少女は、青年の目を見つめていた。

いや、違う。先程の女性から逃げてきて疲れているという理由のほかに、彼の目の奥底にあるものを感じ取り、足が動かなくなってしまったのだ。

彼も、何をするでもなくただじっと少女を見つめている。

「……君は、あの街の子かな?」

青年が言う。

その言葉に彼女は驚いて目を見開くが、しばらくしておずおずと頷いた。

青年は一瞬表情を曇らせると、ひざを折って目線を合わせた。

「家族はいるの?」

「……」

「どうしたの?」

彼女は首を振って、必死に自身の体について伝える。

しばらくした後彼はその理由に気付いて、申し泣けなさそうに眉をひそめた。

「……喋れないの?」

頷く。

彼はしばらく何かを考えこんだ後、立ち上がった。

「ごめん。……もう行かなくちゃいけない。君は……早めにここから逃げた方がいいよ」

「……!」

彼女は、優しそうな彼の目に訴える。

祖母が街に残されているのだと。

彼女一人残して逃げたくはないのだと。

彼はそんな彼女の目から逃げるように顔を背け、そっと彼女を引き離す。

そんな彼の耳に、少し離れた場所から話しかけてくる女性の声が入った。

「そろそろ行きましょう。あなたにとっては退屈でしょうけど、この世界が脆いのだから仕方ないわ」

「……シルヴィア」

「しかし意外ね。あなたがすんなり私たちの言いなりになるなんて」

「俺は、勇者の外面として存在してるだけだ。俺の意思で好きに動くことはできない」

「そう。なら良いわ。裏切られたらかなわないもの」

「ねえ、ラザレス」

張り詰めた空気を、肌で感じる。

背後では、ぺスウェン、イゼル、マクトリアの兵士が入り乱れ、互いに剣を打ち付けている。

それが罠だと知っているのは、俺とルークと隊長と呼ばれていた彼。

その中で俺だけが、今回の要だ。

「……」

手汗がにじむ。

意識も遠くなったと思えば取り戻したりと、どこか漠然としない。

ああ、わかっている。

俺は、今怖いのだ。

世界を救う。

そんな啖呵を切って、情けないと思うだろうか。

救世主になりたがっていたのに何をいまさらと、あきれるだろうか。

「情けないし、呆れている。当の昔に、な」

声が聞こえた気がした。

いつか聞いた、抑揚のない声。

――魔核の、声。

「だが、それが貴様だ。臆病で、怠惰で、弱い。だから私は貴様に力を貸したんだ」

「……」

「誇れよ。貴様はこれから、世界一鈍くさい救世主になるんだ」

……それ以上話すつもりはないと言った風に、声の気配が消える。

認めているのか、けなしているのかさえもわからない言葉。

だが、俺に勇気を与えるにはそれで十分だった。

「行くぜ。救世主様の出立だ」

「あーあ。結局旦那が出て終わりかよ。つまんねえよなあ」

目の部分を包帯で巻いた男がため息をつく。

そんな彼の態度を一瞥した後、少女は言った。

「だが、もうこれであちらに目立った戦力はいない。この日でこの国諸共人の歴史は終わりだ」

「そうだな。……それじゃあ、終わらせるか」

彼はそう言って立ち上がり、戦火の渦中にあるマクトリアを見下ろす。

そして、両手を前に突き出し、自身の魔力を籠め始めた。

「じゃあな、くそったれの人間共」

その言葉とともに、凄まじい熱量を持った炎が放たれた。

火球が、目の前まで近づいてきていた。

そんな俺と抗戦の間には、俺の魔力で作り出した氷の盾がある。

「……が、ああああぁぁぁぁっ!」

あちらの戦力には、不明な一人を除き多人数を一斉に片付けられる方法は賢者しかいないとわかっている。

だからこうなることは既に読めていたが、それでも元々の力に差がある。きっと、このまま力押しを続けていたら負けるのは俺だ。

じわじわと、氷が解け始める。

奴の魔力から放たれる熱量に負け始めている証拠だ。

やはり、無理だったのかもしれない。

何度アイツと戦っても勝てなかったのだ。考えれば予測できたはずの結果なのだ。

……だけど。

ここで諦めるわけには、いかない。

俺の咆哮が、空へと届く。

神でもなんでもいいから、見ててくれ。

俺が逃げないように、ここで頑張れるように。

欲張りでなければ、あなたの勇気をひとかけらだけください。

……雨だ。

小さな小さな、言葉の雨。

「頑張れ」という、気を付けなければ見逃してしまうかのような、雨。

「頑張れ!」

今度は、はっきりと聞こえる。

ああ、神様。ありがとう。

俺の祈りは、届いたのですね。

気が付けば、既に剣戟の音は止んで、俺への声援に置き換わっていた。

誰もが、頑張れ、の一言を口に出している。

だったら、今ここで叶える。

あの日の約束を。

シアン、今度こそ兄さんはお前とお前の大切なものを守って見せる。

そしたら、許してくれるかな。

それとも、遅すぎたかな。

ごめんな、兄さんは馬鹿だから、それもわからないんだ。

その時、聞こえた気がした。

シアンの、声が。

シアンの、声援が。

だったら。

だったら、負けるわけにはいかねえよな。

「あああああぁぁぁぁっ!」

咆哮。

そして、一瞬の凄まじい閃光とともに、光線は姿を消した。

俺は膝をついて、水蒸気に包まれる。

……まだだ。

剣を抜いて、立ち上がる。

こちらへと歩いてくる影が、見えた。

「来いよ」

もう、魔力はない。

それはあちらも同じだろう。

「来いよ、賢者」

ソフィアは、困惑していた。

誰もが戦いを止め、一点を見つめている現状に。

そんな彼女も、そこから目を離せない自分に。

「……ラザレス?」

彼の名を呼ぶ。

彼は彼じゃない。そんなことわかっているはずなのに。

だけど、今の彼は似ていた。

その時、背後から断末魔が聞こえた。

彼女が驚いて振り向くと、背後に立っていた数人が仮面をかぶった男に切り伏せられていた。

彼女はその光景を見て、ようやく理解する。

「あなた方は、あの男の仲間なのですね」

肯定も、否定もしない。

両眼を覆った男は、イゼルだけでなくぺスウェンやマクトリアの兵士をまとめて消し飛ばそうとした。

奴は、この世界の敵だ。

そう認識した彼女は、剣を抜いた。

「……賢者。あなたは嫌がるかもしれませんが、そういう所はラザレスにそっくりですね」

彼女はようやく悟る。

彼は、この世界のために戦ってくれていたのだ。

「あなたと和解するのはきっと無理でしょうが……それでも、お手伝いくらいはさせてくださいよ」

気が付くと、彼女の周りには数十人もの仮面の男たちが立っていた。

その誰もがソフィアを見つめているかのように、立っている。

そんな彼女と彼らの間をふさぐように、二人の男女が近くの屋根から降ってきた。

「助太刀しよう、旅の者」

「あなたは……」

目の前には、彼女より二回りも大きい巨漢に、美しい白髪に褐色の女性。

男性の方は、ソフィアの知る人物であった。

「……フォルセ国王」

「元国王だ。私はもはや何者でもない。それに、私と貴様は初対面だ」

「……ありがとうございます」

ソフィアの言葉に、彼女もうなずく。

そんな彼女を一度見た後、剣を抜いた。

「……もう、ここまで来たのですね。兄さん」

彼女はガラスに手をついて、音のした方を見つめる。

……いや、顔を向けると言った方が正しいだろうか。

そんな彼女の肩は小さく震えていた。

本当は、おびえていたのだ。

彼から、いったいどのようなことを言われるか。

殺されるのもいい、嫌われても、憎まれてもいい。

そんな欺瞞で彼女の本心を隠そうとするが、どうしても本心がこぼれ出てしまう。

殺されたくない。嫌われて、憎まれたくない。

彼女は、いつだってそうだった。

本当は、ただ一言兄と話せるだけでいいのに。

いつだってつまらない嘘で自分を飾ってしまう。

「ただ、話したい――」

彼女は自身の頬を伝う涙を拭う。

この世界に彼を呼んだことだって、本当は話したいだけだった。

彼が強くなったのだって、彼女自身が弱いから守らなければいけない、という使命感からだということくらい、彼女だって理解していた。

――それに、結局彼は彼女を殺さなかった。

「……ごめんなさい。ごめん、なさい……っ! 私の、せいでっ……!」

彼に聞こえない謝罪を、何度も繰り返す。

そんな彼女の背後から、声をかける者がいた。

「……姐さんのせいじゃねえっすよ。本当に悪いのは、俺です」

「……アルバ?」

「少しだけ、話をしませんか? いろいろと、話したいことがあるんす」

彼女がアルバの言葉に頷いたのを確認すると、彼は彼女の手を引いてゆっくりと歩き出した。