その日の放課後、魔術実践場。
いつものように瞑想を始めようとするアルマークにイルミスが声をかけた。
「君は、明後日の武術大会に選手として参加するのだったね」
「はい」
アルマークは頷く。
「では、明日の練習は無しにしよう。試合前の選手にはしっかりとした休息が必要だ」
「わかりました。ありがとうございます」
「その代わり……」
イルミスはアルマークを見て付け足す。
「今日はいつもと少し趣向を変えてみよう」
「趣向を」
アルマークがイルミスを見上げる。
「なに、大したことではないよ」
イルミスは言いながら、アルマークの着ている濃紺のローブを指差す。
「その制服のローブを脱ぎたまえ」
「……?」
アルマークは訝しい顔をする。
「これをですか」
「そうだ」
イルミスは頷く。
アルマークは訝しげな顔のままでまとっていたローブを脱いで床に置く。
「脱ぎました」
「よし。それでいい。では、いつものように瞑想から」
「……これだけですか?」
「そうだ。さあ、瞑想を」
「……はい」
アルマークは目を閉じた。
よく分からないが言われるがままに、瞑想を始める。
どんな精神状態でも集中が出来るように。
それはこの夏、アルマークが取り組んできたテーマの一つ。
頭に浮かんだ疑問や不安。
そういった雑念を一つずつ、球状に丸めて、心の底に張った水の中に沈めていく。
捨て去るのではない。一旦沈めておくだけだ。
ぼちゃん、ぼちゃん、と水音があがる。
その度ごとに心が澄み、集中できていくのが分かる。
これがアルマークがたどり着いた瞑想のやり方だ。
やがて全ての雑念の球が水に沈み、心の中が空っぽになる。
代わりにその空間に沸き上がってくる、とらえどころのない、水のような砂のような風のようなもの。
魔力だ。
その魔力を、イメージの指で練り上げる。
最初はどう練ればいいのか見当もつかなかったが、毎日瞑想しながら魔力を適当にこねくりまわしているうちに、徐々に掴めてきた。
アルマークは今ではもう手慣れた調子で魔力を練り上げていく。
じきに、魔力の質が高まり、一つの流れを作ってうねり始める。
形を。
我々に、世界に力を行使しうる形を。
魔力がそう求めているかのように流れる。
これで準備完了だ。
アルマークは目を開ける。
「いいかね」
イルミスの問いに黙って頷く。
「よし。霧の魔法のイメージを」
「はい」
アルマークは右手を掲げる。
連日の練習で、だいぶ滑らかに霧を出せるようになっていた。
アルマークは集中して、魔力の水を細分化するイメージを作っていく。
……あれ?
アルマークは違和感を感じた。
魔力がうまく右手に集まってくる感じがしない。
それどころか、身体中のいたるところから魔力が漏れ出てしまっているような。
なんだ、これは。
魔法を使うのに、ひどく無防備な感じがする。
たとえるなら、傭兵が鎧をまとわずに戦場に出るかのような。
それでも、アルマークの右手は魔法の霧を発した。
しかし、いつもの勢いには程遠い頼りなさだ。
いつもは魔力が一本の水路をまっすぐと流れてくるのに、まるで今は数えきれない箇所で水路が決壊して下流に流れてこないかのような。
「先生、これは」
たまらず、イルミスにそう声をかける。
「イミビカリアサ」
イルミスは言った。
「君たちの着ているローブに織り込まれている繊維の、元の植物の名だ」
「イミビカリアサ」
何のことか分からず、アルマークはその名を反芻する。
イルミスは頷く。
「これが、魔術師がローブをまとう理由だよ、アルマーク」
「魔力を遮る働きのある植物は、いくつかある。イミビカリアサもそのうちの一つだ」
イルミスは言う。
「そういった植物の繊維を織り込んだローブをまとうことによって、魔力の身体からの余計な漏れを防ぐ。簡単に言えば、魔法を使う際に魔力の集中が容易になり、効率が高まる」
それが、魔術師がローブをまとう、元々の理由だ、とイルミスは言った。
しかし今では、その本来の意味が薄れ、ただ単に魔術師というものの権威の象徴としてローブをまとっているに過ぎない魔術師が外の世界には多い、とイルミスは説明する。
「そういった魔術師の着ているローブのほとんどはただの布で、何も織り込まれていないことが多いがね」
「……じゃあ、別にそういった植物が織り込まれてさえいれば、形はローブである必要はないんですか」
「全身をすっぽりと覆うものが望ましいということはある。が、まあローブにこだわる必要はないだろう。とはいえ、さっき言ったようにローブは今では魔術師の権威の象徴でもあるからね。他の服よりもローブを着ている方が魔術師らしい、と皆も思うのだろう」
「……なるほど」
アルマークは頷いた。
「今日初めて分かりました。ローブをまとっていないだけで、魔法がこんなにも使いづらくなるなんて」
「君には実感させるのが一番だと思ったからな」
イルミスが言う。
「これからはローブをまとっていない状態での練習も始めていこう」
「はい」
返事をしながら、そういえば、とアルマークは級友たちの姿を思い出す。
ボルーク卿の迷路でのウェンディやネルソン。
ミレトスへの旅でのモーゲン。
皆、ローブをまとっていなかった。それなのに、まるで普段通り何事もないかのように魔法を行使していた。
「クラスメイトたちは、ローブを着ていなくても皆、普通に魔法を使います」
アルマークは言った。首を振る。
「やっぱり皆すごいな。自分でやってみてそれが初めて分かります。皆、まだまだ遥か先だ。追い付けない」
「気が滅入るかね?」
イルミスがアルマークを測るように見る。
「全然滅入らない、と言えば嘘になりますけど」
そう言ってアルマークは笑顔を見せた。
「それ以上に嬉しいです」
「嬉しい」
イルミスが片眉を上げる。
「はい」
アルマークは頷いた。
「嬉しいです。自分のクラスメイトたちがそんなにすごい奴らだということが改めて分かって。僕はそんなすごい奴らと毎日机を並べてるのかと、誇らしいんです」
補習を終え、帰り際にアルマークはふと、イルミスに尋ねてみた。
「先生は武術もやられるんですか?」
「なぜかね?」
「選手には休息が必要だ、とおっしゃってたので」
「ああ」
イルミスは笑う。
「私もここの学生だった頃は、高等部の個人戦を3連覇したものだよ」
「ええっ!」
アルマークは目を丸くした。
「すごい、先生は魔術だけじゃなくて武術も」
「冗談だ」
真顔に戻り、イルミスは答えた。
「そんなわけがないだろう。武術は苦手だ。武術大会では選手にも選ばれないことの方が多かったね」
にこりともせずに言う。
「選手に休息、などというのは単なる常識だよ。さぁ、だいぶ遅くなった。今日はもうあがりたまえ」
余計なことを聞いてしまった、とアルマークは思った。
寮への帰り道を急ぐアルマークの前方に、ぽつりと小さな灯が見えてきた。
ランプの灯りか、それとも灯の術か。
誰だろう。
近付いてみると、道端の大きめの石の上に一人の少女が腰掛けていた。
右手のひらの上に出した炎をふわふわと揺らして弄んでいる。
見たことのない少女だった。ほっそりとした、華奢な身体をしている。白い肌と対照的な黒い髪。
年齢はちょうどアルマークと同じくらいだ。
少女は、近付いてくるアルマークを見て、
「あ」
と声を上げて笑顔を見せた。
「あなた、アルマークでしょ」
名前を呼ばれ、アルマークは立ち止まる。
「僕を知ってるの」
少女はにこにこと笑顔で頷く。
「僕は、君を知らない」
アルマークが言うと、少女は笑顔のままで立ち上がった。
炎がふわりと揺れる。
「アルマーク。私は知ってるよ。あなたの名前はアルマーク」
歌うように少女は言う。
アルマークが見つめる前で、少女はアルマークに背を向け、ゆっくりと校舎の方へと歩き出していく。
「どこへ行くの」
アルマークが声をかける。
「君は……」
誰、と言おうとしたアルマークを、不意に振り返った少女の言葉が遮った。
「気を付けて、アルマーク」
それまでとうって変わったその真剣な口調に、アルマークは思わず口をつぐむ。
「明後日の武術大会……悪い力が来るよ」
真剣な、暗い眼差し。アルマークをはっとさせるほどに。
「悪い力? それって」
その時、突然強い風が吹いた。
少女の手の上にあった炎が掻き消されるようにして消え、辺りを闇が包む。
ようやく闇に目が馴れてから、アルマークがいくら目を凝らして探しても、もう少女の姿はどこにもなかった。
寮がようやく見えてきた頃、アルマークは先程の少女が制服のローブをまとっていなかったことを思い出していた。
あれは誰だったんだろう。
悪い力って、何だろう。
アルマークはぼんやりと考えた。