未だ季節は桜舞い散るエイプリル。つまりは四月だ。

けれど、たとえ今が四月の下旬の更に後期だとしても、未だ冬の名残を少し残しているようで、ワイシャツの上から冷たい風が僕の体へと吹き付ける。

いつもは制服などで重ね着をしているため余り目立っていない隻腕も、やはりワイシャツ一枚では予想以上に目立ってしまう上に、空間支配も常闇も無しではかなり不安が残ってしまう。

「けど、そこが油断にも繋がってたのかもな......」

そうつぶやくと同時に僕は前方へと視線を向ける。

僕の前方十数メートルの所には少し小太りの男子生徒が立っており、少し遠くの方にディーンとルネア、そして主犯の女子生徒たちが立っている。

───けれども、彼と彼女らの憎悪がこもった瞳は全て僕の方へと向けられており、なんの能力も持たない今の僕でも感じられるほどの殺意を持っていた。

あの後、僕の挑戦に乗ってきたストーカーは、お互いに魔法の禁止というルールを設けて殴り合いの喧嘩をすることとなったのだ。

その上、向こうはバリバリの前衛職で、こっちはバリバリの後衛職と来た。向こうもそれがわかっているからこそ安心して殺意を持っているわけだが......、

「良いのかストーカー野郎。アイツらにお前の負けるところ見られちゃうぞ?」

「うるさい! どうせ負けるのは努力なんてしたことも無いお前なんだ! せいぜい負け惜しみでも考えてるんだな!」

───やはり、こういう思い込みの強いタイプには話は通じない。その上で自己正当化も、勝手な決め付けもしている。

いやはや、なかなかどうして僕の嫌いなタイプのクズ野郎だな、おい。

僕はひとつため息を吐くと、スッと腰を下ろして半身になり、左手を顔の前で構えた。

「御託はいいからさっさとかかって来い。せいぜい泥臭くカッコ悪く、殴り合おうじゃないか」

僕のその言葉がゴングとなり、僕と彼の泥試合は幕を開けた。

☆☆☆

彼は僕のことを舐めてかかってきているのか、初っ端から大振りの右ストレートを放ってきた。

一瞬罠かとも思ったが、ここは僕の本来の直感に従って紙一重でその攻撃を躱し、相手の腹へとカウンターで掌底を打ち込んだ。

「カハ......ッ! く、クソがっ!」

彼は思いもよらぬ反撃に一瞬固まったが、すぐに気を取り直して僕へと裏拳気味に攻撃を放ってくる───が、そこには僕はもういない。

僕は少し離れたところでその様子を窺っていると、やっと僕の位置を特定した彼はいきなり喚き出した。

「卑怯だぞお前! 殴り会うならきち...」

「卑怯? 前衛職が防具なしの後衛職に向かって全力で攻撃しておいて卑怯だと? 何を馬鹿なことを言っている」

───けれど、僕のその言葉に完全に勢いを無くし、それを紛らわすかのように僕へと今度は油断なく迫ってきた。

その驚くべき速度にチッ、と舌打ちをすると、僕はその攻撃に合わせて再びカウンターを食らわせようとするが、残念ながら相手の攻撃速度の方が幾分素早かったようだ。

「ぐっ....ッ」

今度は先ほどの仕返しとばかりに、モロに顔面に拳をくらい、鈍い痛みが鼻頭に走って身体ごと吹き飛ばされる。

───クッソ、やっぱり素の身体能力でバリバリの前衛に勝つのはまず不可能か......。

「アハハハッ! なんだよお前、でかい口叩いてた割...」

「お前は黙っていると死ぬ病にでもかかってるのか? 少しくらい静かにするということを学べ」

僕はまた喚き散らそうとしていたそいつの意味の無い言葉を一蹴すると、鼻をゴキゴキっとやって元へと戻し、吹き出した鼻血を手の甲で拭う。

どうやら鼻の骨が折れたみたいだが、霊器で不死力も弱まっている今とはいえしばらくすれば治癒するだろう。

───だから今は、こいつの鼻っ柱をへし折ってやる。

僕は姿勢を限りなく低くしながら相手へと駆け出し、その眼前でストーカーが笑みを浮かべて拳を振り上げた途端、相手の足を思いっきり蹴り払った。

「......へっ?」

そんな間抜けな声が聞こえたが僕はガン無視し、先ほどのお返しとばかりにその顔面へと膝蹴りを入れる。

グチャッ、と嫌な感触が膝から伝わり、彼の身体が先ほどの僕同様に吹き飛ばされる。

「ガッ......、く、クソ野郎......ッッ!!」

が、さすがは前衛、僕がまずいと思った時には立ち上がって僕へと襲い掛かってくる。

僕はとっさにガードした腕の上から顔面にパンチをくらい、そのまま地面へと押し倒される。

───が、もちろんそれで終わりではないのだろう。

「死ねっ、死ねっ! 死ねぇぇぇッッ!!」

ガンッ、ガンッ、と容赦ない攻撃が僕の顔面へと振り下ろされ、胴体のところにちょうど体重を載せられているため、片腕でどうにかしようにもその間にも奴の両拳が顔面に降り注ぐ。

拳が一度振るわれる度に鮮血が飛び、顔面の骨が折れる音がする。

激痛が顔面へと走り、否応無しに僕の意識がトビそうになる。

───が、これよりもっと酷い目にあった経験なんて数え切れないほどあるんでねッ!

僕は疲労で連打の合間が空いた時を見計らって。ガンッと上体を起こして相手の顔面へと頭突きをかました。

僕の頭蓋にヒビが入り、相手の顔面が壊れて鮮血が周囲に撒き散らされ、僕は相手の体を押して無理矢理に立ち上がる───が、ここで止めるほど僕は優しくない。

「はァァァァっっ!!」

僕は一度腰を沈めて力を貯めると、フラフラと視点の定まっていないストーカー野郎の顎めがけてアッパーをフルスイングした。

「がはァっ!?」

アッパーをまともに食らったストーカー野郎は背中を反らせて一瞬中に浮かび上がる。

───が、急いでいたためか、威力が足りなかったのだろう。かなりのダメージは受けても倒れる様子は見当たらず、それどころか良くもやってくれたとばかりに僕へと憎悪の視線を向けてくる。

「はぁ、はぁ......、このクソッタレが......」

僕はそう吐き捨てて、このクズをぶちのめす案を頭の中で思考し始めた。

☆☆☆

「はァ、はァ......っ! こんっの野郎ッッ!」

奴の拳が僕の顔面を捉え、僕の体が後方へと吹き飛ばされる。

───結果からいえば、やはり勝ち目は薄かったようだ。

吸血鬼は成長するに従って近接タイプと遠距離タイプに別れると言われており、オリビアやアイギスは実際に近距離タイプ、マックスは遠距離寄りの近距離タイプだろうとは予測できる。

だが残念なことに、事この僕に限っては近距離よりの遠距離タイプ。暗殺系統のスキルや常闇さえなければ完全な後衛職だ。

それに子供でもわかることだが、身体能力の劣っている後衛職が現役の前衛職相手に勝てる確率は、限りなくゼロに近い。

地面へと叩きつけられた身体からはもはや血は流れず、僕の身体中からはほとんどの血液が流れ出てしまったのだろうと思う。

「ハッ、アハハハハッ!! ほら見た事かっ! お前みたいな努力を知らないクズはその能力さえなければ僕にすら勝てないんだ!」

大の字で倒れる僕へと馬鹿にしたような声が投げかけられ、いつの間にか集まってきていたのであろう周囲の人たちから様々な話し声が聞こえる。

何を話しているのかは、分からない。もしかしたらこちらへと呼びかけているのかもしれない。

身体能力もスキルもなく、血もほとんど失った僕には彼らの言葉はただの外国語の羅列にしか聞こえず、耳には届いても脳には届かない。

「どうだお前ら! 僕はこの英雄様に勝ってやったぞ! 英雄も身体能力のスキルさえ無ければただの怠慢な弱者なんだ! コイツもこいつの仲間達も、僕を見下してる奴らもリリーさんも! みんなみんな努力を知らないゴミ野郎だ!」

何故か。

何故か彼の声だけが耳に届き、どこからか啜り泣くような声が聞こえた。

どうして耳すらろくに聞こえなくなった僕にそんな声が聞こえたのかは分からないが、それでも僕が、今ここで倒れていることはいけない事なのだと言うことだけは分かった。

「黙れ......」

喉の奥からガラガラに枯れた声が出て、僕は拳を強く握りしめる。

───僕の目の前に立ってほくそ笑んでいるこの男と戦って、僕はずっと怒りを抱いていた。

身体中に力を込め、大の字に転がっていた身体を何とか動かし始めるが、僕の様子を見て鼻で笑ったストーカーは僕の顔面を思いっきり蹴り抜いた。

───何故コイツは他人を見ようとしない?

十人十色。

全ての人にはそれぞれの色があり、考えていることも様々だ。

人によって努力の定義は違うし、それぞれが目指す目的も違うのだろう。

だからこそ僕は他人を見た目だけで決めつけてバカにしたり貶したりしないし、何よりも、何も知らない他人が頑張っている奴を馬鹿にすることが───非常に腹立たしく憎らしい。

僕はなんとか小鹿のように震える足で立ち上がると、左腕をだらんと下げて脱力する。

ふぅ、と肺に溜まった空気を吐き出し、僕は腹を抱えて笑っている奴へギロリと視線を向けた。

「お前が......、一体僕らの、何を知っている?」

自分の口から出たとは思えないほど、鋭く冷たく、何よりもドスの効いた低い声に自分でも少し驚いた。

───けれど、僕の意志とは関係なしに、僕の口はひとりでに感情を吐き出し続ける。

「努力を知らない。全て運だけで生きてきて、誰かから与えられたものだけで強くなってきた」

僕はそう自分で言ってみて、たしかに僕は(・・)そうかもしれない、と鼻で笑った。

吸血鬼の器と創造神。

ブラッドナイフと死神。

正義執行と全能神。

炎十字と狡知神。

常闇のローブと神王ウラノス。

たしかに僕は与えられてばかりで、何一つとして自らの力で手にしたものなどないのかもしれない。

「それに比べたら、お前の方が努力していたのかもしれない」

───だけど、

僕は一度大きく息を吸いこみ、絶対に曲げられない自分の意思を。僕のうちに渦巻く怒りを、ぶちまけた。

「僕以外のッ、必死に今を生きている奴に向かって、何も知らねぇ野郎が勝手な口を聞くんじゃねぇ!!」

僕の叫びが周囲に木霊した。

大気が震え、僕の心は尚も熱い言葉を吐き続ける。

「お前がアイツらの何を知っている!? アイツらは前へと進もうと必死になって努力してんだ! 僕の仲間達であろうと、ここの生徒であろうと、それがガーネットであろうとッ! 少なくとも全てを自分の都合のいいように解釈して、現実から逃げている、今のお前よりもな!」

昔のお前のことも、お前の努力のことも、正直言って知ったこっちゃない。

───けれど、少なくとも今のコイツが(・・・・・・)尊敬に足る男ではない事は、知っている。

僕は熱く、紅く燃え盛っている心へと左拳をドンッと押し付けると、外見も外聞も知ったことかと、全てのプライドを捨てて立ちはだかった。

「行くぞクソ野郎! 僕が全身全霊、全力を持って、今のお前の全てを否定してやる!!」

☆☆☆

「ふん、勝負あったな」

久しぶりに見た銀のあの姿を見て、私は心が震えるのを感じながらそう呟いた。

隣で「......誰です? あの男らしい人は」と失礼なことを呟いているアイギスを傍目に、私は日本にいた頃、銀がごく稀に見せたあの状態を思い出す。

私や桃野が何も知らぬ奴に馬鹿にされた時。

鳳凰院がその生まれのせいで拉致されそうになった時。

桜町を虐めていた女子グループの、その背後のヤクザたちと戦った時。

本人としては「いや、キレてないっすよ」とか言って誤魔化していたが、ずっとすぐ近くで君を見てきた私だからこそ分かる。

言葉が荒くなり、恥も外聞もかなぐり捨てて思いの丈を叫び始めた時の銀は───

「今の銀は、先程までとは全然別物だぞ?」

瞬間、銀の姿が掻き消えた。

───否、ふと気付けばあのストーカーの懐へと潜り込んでいたと言った方が正しいか。

「「「なぁっ!?」」」

周囲とストーカーからは驚きの声が聞こえ、それと同時に先程までのような容赦は微塵も感じさせなくなった、正真正銘『殺る気』の連打が打ち出され始めた。

左の掌底が相手の顎をかち上げ、空いた胴体へと右足で膝蹴りを繰り出す。

ちょうど胴体の真ん中───鳩尾にこれ以上ないほどに上手く入った一撃に呼吸が出来ない男をよそに、下がった後頭部へと思いっきり肘打ちを叩きつける。

そして限界まで下がった頭を思いっきり蹴りあげると、跳ね上がった首へと倒立した状態で両足を絡めて、そのまま思いっきり投げつける。

───それだけの一方的な攻撃がたったの数秒内の出来事だというのだから笑えない。

ぐるりと周囲を見渡せば、先程までの一方的と言ってもいいほどにやられていた銀を見て顔を歪めていた奴らも、銀のことを侮って見ていた奴らも、そして銀をよく知るアイギスでさえ目を丸くして固まっていた。

今の銀は身体中から血を流している───否、流れていないのだ。

それはつまり、あれだけの傷を負った状態で血を流していないということは、身体中から血液という血液が完全に消え失せてしまったということ。

吸血鬼という特異な生態上出血多量で死ぬことはまず無いが、それでも不死力が無くなった吸血鬼など、本来は動くだけで肉は断ち切れ、骨は折れる。つまりは子供でも倒せるほど弱いものなのだ。

───が、少しでも動けば身体が壊れるであろう重体の今だからこそ、銀の集中力は極限まで高められ、終いにはあの技(・・・)を完成させるまで至った。

あれは銀が高校生だった頃。

『僕の運動神経と影の薄さ、そして誤魔化しや詐欺の技術まで合わせれば、"縮地法"って奴の更に上位の技を生み出せるんじゃないかって思うんだよ。......まぁ、無理だろうけど』

冗談半分で銀が私へと呟いたその一言。

たしかにその言葉の半分は冗談だったが、逆に言えばもう半分は本気だったということでもある。

───たしか、その時銀はこう言っていたはずだ。

『縮地法は向かい合っている敵にしか使えない上に、少しでも視線をずらされれば案外簡単にバレてしまう。それを視線誘導や詐術なんかとも合わせた上で、使いやすいように動きを最良化させる』

相手までの地面を縮めるように見せる『縮地法』を元に製作するその技。

けれどもその技はそれとは似て非なるものだ───それも全くと言っていいほどに異なっている。

───否、比べることが烏滸がましい程に、完成されている。

「距離を詰める歩みを完全に絶って無に見せる歩法」

その技の効果を及ぼす対象は目の前の相手だけではなく、たとえ横から見ている者がいたとしても、その歩みを目視することは───絶対に出来ない。

───世界でも銀しか出来ないであろう、その歩法の名は、

「『絶歩』」

銀がそう呟いたと同時にその姿が掻き消え、次の瞬間には件のストーカー男は顔面に拳をくらって気絶していた。

───ただ、未来を読んでいた私の視線の先に居た銀は、最後の最後でその男へと何事かを囁いたように見えた。

果たしてその時、君がなんと言ったのかは脳波からもよく分からなかったし、そもそもこの距離では誰一人として聞き取れた者はいないだろう。

───だが、これだけ付き合いの長い私だからこそ、ある程度想像もできるというものだ。

「くくっ、これだけ派手にカッコよく目立ったんだ。明日からはかなり面倒なことになるぞ? 銀よ」

私はそう呟いた後に、彼が言ったであろう言葉を想像して

───やはり、惚れ直してしまったのだった。