(とりあえず、寮の部屋に行ってみよう)
ギルバートは手早く机の上を片付けて立ち上がった。
その表情は冷静だが、額にはじわりと汗が浮き上がっていた。
セシリアは基本的に真面目な人間だ。
何もないのに無断で授業を休むだなんて、考えにくい。何かほかに重要なことがあったか、授業に出られない事情が出来たか。考えるならば、そのどちらかしかなかった。
(たしか、『キラー』だったか……)
この世界では未確認だが、セシリアの前世――神崎ひよのがやっていた、この世界に似ているゲームでは、そんな存在がいたらしい。
神子候補を狙っている殺人鬼とかなんとか。
セシリアはその存在を軽く受け止めていたが、話を聞いたときから、ギルバートは警戒をしていた。父を通じてそれらしい人物を探してもらっているが、未だに良い返事はもらっていなかった。
もし、その『キラー』にセシリアが襲われたのだとしたら……そう考え始めたら、握った手のひらに爪が食い込んだ。
「もしかしたら、今日は体調が悪くて休んでいるだけなのかも知れないし……」
安心させるために、自分にそういい聞かす。
こういうときほど焦ってはいけないのに、嫌な想像ばかりが頭を駆け巡った。
(ゲームの中のセシリア(姉さん)は胸にナイフが刺さった状態で発見されたり、川で浮いてたり、山で首を吊っていたりするって……)
すべて今の姉の姿で脳内再現された。
嫌な想像に呼吸も荒くなる。
廊下を曲がり、建物を出ようとしたところで、ギルバートは今日一番会いたくなかった人物と鉢合わせをした。
「ギルバート。そこにいたか」
「殿下……」
ついつい唸るような声を出してしまう。
オスカーはギルバートのそんな態度に一瞬だけ目を眇めたが、瞬き一つで元の柔和な表情に戻った。
ギルバートはオスカーの脇を通って寮に急ごうとする。
「おい、無視をするな」
オスカーは去って行こうとするギルバートを、腕を掴むことで止めた。彼は手をはねのける。
「今、急いでるんです!」
こんな風に乱暴な物言いや態度を、今まで彼に取ることはなかった。
自分は将来一臣下として彼に仕えるのだから、関係は良好にしておこう。
そんな打算と損得勘定のフィルターを通して彼に接していたからだ。しかし、今の彼にそんな余裕はなかった。
オスカーは気分を害した風もなく、一つため息をついただけだった。
「お前がそんな感情的なやつだとは知らなかったな」
「そうですか? 俺は元々こういう男ですよ。失礼します」
「だから、ちょっと待て!」
「そこをどいてください!」
道を塞がれて、つい怒鳴ってしまう。
周りに人がいないことだけが幸いだった。王太子と公爵家子息のトラブルなんて噂好きの貴族の格好の的だ。
「話を聞け、セシルの話だ」
その言葉にギルバートはピタリと動きを止めた。
「セシルは今保健室にいる。それだけ伝えようと……」
「もしかして、怪我でもしたんですか!?」
被せるように声を張ってしまう。
やはり、キラーに襲われたのだと心臓が早鐘をならした。
「まぁ、そうだが……」
返事を聞くやいなや、ギルバートは進む方向を変えた。足は自然に駆け足になっている。
保健室の扉が見えて、ギルバートは更に加速した。
そして、中に誰がいるのかも確認せず、扉を開けると同時に声を上げた。
「姉さん!」
そこにはセシリアが一人だけでいた。背を向けて丸椅子に腰掛けている。
頬には白いガーゼが貼られており、足首には包帯が巻かれていた。
「あ、ギル!」
セシリアも振り返り、嬉しそうに顔をほころばせた。
その元気な姿を見て、ギルバートは壁により掛かる。片手で隠してはいるが、顔には安堵の表情が浮かんでいた。
「良かった……」
「どうしたの?」
「いや。リーンから、今日姉さんが授業に出てないって聞いて。もしかして、キラーとかいうのに何かされたんじゃないかって心配になって……」
「……ギル」
めったにない本気で心配する義弟の表情に、セシリアは申し訳なさそうな顔をした。
「襲われたわけじゃないんだよね?」
「うん。これは私が一人でドジっちゃっただけで……」
「ドジったって、何をしたのさ?」
「へへへ。山の斜面を転がり落ちまして」
「はぁ?」
よく見れば制服の至る所に土がついているし、カツラの上にも葉が載っていた。
「でもさ、そのおかげで見つけたよ! これ」
セシリアは嬉しそうに床に置いていた竜胆の鉢植えを掲げた。
その瞬間、ギルバートの中で何かがつながった。
「まさか、姉さん。それを取りに!?」
「うん。ギルってば他の物には執着しないのに、昔渡した竜胆だけは、押し花にまでしてずっと大事に取っていてくれたから。竜胆好きなのかなぁって!」
幼い頃貰ったそのままの姿で、竜胆は鉢植えの中で笑っていた。
「今回は根から全部採ってきたんだよ! これなら長く鑑賞出来るでしょ!?」
「それで授業休んでこんな姿になってるの? ……ほんと、馬鹿でしょ」
そう言いながらもギルバートの口元には笑みが滲んでいた。相反するように眉間には皺が寄っていたけれど、今は嬉しさの方が勝っていた。
竜胆より何より、あんなに昔のことを彼女がずっと覚えていてくれたことが嬉しかった。
セシリアは鉢をギルバートに渡すと、深々と頭を下げた。
「ギル、ごめんね。確かに私、セシルの姿なら何しても良いって考えてたかも。浅はかだったよね。ギルが怒るのも無理ないよ」
「それは……」
「それに、オスカーばっかり構うんじゃなくて、ギルも構えば良かったね! さみしかったよね!」
「……」
急に子供扱いが始まって、ギルバートは半眼になった。
やはり自分はどこまで行っても彼女の義弟なのだと実感させられる。
しかし、落ち込みかけた次の瞬間、ギルバートの思考はピタリと止まった。
セシリアが抱きしめてきたのだ。
昔のように背中を撫でて、彼女は優しい声を出す。
「ごめんね、ギル。不甲斐ないお姉ちゃんでごめんね」
その時、先ほどのリーンの言葉が耳朶に蘇った。
『ですから、「気づいてもらおう」とか「意識してもらおう」というのはおこがましいのではないですか? 告げられてもいない感情に気づけるほど、今の彼に余裕はないでしょう』
ギルバートはセシリアの背に手を回す。ぎゅっと身体を引き寄せれば、彼女はやっぱり姉の顔で微笑んだ。
「俺さ。……姉さんのことが好きなんだ」
口をついて出た言葉は思った以上に硬かった。
けれど、一度吐露した想いは、まるでひび割れたカップに注がれた紅茶のようにとどまるところを知らない。
「だから、殿下と一緒にいるのが許せなくって。腹が立って。ああいうことを言ったんだ。姉さんに節度がないだなんて、本当は思ってないよ。ただ、俺以外の男に触れてるのを見るのが嫌だったんだ」
「ギル?」
「好きだよ。本当に好きだ」
セシリアはしばらく固まったままギルバートを見上げていたが、やがて氷が溶けるように優しい笑みを浮かべる。
そして、ぎゅっとギルバートに抱きついた。
「ギル、私もギルのことだーいすきだよ!」
それは男としてではなく、義弟に向けられた言葉だった。
しかし、虚しくはならなかった。
(……今はそれでいいか)
もうこうなったら、彼女が気づくまで積極的に攻めていくだけである。手を出さないことも想いを告げないことも、己に課した約束はもうすべて己自身で破ってしまった。もう何もためらう必要もない。一も百も、結局は一緒だ。
でも最後にこれだけは聞いておきたかった。
「姉さん、俺と殿下どっちが好き?」
「オスカーとギル?」
セシリアは目を瞬かせる。
「そんなの、当然ギルに決まってるでしょう!」
迷うことなくそう言い切った。
胸のつかえがすぅっと引いていく。
「ねぇ、姉さん。好きだよ」
「うん。私もギルのこと大好きだよ! 一番好き!」
それは恋愛対象としてじゃないことはわかっていた。彼女の向けている感情は、義弟ギルバートに対しての物である。
でも、それでもいいと思った。少なくとも、今彼女の中で自分は一番だ。
あとは追々籠絡していけば良い。
「治療が終わったのなら帰ろっか。教室まで送るよ」
「うん。あ、ちょっと待って!」
(あんないけ好かない王子様なんかに取られてたまるか)
ギルバートは心の中で、そう毒づいた。
..◆◇◆
「まぁ! ラブラブですわねー!」
リーンは扉の隙間からギルバートとセシルの姿を見守っていた。指で四角を作り、二人を納める。
「創作意欲が湧いてきましたわ!」
興奮したようにそう言って身体を弾ませた。
リーンはセシルがオスカーの手によって保健室に連れてこられたことを知っていた。たまたま二人で保健室に入っていくのを見かけたのだ。
だから、ギルバートを焚きつけた。どんなドラマを見せてくれるのかと期待していたが、正直結果は想像以上だった。
そんな彼女に近寄る一人の影があった。
「そんなところで何をしてるんだ?」
「あら、オスカー様。今ご到着ですか? 良いシーンを見逃しましたわね」
はじけるような笑みを浮かべるリーンの手元にはスケッチブック。彼はそれに視線を滑らせた。
「またアレを作るのか?」
「はい! 今回は自信作になりそうです! ジェイドにも協力してもらわないと!」
リーンの背中には炎が見えた。
オスカーは諦めたような笑みを浮かべる。
「……ほどほどにな」
「えぇ!」
それからしばらくして、ギルバートとセシルのような二人がむつみ合う小説が図書室に増えたとかなんとか……