黛訳(タイイー)が目覚めたのは万能翻訳能力だった。

黛訳(タイイー)はあらゆる生物の言葉を理解でき、黛訳(タイイー)の言葉はあらゆる生物に通じる。

訓練によって成長するのは恐らく射程だと思われる。翻訳能力に覚醒していると判明してから翻訳の対象にできる生物、翻訳持続時間、声を翻訳しているのか思念を伝達しているかのチェックなどに時間を費やしているうちに基礎能力成長が止まってしまい、結局成長率はよくわからなかった。成長回数八回、能力射程3mでフィニッシュだ。

翻訳能力が通じる対象は本当に全生物らしい。アリへの「逃げろ!」が通じていたので、全生物と考えても過言ではないだろう。ただ、理解できない言葉は当然通じない。蟻に「3匹で集まれ」と話しかけても「3」という数字が理解できないので無理だ。

「ついてこい」「助けてくれ」などの命令も基本通じない。言葉が通じるのと指示を聞いてくれるのは全く別問題だからだ。人間だって急にカエルから「三回回ってワンと鳴け」と言われて従うかはその人次第だろう。警戒して逃げる人もいれば、それぐらいならいいやと従う人もいる。

石化PSIドライブで黛訳(タイイー)に麻酔をかけて採血した血でPSIドライブで実験を行ったところ、半径300mの万能翻訳空間が形成された。その空間内で猫はあらゆる生物と会話できる。

そう。「猫が」あらゆる生物と会話できる。黛訳(タイイー)の能力は「猫語と他生物の言語を翻訳する」能力なのだ。

翻訳空間内でも人間と犬が話せるようになったりはしないし、俺は黛訳(タイイー)の精製血液を皮下注射してみたが、猫の言葉が分かるようにはなったが犬やネズミの言葉は全然分からなかった。

めっちゃ限定的な万能翻訳だ。あらゆる生物と話せるのはとんでもなくぶっ飛んだアドバンテージだが、応用が利かない。

黛訳(タイイー)は応用訓練が全くできなかった。人間(日本語)-人間(中国語)とか、人間-カラスで翻訳ができるようになればめちゃくちゃに応用の幅が広がるのだが、応用訓練を施そうとしても黛訳(タイイー)はピンと来ていなかったし成長も変化も無かった。

コモンマーモセット(イグ)の治癒能力も全く応用が利かない事を鑑みるに、人間以外の生物に移植した超能力原基は基礎能力の成長しかせず、応用ができないのかも知れない。最初から応用の幅が広い代わりに拡張性が無いと言うべきか。

ババァによれば、黛訳(タイイー)は身に着けた能力を利用して裏猫社会や裏鴉社会との協力体制を敷こうと考えているらしい。

中国湾岸経済特区七条河(シーチャオフー)市はロシアと日本に面した貿易港湾都市で、漁業も盛んに行われている。魚市場や倉庫街を中心に野良猫が多く住みつき、飼い猫勢力と対立している。

野良猫は人間臭い飼い猫を「首輪付き」と呼んで蔑むし、飼い猫は野良猫をあくせく働かないと生きる事すら難しい惨めな奴らだと考えている。

黛訳(タイイー)は世界の闇に対抗するために飼い猫と野良猫の枠を超えた一大連合の結成を計画していた。

野良猫は運動不足気味な飼い猫と比べ俊敏で反射神経に優れ喧嘩も強い傾向にある。魚市場のお零れを頂戴し、倉庫街に住み着いた鼠を狩り、栄養状態もいい。頭数は飼い猫の十分の一程度に過ぎないが、武闘派だ。数が多く安全な住処を持ち人間による獣医師診療の恩恵も受けられる飼い猫と共同戦線を張れば世界の闇など恐るに足らず。

魚やゴミ捨て場を巡って猫と対立関係にある鴉勢力の取り込みも考慮しつつ、最近の黛訳(タイイー)は連合結成のための外出交渉に余念がない。

元々近隣の飼い猫達のボスを張っていたカリスマ黒猫だ。猫社会はよくわからんが、黛訳(タイイー)を中心とした連合結成は夢物語ではなさそうだった。正直ネコとカラスが大挙して世界の闇に襲い掛かって袋叩きにする図は見てみたい。そんなの面白過ぎるだろ。

猫連合結成が成立したら本当に月夜見中国支部長はネコで決まりだ。黛訳(タイイー)を見出したババァの先見の明すごいです。伊達に数百年女王やってねぇな。

一方、浩然(ハオラン)くんは急に喋り出した黛訳(タイイー)を驚きつつも受け入れ、一層仲を深めながら基礎訓練を続けている。成長率は1.15倍で、現在は八回成長して重力3.06倍。どこまで基礎能力が成長できるかで能力の評価が分かれそうだ。

現在の成長回数最高記録は俺を除けば親分の90回。仮にそこまで伸びれば重力29万倍だ。敵の上をとって能力を発動するだけでどんな奴でもミンチにできる。というか29万倍の重力は太陽の重力の1万倍。余裕で核融合が起きるしなんならブラックホールができる。迂闊に使うと地球滅亡するぞ……

平均的な成長回数、20回前後に落ち着けば重力15~20倍程度。自重を利用した攻撃が必殺級に昇華される。自分以外に能力を発動できるようになればもうそれだけで当てれば勝てる。翔太くんの絶対凍結攻撃《エターナルフォースブリザード》とかシゲじいの空間攻撃とかメドゥちゃんの石化の魔眼とか、超能力者は必殺技を持ちがちだ。なお俺は必殺技どころか宇宙崩壊技になっているから除外する。俺だけ強さが過剰なんだよなあ。

全ては仮定の話で、どこまで伸びるかは素質次第。とりあえず成長が止まるか、重力10倍ぐらいまで成長したら応用訓練に入る予定だ。

応用訓練では「感覚を身に着ける」事が重要だから、高重力や低重力を体感する事が重力操作を極めていく契機になるだろう。宇宙服を手配して念力で月・火星に送り込む案、宇宙旅行のチケットを取って無重力体験ツアーをしてもらう案、プールに長時間沈む事で浮力と重力の感覚の混濁を狙う案、など、色々考えてどれにするかババァと相談している。

さて。

黛訳(タイイー)と浩然(ハオラン)くんがある程度成長したら本格的に月夜見に取り込んでいく予定なのだが、俺はというと割と暇だった。シンプルに中国語が分からないのでやる事が限られるし、俺はあくまでも天照のボスで月夜見と決別している設定だから、月夜見関係のイベントで大々的に動くわけにもいかない。

ここ数日はババァからお小遣いを貰って「これで遊んでいろ」と言われる始末。一日の終わりにババァから進捗報告を聞くだけで手持無沙汰だ。

今日は大雨で、俺は港湾部の倉庫街をぷらぷら歩いていた。夕食を食べた料理屋で置き引きされてしまい傘は持っていない。バリアを張っているからどれだけ雨に打たれても濡れはしないのだが、いい気分はしない。

日は既に落ちてあたりは暗い。整然と並ぶ大型倉庫にはダンボールが転がり、朽ちかけた木箱や錆びたケースが乱雑に積まれている。

このあたりには野良猫が多く、俺は黛訳(タイイー)の能力血清を打って猫達の会話に耳を澄ませていた。血清の効果範囲や持続時間のチェックも兼ねている。

野良猫は警戒心が強く、近づくと逃げられてしまうのだが、どうやら黛訳(タイイー)らしき黒猫が野良猫勢力に急接近しているらしい、という噂は断片的に聞けた。

しばらく歩いていると、こちらから近づくより待ち構えた方が得策だと気付いた。猫は音に敏感で、人間の足音にすぐ気付いて口を噤んだり逃げ出したりする。猫のお散歩巡回ルートに隠れ、気付かれないよう息を潜め耳をそばだてているのが一番情報収集的に効率がいい。

念力で猫の会話を盗聴できればいいのだが、黛訳(タイイー)の翻訳と念力式盗聴は併用できなかった。

猫がよく通りかかる倉庫の間の細道の途中に転がっていた大きめのダンボールに潜り込み、気付かれないよう座り込んで体を丸める。俺は路傍の石。動かないただの置物。猫さんどうぞ気にせずお通り下さい。

そのまましばらく動かず小一時間待っていたのだが、猫は一匹もやって来ない。俺は遅まきながら気付いた。猫だって大雨の中のお散歩は避けるのではないだろうか。

なんとなく野生動物は雨の中でも気にせず動いているイメージがあったが、猫って濡れるの嫌いだよな。雨で喜ぶのはカエルとカタツムリだ。猫じゃない。

俺、馬鹿過ぎでは……?

自分にうんざりしながら立ち上がろうとすると、ちょうど横を通り過ぎようとしていたトラ猫と片目があった。その猫は右眼に大きな傷があり、隻眼だったのだ。

全身びしょぬれで、背を丸めてトボトボ歩いている。

俺の前で立ち止まったトラ猫は困惑して聞いてきた。

「にー(お前)、にゃぁーん《そんなところでどうした》?」

脳裏に響く圧縮言語は若い男の声だった。よく見ると全身に小さなひっかき傷や噛み傷があり、少し血が滲んでいる。痛そうだ。喧嘩の後だろうか。

「にゃーご(お前も一人なのか)? にー(俺も)……にゃあ(一人だ)」

俺が今の状況をどう説明したものかと答えあぐねていると、トラ猫は勝手に言葉を続けた。

深い哀愁が籠った言葉だった。何かあったんですかね……?

片方しか無い青い瞳がなんとも寂しそうで心が痛む。話しかけていいのか? 今の俺は猫と会話できる状態だが、急に喋って警戒されないだろうか。

俺が迷いながらトラ猫の目をじっと見つめていると、トラ猫はフッと皮肉気に(たぶん)笑って踵を返した。

「……んなぁーお(俺と一緒に来るか)? にゃおぉん(温かいメシがあるぞ)」

トラ猫が歩き出し、肩越しに振り返る。俺はダンボールから出てしましまの尻尾の後ろをノコノコついていった。

なんかよくわからんが大雨の日に段ボールの中で体育座りして雨に打たれていたら猫に拾われてしまった。

こいつぁ楽しくなってきちゃったにゃん! ぼく、猫様についていくにゃん!