシンシア。

確かに、ここで話が終わると貴族に喧嘩を売った司祭ということで終わってしまう。

俺はシンシアの言葉を受け入れるポーズを取ってから、再びテロを容認する司祭の話に戻す。

「しかし、貴族に対抗するために大地を穢土まみれにしては意味がないように思える。汚染されつくした大地では信仰も何もあったものではないだろうに」

大地の汚染は軽度であれば数年で自然浄化されるのだが、重度であったり、上塗りするように何度も汚染されると数十年、数百年単位で浄化されない。

下手にテロ路線に走ると次世代が大変な苦労をすることになってしまいそうだ。

「それは……エルオを取り戻せば、奇跡が復活することも考えられます」

「ああ、奇跡ね」

宗教の御多分に洩れず、ゼス教聖高会にも奇跡ネタがある。

歩くだけで穢土の大地がまたたくまに浄化されて麦の穂る大地に早変わりしたとか、そういうエピソードが教典には割と書かれているのだ。俺は話半分程度にしか信じていない。

「聖高会の司祭たちは穢土にまみれた大地を手に入れても、奇跡の力で浄化できると思っているわけか?」

「正しい信仰があれば、必ずや精霊の導きがあることでしょう」

嫌味っぽく言ってみたのだが、普通に返されてしまった。

どうやらシンシアは本気で奇跡を信じているらしい。

「それならば今の聖ナヴェンポスの穢土が放置されているということは、信仰が失われているという証明になってしまうのだが……」

聖ナヴェンポスは領地のあちこちに動乱の爪痕、穢土の大地が残っている。

聖高会が信仰心にあふれる宗教ならそんなものとっくに奇跡でなくなってなければおかしな話である。 

俺は内心言い返してやったと思ったのだが、あろうことかシンシアはうんうんと頷いた。

「はい。聖巫様もその点を嘆いておられます。司祭が信仰を見失っているからこそ、聖都から奇跡は失われてしまったのでしょう。そう、いまこそ正しい信仰を取り戻さなければならないのです。精霊への依拠によって聖ナヴェンポスを再誕し、再び大陸に奇跡をもたらさなければ。それが、始祖ゼスの門徒たる私たちの使命なのです……! 太陽の大精霊ウォーテントサーマよ、どうか我らが信心を御高覧下さいませ」

なんだかえらい盛り上がってしまったシンシアに、俺は適当に相槌を打つ。

ニューネリー市の聖高教会にいる信徒や司祭に比べると、さすが本場の司祭だけあって意識が高い。

賛美歌を歌うように理想論というか夢物語を語る彼女の揺れるバストが素晴らしかった。

それにしても、こうして実際に話をしてみると貴族と司祭の価値観には大きな差を感じる。

大地の守護者であることを挟持とする貴族に対し、司祭はそれほど気にしていないように思えるのだ。

だが確かによく考えてみれば教典で 「大地を守ろうぜ」 と直接言っているのは雪原の精霊くらいだった気がする。

しかもそれでさえ教典解釈によって貴族抹殺命令に早変わりしてしまうのだから、どうしようもない。

純正の貴族である父がシンシアの尋問結果を聞いて自信が持てなかったのもよくわかる。

価値観の多様性にあふれる地球時代を知る俺と違い、ある意味で閉鎖主義に近い貴族社会しか知らない父にとってシンシアは異物だ。

こちらの常識と思っていることが通用しない相手というものは、本能的な不安を感じるのだろう。

「貴族と、司祭か……」

もともと、貴族と司祭の関係はいうなれば中央官僚と地方役人のようなものだった。

中央である聖ナヴェンポスからやってきた司祭が土着の領主である貴族を下につけて間接的に土地を支配していたのだ。

聖軍という圧倒的な武力はもちろん、豊かな経済力と、先進的な文化を持った聖ナヴェンポスの司祭を迎え入れることは貴族側にもメリットが大きかった。

だが聖ナヴェンポスでの動乱をきっかけに、大陸は大荒れになった。

司祭からすれば出向先の領地がいくら荒れてもそれほど痛い思いはしないが、領主である貴族は死活問題だ。己の故郷が荒れていくのは許せないだろう。

貴族台頭の時代の先駆けを作ったことで知られるゼルドミトラ家が司祭支配からの脱却を目指した時、エルオを護持しろと言われて護持しない司祭などいらん、といったような趣旨の発言をしたと言われている。

当時、エルオという言葉がどう解釈されていたのかはわからないが、ここで 「エルオ = 大地」 と解釈をすり替えることで司祭支配から貴族支配への権力移行の大義名分を作ったのかもしれない。

歴史的な経緯を考えてみれば、司祭支配から脱した貴族たちが大地を護ることに誇りを持っているのは当然だろう。

貴族支配というものは、司祭から大地の守護者という立場を奪った結果なのだから。

逆に司祭がそこまで大地を護ることを重視していないことは、シンシアの話を聞くまでなんとなくわからなかった。

宗教上の奇跡なんて胡散臭いとしか思えない俺からすると、頑張って大地を守ろうとする貴族の考えのほうがまだ理解できるからだ。

レヴィオス王国では教会が破壊されて長い月日がたつ。

もはやすでに雪原の精霊ティアメッサレイルの言葉は貴族社会で独自の進化を遂げ、騎士道ならぬ貴族道のような価値観を生み出したと言えるのではないだろうか。

そして、貴族と司祭の価値観の最大の隔たりはここにあるのだと、俺は確信した。

「それにしてもつくづく争いを招く文章だな。ティアメッサレイルはゲトゥラナーガのお友達かもしれんな、これは」

「え?」

「む? 戦場の精霊ゲトゥラナーガだが?」

雪原の精霊ティアメッサレイルの言葉によって貴族が司祭を駆逐し、そしてまたその言葉によって司祭が貴族に対抗しようとしている。

ティアメッサレイルの言葉が貴族と司祭の対立を煽るわけで、それを皮肉った形で戦場の精霊と仲良しなんじゃないかと言ったわけだが、どうにも俺のインテリジェスあふれるジョークは通じていないようだった。

「それは存じておりますが、なぜ戦場の精霊ゲトゥラナーガなのかと思いまして」

シンシアによるとゲトゥラナーガは気難しい性格らしく、お友達という表現を使うのであればもっとぴったりな戦い系の精霊がいくらでもいるそうだ。

残念ながら俺は教典は読んだことはあるが、それのスピンオフというかおまけのような聖人対談集や精霊ガイドブック的な本はあまり読んだことがないので、精霊の性格なんてほとんど知らない。

知ったかぶりの知識で冗談を滑らせるというなんとも恥ずかしいことをしてしまったようだ。

「聞きなれた名前がつい出てしまってな。浅い知識で話をするものではないな、反省しよう」

こちらに恥をかかせてしまったことに気がついたシンシアは、あわあわと狼狽しながらも謝罪をした。

お偉方の冗談はとりあえず褒めておくべきなのに、精霊ネタだったので素で反応してしまったのだろう。

「え、えっと……戦場の精霊ゲトゥラナーガの名前を聞きなれるというと、オルシアン姫の?」

「そうだ。市内でも噂話くらいは聞こえていたのではないか?」

レヴィオス王家に真っ向から戦いを挑んで連戦連勝、ものすごい速度で侵攻していったミレンドルヴァ家のオルシアン姫は、その圧倒的な戦闘能力からゲトゥラナーガの化身とまで呼ばれている。

嘘か真か、身分を隠してレヴィオス領でスパイ活動をしていた聖高会の司祭がオルシアン姫の快進撃を見て、「レヴィオス家ざまあ! 彼女こそまさにゲトゥラナーガの化身! 精霊の鉄槌を受けよ!」と、高笑いしたという噂もある。

そういうわけで、オルシアン姫の武勇伝とゲトゥラナーガの名前はセットで広まっているのだ。

シンシアは市内で聞いた噂話をいくつか喋ったが、なんとも司祭寄りに解釈された理想のオルシアン像を語られた感じがした。

まあ、ゼス教聖高会からすれば彼女が救世主のような存在に映る部分があるのは致し方ない。

市内の噂話をしたことで、政治的な話は鳴りを潜めて日常のほのぼのとした話へと移っていく。

シンシアのニューネリー市で過ごした日々の話に始まり、クオルデンツェ領に入ってきたときの旅話になり、そして聖都での生活の話へと遡っていく。

聖都の現状をほとんど知らない俺にとって、それは興味深く新鮮なものであった。

「……ほぉ、聖都は思った以上に復興が進んでいるのだな」

話を聞く限り、聖都マグアオーゼは俺が想像しているよりもずっと再建が進んでいるように思えた。

ニューネリー市を訪れる行商人から聖都の様子を聞いたことはあるが、彼らの話だとそれこそ荒れ地と穢土にまみれた世紀末都市だったというのに。おべっかでも使われたか。

近年では復興も進み、一部の司祭の領地は力を戻しつつあるようだ。

聖都の情報を特に隠すでもなく、むしろ興味を持ってもらいたいとばかりに話すシンシアに、俺は少しだけ困惑する。

何かを質問すれば、答えに悩むことなくひょいっと返事が来る。一応、レヴィオス王国と聖ナヴェンポスは敵対関係にあるのだが、こうも無警戒だとこちらが不安になってくる。

聖高会の悪い印象を払拭するために活動しにニューネリー市に来ました、と言った彼女の言葉はもしかしたら本心なのかもしれない。

「……そうそう、当代の聖巫はどのような人物なのだ?」

「聖巫様ですか?」

シンシアは頬に手を当てて、姿勢を正した。

「素晴らしいお方です」

「うむ、では外見などはどういった?」

名家から美しい娘が選ばれると噂の聖巫ならば、相当な美女にちがいない。

情勢によってはレヴィオス王国貴族が聖ナヴェンポスに侵攻をするかもしれないのだ、聞いておいて損はない。

「聖巫はくれてやるっ! お前たちの好きにしろ!」「さっすがー、レヴィオス王家は話がわかるッ!」という展開がないとも限らないのだ。

聖都の信者どもに戦争に負けた聖巫様の公開レイプショーをお見舞いしてやる展開だってゼロじゃない。

シンシアは聖巫の容貌について、精霊を例えに出したりしながら説明をする。

はっきり言ってほとんど意味不明だったが、とりあえず美人だということは伝わってきた。

黒髪黒目の美少女で、俺の1歳年下らしい。うん、美味しそうだ。

「……容姿が麗しいことはもちろんですが、何よりも教典に向かい合うその御心こそが尊いのです。聖巫様の信心は、全ての教徒の鑑といえることでしょう」

彼女の語る言葉から脳内に聖巫のイメージを作成中だったため、俺は少し上の空になっていたようだ。

シンシアはことさらに聖巫の信仰心について語った。

「なるほど、聖巫は敬虔な教徒なのだな」

そう言いながら、俺は父から聞いた疑いについて考えていた。

それは、聖巫腹黒説である。

父は、聖巫が謀略家としての性格を持つ強かな雌狐ではないかと考えているのだ。

現在のレヴィオス王国……というかレヴィオス王家は、王国貴族を総動員した聖ナヴェンポス侵攻を熱望している。

これには2つの目的がある。ひとつは王家の求心力を取り戻すこと、そしてもうひとつが王国の安定だ。

クオルデンツェ家が西部貴族をまとめる際にナンボナン都市戦を利用したように、ボスの指導力を示すには戦争が一番手っ取り早いのだ。

ではどこに戦争をふっかけるべきかと考えれば、自ずと答えは聖ナヴェンポスに収束していく。

かつてレヴィオス家はアンチ聖高会の御旗となって周辺貴族の心をまとめあげ、レヴィオス王国を建国した。聖高会をボコボコにすることは在りし日の「強いレヴィオス家」を取り戻すことに繋がるわけだ。

そして戦争に付き物なのが捕虜である。レヴィオス王国はこれが欲しくて欲しくて仕方がない。

現在は魔獣エルシニアの撒き散らした奇病により、貴族、つまり主祖の数ががっつりと減ってしまった。

この問題を解決するには貴族が子を産むしかないわけだが、そもそも主祖である姫まで減ってしまったのでそう簡単に解決する話ではない。

弱小の貴族家では嫁を確保できず、領内に精霊の祝福を受けた娘が生まれていないか血眼になって探しているという。レヴィオス王家など、他家に嫁に出た娘を無理やり離縁させて家に戻したくらいだ。

聖ナヴェンポスは司祭の国であり、支配階級の高位司祭は主祖である。

レヴィオス王家は戦争で高位司祭の娘を奪いさり、王国貴族家に分配して国内の安定を目指すこと考えているに違いない。

さてこれで困るのは侵略される側、聖ナヴェンポスである。

レヴィオス王国の貴族が一致団結して迫ってきた場合、これに対抗するのは至難の業だ。

仮に防衛に成功したところでせっかく復興しかけている聖都が再び焼け野原になってしまっては、もう目も当てられない。

俺が聖高会の教皇だとしたら、戦争回避を第一、開戦した場合も早期停戦を考えて動きたいところだ。

なにせレヴィオス王国全土を相手にしていては長期戦では絶対に勝てない。人口も経済力も生産力も領地面積も、全てが負けているのだ。

そこで王国の大貴族を仲介に、レヴィオス王家と交渉をすることを考える。仲介する貴族家を五大貴族から選ぶとしたら、クオルデンツェ家を選びたいところだ。

それが停戦交渉の成功する確率が最も高い組み合わせだからである。

現実的なことを考えると、レヴィオス王家としては聖高会を滅ぼし聖ナヴェンポス全土を制圧することは、非常に都合が悪い。

レヴィオス領と聖ナヴェンポスは遠く離れているため、手に入る領地は全て飛び地になってしまう。

聖ナヴェンポスは200年前の動乱で大荒れになったとはいえ、もともとは豊穣の精霊が昼寝している土地などと言われるほどに豊かな土地であった。

どれだけ時間がかかるかわからないが、大地の汚染が浄化されれば大陸でも屈指の領地に育つことだろう。

将来的には美味しいかもしれないが、飛び地の管理などそううまくいくものでもない。下手な管理をして魔獣災害を拡散させた日には元の木阿弥である。

ではそれをどう管理するかといえば、レヴィオス王家の跡継ぎではない者を当主に据えた分家を作り、滅亡後の聖ナヴェンポスに配置するのが妥当であるが、それは心理的に難しいだろう。ミレンドルヴァ家の失敗がまだ記憶に新しいためだ。

極東地域を制するために作ったミレンドルヴァ家との内乱を思えば、分家を配置することは避けたいところだ。

そういうわけで、レヴィオス王家としては聖ナヴェンポスの土地を手に入れたとしても持て余してしまう。

まあ、これは取らぬ狸のなんとやらである。

聖ナヴェンポスと全面戦争を行うことになった場合、地理的に王国南部に位置する貴族家が活躍する機会が多くなる。

そうなれば戦後の領地切り取り山分けタイムで彼らは正当な権利として領土を要求することになるだろう。豊かな土地が欲しくて仕方のない南部の大貴族、ゼルドミトラ侯爵はここぞとばかりにピザカッターを振るうはずだ。

ゼルドミトラ家は王国最南部に位置しているため聖ナヴェンポスは近く、管理もしやすい。いざとなれば間にある自由都市郡を踏み潰して併合してしまえば飛び地問題さえ無くすことができるのだ。

仮にゼルドミトラ家がうまいこと聖ナヴェンポスやその周辺地域を吸収した場合、レヴィオス家は危機感を抱くに違いない。

南部に頭一つ飛び抜けた強大な貴族家が誕生することは、レヴィオス家にとって警戒すべきものだ。

さらに恐ろしいことに、そこで終わるとも限らない。

ゼルドミトラ家はさらに南進を続け、自由都市郡はもとよりリックアーガ連合国まで吸収した巨大な貴族に成長する可能性も考えられる。

レヴィオス王国、ジンカーエン帝国、マムシュレッド連邦に続く第四の大国が出現するかもしれない。 

司祭支配からの脱却を唱え、貴族台頭の時代のパイオニアとなった中興の祖、ゼルドミトラ・クラードから数世代、ゼルドミトラ家当主はこれまでずっと名君が続いているし、次期当主も優秀と評判だ。その動きには警戒すべきだろう。

しかもこれまでの経緯を考えると、ゼルドミトラ家とクオルデンツェ家はラブラブというほどではないが、仲が良いほうだ。

この二家が手を組んで王国から離反した場合どうなるか。離反に同調する中小貴族家の存在を考えても、レヴィオス王国としては致命的である。少なくとも俺がレヴィオス家嫡男だったらそれは絶対に避けたい。

それらの政治的要素を顧慮して、レヴィオス王家の戦争目標を考える。

最も望ましい展開は、聖ナヴェンポスを殴りつけて王国貴族にリーダーシップを示した後、どこかの大貴族が和平交渉の使者を連れてくることだ。

イケイケモードでこっちとしてはもっと戦っても構わないんだけど、仲介の大貴族を尊重して交渉のテーブルに乗ってあげた、というポーズができる。

そして交渉のテーブルで外交力を発揮し、賠償金と人質として主祖の娘を巻き上げて聖高会にレヴィオス王国への服従を誓わせる。そのかわり、聖ナヴェンポスの自治と領地を安堵してやるのである。

こうして王家の威信は回復し、国内貴族は主祖の娘を迎え入れることができ、南部貴族の領地が増えず、聖高会がレヴィオス王家に屈する…………随分と都合の良い展開である。

ここで重要なのが、和平交渉の仲介をしてくれる大貴族の存在だ。

レヴィオス王家の子分のような貴族家が仲介をしていては、はやく和平交渉がしたいというレヴィオス王家の思惑がモロバレすぎて貴族たちからの信頼を失う可能性がある。

そのため、聖高会としてはレヴィオス王家を除いた王国五大貴族に仲介を依頼する必要があるのだ。

ではどこが良いかという話になるが、まずゼルドミトラ家は論外だ。彼らからすれば戦争継続こそが利益に繋がるため、絶対に仲介役などやってくれない。

ミレンドルヴァ家やアテラハン家は仲介をしてくれるかもしれないが、聖ナヴェンポスとも距離が遠く、どこまで本気で対応してくれるか未知数だ。

一番適任なのは、クオルデンツェ家である。

クオルデンツェ家は旧ヴォイストラと戦争をしているため、本来であればレヴィオス王国の聖ナヴェンポス遠征なんて参加したくないのだ。

停戦をしたいという点では利害が一致するため、その部分では信頼ができるのである。

クオルデンツェ家の存在は聖高会にとって重要だ。

だからこそ、父は聖巫を謀略家ではないかと疑っている。

聖巫はいずれ訪れるであろうレヴィオス王国との戦争とその流れを予測し、先んじてシンシアをニューネリー市に送り込んだのではないか。

シンシアを通じてクオルデンツェ家と密かに誼を結び、いざ停戦交渉をしようという段階になって登場し、指導力を見せつけるつもりではないか。

失われた聖巫の権威を取り戻し、信仰の長として返り咲こうとする聖巫の計略なのではないか。

……父は、聖巫を信用してはならないと俺に告げたのだ。

司祭という思考の読めない存在に対し、父が普段以上に警戒していることがわかった。

だが、信用はしなくても利用できるものは最大限に使うとも同時に言っていた。

得てして組織というものはお偉いさんが増えるほどに派閥も増え、内輪争いにリソースが注がれる。

仮に聖巫が停戦交渉で力を示して聖高会内部で権威を取り戻したところでこちらにデメリットはない。

現在、教皇と最高司祭の合議によって動いている聖高会に、権威を取り戻した聖巫が加われば一気にバランスは崩壊する。

クオルデンツェ家とレヴィオス家で聖巫を支援して傀儡とすることができれば、何かと便利に使えるだろう。

なるほど、まず相手側に利益を示して己の欲望を満たそうと考えるあたり。なかなか頭が回る娘のようだ。

背後についている実家、カトレアーク家による指示かもしれないが、なかなか油断のならない娘である。

……いや、腹黒と確定したわけではないが。

なんだか父が疑いまくっているせいで、俺の脳内の聖巫ちゃんがとんでもない悪女になりつつあるようだ

聖巫の素晴らしさを熱く語り続けるシンシアに対して少しだけ申し訳ない気分になってしまった。

「シンシアの言うことはわかった。……もうだいぶ夜も更けてきたようだな」

窓から外を見れば、月の高さが思った以上に動いていた。教典の授業や雑談で結構な時間が過ぎていたようだ。

「残念だが、今宵の話はここまでにしよう」

「ええ、残念ですが。もし次がお許しいただけるのであれば、ぜひ教典のお話をさせていただきたく……」

本当に残念である。

父の出した結論だが、シンシアの軟禁は継続だ。

別に彼女は何の罪も犯していないわけだが、それでも捕らえることができてしまうのが貴族の権力である。

彼女がどの程度聖巫の信頼を得ているのかは不明だが、情勢によっては外交のカードになるかもしれない。

そのためクオルデンツェ家としては春の王都で王国の動向が決まるまではシンシアを軟禁するという方針になったのだ。

旧ヴォイストラという懸念要素を持つクオルデンツェ家としては、例え可能性は低くとも外交に使えそうなものは確保しておきたいところだ。

今回シンシアと話をしてみたわけだが、俺も父の方針で問題がないと思う。つまり、方針変更は無しだ。

そしてそれはつまり、俺がシンシアに手を出してはいけないということである。

下手に手を出すと春先には彼女のお腹がぽっこりとしている可能性もあるわけで、こちらの弱みを見せることに繋がるかもしれない。

本当ならば今宵の話はこれまでにして続きはベッドでしよう、という素敵な流れになるというのに。

シンシアが聖巫の部下という特別な司祭でなければ、好き勝手にできただろう。

まさかこれが聖巫の陰謀か。

脳内聖巫の嘲笑が聞こえてくるような気がした。