Tou no Madoushi

Episode 116: Stuck

「国家は何を根拠に人に刑罰を与えうるのか。ある者は犯罪抑止のためといい、またある者は人を人たらしめるためだという」

 リンはシェンエスの法律学の授業を受けていた。

 今日も彼は淡々と板書を書いて説明する。

 彼はいつも厭世的で世間のあらゆる騒ぎから目をそらしているかのようであった。

 聞くところによると塔の隅っこで隠者のような生活をしているという。

 さっさと引退することだけが望みだと事あるごとに吹聴しているようだ。

 そのくせ自分のクラスに生徒が来ると、収入が増えるにも関わらず、物憂げな顔をするのであった。

 とはいえ、彼はリンのことを嫌っているわけではないようだった。

 むしろリンのために色々気遣ってくれるほどだった。

「シェンエス先生!」

「ん? なんだい?」

 シェンエスは授業を終えて退室しようとしたところでリンに呼び止められた。

「少し質問したいことがあるのですが、よろしいですか?」

「ああ、構わないよ」

 シェンエスは腕時計を見て時間を確認した後でそう言った。

「二つのルールの板挟みにあった時、人はどうすればよいのでしょうか」

「ふむ。これまた抽象的な質問だね。そのルールとは?」

「んー、えーっと……」

 リンは言葉に詰まった。

 まさか平民派と貴族派の間で板挟みになっているとか、奴隷階級の子が主人のあべこべな命令に苦しんでいるとか言うわけにもいかなかった。

「……言いづらい事か。まあいいだろう。そのような矛盾に陥るのは実生活でも法律の上でも珍しい事ではない。一つの概念があれば必ずそれに対立する概念が用意されているものだ。自由と平等。私と公。民事と刑事。雇用者と労働者。生産者と消費者。幸福追求と公共の福祉。一つの側によれば必ずもう一つの側に反する。裁判においてもどちらの考えを優先するかというのはよく論点になるものだ」

「そうですよね」

「しかし全ての立場に遠慮しているようでは人はなんの行動も起こせなくなってしまう。そこで大切なのが公平だ。裁判においては最終的には裁判官の良心の下に公平な判断が下される」

「なるほど」

「肝心の板挟みにあった時の対策ということだが、それは普段から振る舞いに気をつけることだ」

「振る舞い?」

「そう。振る舞いだ。その行為が一般的な良識に照らし合わせても妥当かどうか。特に法律においては実態よりも形式が重視されることがままある。実際は私利私欲に基づいた行動であっても、正式な手続きを踏んでいたり、公的な要請に基づいた態度を取っていたりすれば、正当な行為とみなされることがある」

「公的な要請?」

「その通り。治安のため、忠誠のため、個人の権利のため。例えば正当防衛なら、相手を死に至らしめても無実になることがある」

「なるほど」

「証拠を保管しておくのもよい。起こった事をメモに書き留めておくだけでも随分違うだろう。いざ法廷の場に立たされても自分の主張が正しいことを証明する助けになる。ルールに反しないよう努力した事を示すのが重要だ。なんにせよ軽率な行動は避けることだね」

「うっ、やっぱりそうなりますか」

「後は最後の奥の手だが……いや、これは私の口から言うのはやめておこう」

「?」

「これは課題ということにしておく。自分で考えるように」

「分かりました。どうもありがとうございます」

 リンはシェンエスから聞きたいことだけ聞くとさっさと教室を飛び出して行った。

 シェンエスは不思議そうに廊下を駆けて行くリンのことを見守る。

「一体なんだね彼は? 奇妙なことを聞くが。君は何か知っているかい?」

 シェンエスはディエネに尋ねてみた。

 リンがバタバタと教室を出て行ったあと、話し合うのは二人の習慣のようなものになっていた。

 彼らの話題は専らリンのことだった。

「彼は平民派として行動しているんですよ」

「平民派? しかし彼は……」

「ええ。イリーウィア姫と懇意にしています。なのでどうも良くない立場に置かれているようですね」

「なるほど。それで今の質問というわけか」

「どうも彼はトラブルに巻き込まれるタチのようです。大事にならなければよいのですが……」

「大事ね。人というのは厄介な生き物だな。余裕が無ければ不平を垂れるが、変に余裕が生まれるとそれはそれでロクなことをしでかさない」

「ところで先ほど言いかけたこと。一体なんですか? 奥の手とか」

「ああ、あれかね」

 シェンエスは彼の憂鬱な顔をより一層鬱々とさせる。

「こればっかりはいくら君といえども教えるわけにはいかないな。私にも立場というものがあるからね」

「ほう。先生の立場で言えないことですか。となるとますます気になりますね」

「詮索は止めたまえ」

 シェンエスはディエネの追求を振り払うように帰る支度を始める。

 ディエネは人当たりが良い一方で相手の心に入り込むのが上手いため、気をつけて話さなければならない相手だった。

(私の立場で言えるはずがないだろう。ルールを破っても罰せられない方法なんてね)

 平民派の集会は早くも行き詰まりを見せていた。

 集会に参加する人は激減していた。

 初めは熱心に参加していた人達も、潮が引くように離れて行った。

 彼らは手っ取り早く待遇が改善されると期待していたのだ。

 残ったのはそこそこ裕福な中流階級の人達で、リンの本当にやりたい格差是正の対象の人達はさっさと離れていった。

 リンはなぜ彼らがいつまでも卒業できないのか、ようやく理解した。

 貧困な者たちにとって大事なのは将来よりも目先の生活だった。

 カロはリンに決断と行動を促した。

「リン殿。また脱退者が出ています。このままでは活動に差し支えますよ。如何なさるおつもりですか?」

「うーん。なぜ彼らは抜けていくのでしょう。待遇改善には魔導師としての力を身に付けるのが一番だと思うのですが」

「彼らはあなたに失望しているのです」

「そうでしょうか」

「ええ、そうですとも。リン殿。あなたここ最近活動に消極的ではありませんか?」

「えっ? そ、そんなことないですよ」

「『最高魔導人民会議』でも自制を促す発言ばかりしているではありませんか」

「……」

 カロは集会の最高決定機関を設置し、『最高魔導人民会議』という物々しい名称をつけた。

 集会のメンバーはここで決められたことに従わなければならないと規約で定められていた。

 リンは集会の代表であるため、一応会議の議長という地位を割り当てられていたが、議事は多数決によって決められるため、賛成多数で決定したことには従わなければならない。

 会議では貴族の腐敗に対して暴力的な革命も辞さない過激な発言が相次いだ。

 リンは議長らしくみんなの意見に耳を傾け、鷹揚に受け入れつつも遠回しに反対した。

『最高魔導人民会議』のメンバーも多数決で押し切ることはできるものの、リンに遠慮する形になった。

 そのためいつも会議は堂々巡りで何も決められないまま終わった。

 みんなリンに遠慮して強硬な態度を取らなかったが、リンが孤立しつつあるのは明らかだった。

「リン殿。このままではあなたの影響力そのものが低下してしまいますよ」

「えっ? そうなんですか?」

「 事実、求心力を失いつつあります。このままではあなたのキャリアにも影響が出かねませんよ」

「そ、そんな。どうすれば……」

「こうなっては何か行動を起こす必要があります。人々の興味をひくセンセーショナルな行動を! 集会して決起しましょう! 協会及び、巨大樹、エレベーターの周りを封鎖して支配への不満を世論に訴えるのです」

「だ、ダメですよ。そんな過激なことしちゃ」

「では誰か上級貴族を批判してください。それで新聞に載せれば貴族嫌いの人々の関心と擁護を再び取り戻せます」

「で、でも誰を……」

「エディアネル公などはどうでしょう。彼女は賄賂と利権まみれの貴族です」

「ちょっ、だ、ダメですよ」

 リンは焦った。

 エディアネルにはつい先日、リンもヘルドと一緒に贈り物をしたところである。

「ウィンガルド貴族はやめましょう。イリーウィアさんの不興を買うのは得策ではありません」

「ではそれなら……」

 カロはスピルナやラドスの貴族を上げ連ねたが、いずれもリンの知り合いの関係者だった。

 こうして見ると貴族達はどこかしらで誰かと繋がっており、強固な連帯を持っていることが見て取れた。

(ど、どうしよう。どうすれば)

 リンはここに来てようやく自分がのっぴきならない状況に陥りつつあることに気づいた。

 誰かに与すれば誰かを裏切らなければならない。

「ではリン殿。イリーウィア様に活動に参加してもらってはいかがでしょうか」

「えっ? イリーウィアさんにですか」

「そうです。ここで彼女との繋がりを強調すれば、再び帰ってくる人も出てくるはず。貴族階級から合流する者も出るやもしれません。やってくれるでしょうな」

 カロはずいっと迫ってくる。

「う、分かりました」

(な、なんだかどんどん後戻りできない方向に進んでいるような……)

 その日の『最高魔導人民会議』で、リンはイリーウィアをメンバーに勧誘する事を約束した。

 リンは自分の思い通りに行かなくなっているこの状況にやきもきしながら、イリーウィアがアルフルドに降りてくるラージヤの授業に備えるのであった。

 次回、第117話「静かな洞窟の中で」