トリア暦四〇三〇年、トリア大陸の西の端、ユースト・ルキドゥス聖王国の聖都ウィルトゥスの王宮――通称“白銀宮”――の最奥部。

「くそっ! アークライト! 引くぞ!」

白銀のプレートメイルを着た二人の騎士が黄昏色に染まった白亜の宮殿の庭を駆けていく。

彼らの後ろには数十体の魔物たちが追い掛けていた。その魔物たちは抽象画のように左右非対称で、人間の体のパーツ、目や口、手足などの大きさや位置を無視して取り付けられ、誰もが生理的な嫌悪感を抱く醜い姿をしていた。

そして、魔物たちの目には何の感情も見られなかった。しかし、その目を見た者に絶望感を与えるような虚ろな目だった。

多くの仲間を失いながらも逃げてきた二人の騎士は、追いすがる魔物たちに剣と槍でダメージを与えつつ、ある部屋に向かっていた。

「アークライト、最後の命令だ。私がここで奴らを足止めする。貴様は陛下、王族の方々をお守りしてくれ」

アークライトと呼ばれた若い騎士は、

「し、しかし……隊長が陛下をお守り……」

彼がそこまで言ったところで、年嵩の騎士が彼の言葉を遮る。

「議論をしている暇はない! 第一、貴様に足止めはできん!」

更にその騎士は剣を振って「邪魔だ! さっさと行け!」と怒鳴った。

レイ・アークライトはその言葉に反論しようとしたが、魔物たちが迫ってくる状況を確認すると、その騎士に一礼し、白亜の廊下を無言で駆けていった。

残された騎士はその姿を見送った後、不敵な笑みを浮かべる。

「ここは通さん! 貴様らを陛下に近づけさせはせん!」

彼は剣を振りかざし、数十体はいる魔物たちに向かって突っ込んでいった。

レイは後ろを振り向かなかった。振り向けば敬愛する先輩を唯一人で死地に向かわせることを躊躇い、彼の後を追ってしまいそうだったからだ。

(隊長の最後の命令に背くわけにはいかない……私を逃がすために死んでいった仲間たちにも顔向けできない……陛下をお守りすることこそが隊長たちへの恩返しだ……)

彼は浮かぶ涙を必死に堪えながら、転送魔法の魔法陣が描かれた部屋に入っていく。

(陛下たちは既にジルソール――東の島にある王国――に到着されたはずだ。私の後には誰もいない……転送と同時に魔法陣を破壊しなければ……)

彼は薄暗い部屋で置いてあった緊急用の可燃物――追跡を避けるために置かれた油を床にぶちまけ火を着けた。炎は一気に広がり、部屋の中央に描かれた魔法陣の中に入った時には、油がメラメラと燃え、部屋は昼間のような明るさになっていた。

彼が転送魔法の呪文を唱え始めると、魔法陣は白く輝きだす。転送魔法が起動し始めた証だ。

その時、彼の頭に重い衝撃が走った。

天井から人の大きさほどの物体が落ちてきたのだ。

彼は転送魔法の準備に集中しており、その物体――先ほど外にいた混沌の魔物の一種――が落ちてくるのに気付けなかった。

「な、何だ? くそっ! こんなところにも居たのか……」

彼は必死にその魔物を引き剥そうとするが、長さも太さも違う魔物の両の腕(かいな)の力は思った以上に強い。

魔物は彼の頭に向かって触手状の物を次々と伸ばしていく。

兜から露出している額、耳、後頭部などに多数の触手が突き刺さり、彼は激痛に悲鳴を上げる。

「ああ! や、やめろ! 俺の記憶を、魂を食うな! やめろ!」

異形の魔物は人の記憶を食らうとされていた。実際、魔物に襲われた後に救い出されたものは皆記憶を失い、更には感情も失っていた。

彼は剣を引き抜き、魔物に突き刺すが、魔物の触手は怪しい光を放ちながら、彼の頭により食い込んでいく。

(駄目だ……死ぬ前に魔法陣を書き換えなければ……このままでは陛下が……祖国の民たちが……)

彼は消えていく意識の中で背中に背負った槍を引き抜き、魔法陣の一部を削っていく。特殊な文字で書かれた魔法陣の一部が消え、白く輝いていた魔法陣が急に力を失っていった。

(これで転送魔法は発動しない……隊長、すみません。命令を守れませんでした……せめてこいつだけでも道連れに……)

薄れゆく意識の中で最後の力を振り絞り、右手に持ち替えた槍に魔力を込める。

すると、槍は眩いばかりの光を放ち、その光が魔物に向かって伸びていく。

魔物はその白光に貫かれ、ゴボッという音を立てて血を撒き散らすが、触手は伸びたまま怪しく輝き続けていた。

彼はそのまま床に倒れ、その目は次第に力を失っていく。

彼に取り付いていた魔物も彼が倒れた拍子に槍で貫かれ、絶命した。

一人と一匹がその生を終えた部屋では、床に撒かれた油がさらに燃え広がっていく。

その炎は彼と魔物を焼き尽くし、すべてを浄化しようとしていた。

そう思われた矢先、生者は誰もいないはずのその部屋で、一旦は光が消えた魔法陣が再び輝き始めた。そして、レイ・アークライトの体が銀色の光に包まれていき、やがて完全に光に包まれる。

唐突に光が収まり、再び赤い炎だけが照らしていた。しかし、そこには魔物の死体だけが残され、レイ・アークライトと呼ばれた青年の遺体は無かった。

この事実は誰にも気付かれることなく、その部屋は魔法陣ごと、火によって燃やし尽くされた。

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ここは関東地方にあるそれほど大きくない地方都市。

まだ肌寒い日が続く三月のある日。

小柄で一見すると中学生に間違えられそうだが、もうすぐ19歳になる若者、聖(ひじり) 礼(れい)は目前に迫った大学生活の準備に忙しい日々を送っていた。

(思ったより準備に時間が掛かるんだな。もっと早くから準備をしておけばよかったよ……)

大学の近くで下宿先を決め、手続き関係などをこなし、後は下宿先に持っていくものを整理するだけになっていたのだが、荷物を選別する時にいちいち確認するため、思ったより時間が掛かっている。

(この本は持っていくとして、こっちはどんな内容だっけ?……)

彼の好きなライトノベル系の本や武器や魔法の資料集などを見付ける度に読んでいくため、彼の周りにはそのような本が山のように積まれていた。

朝から始めたはずだが、日が傾き始め、少し薄暗くなるまでそのようなことを続けていたため、夕食を取る頃にようやく本の整理が終わった。

(ふぅ~。ようやく本の整理が終ったか。後はパソコンの梱包だな。とりあえず、データのバックアップを取っておこうか)

彼はパソコンを起動し、データのバックアップを取っていく。

(あっ! 去年書いていた小説か……懐かしいな。どこまで書いたんだっけ?)

彼は受験のため執筆を休止していた処女作「トリニータス(天と地と人の神の)・ムンドゥス(世界)」というファイルを開く。

彼のその作品はいわゆる異世界転生物で女子高校生が剣と魔法の国に転生する物語だ。

内容は弓道部のエースである主人公が、大国の狭間にある小さな村の猟師の家に転生し、苦難の末、弓道の腕と現代の知識を使って生きていくというものだった。

物語は少女期の終盤まで書き進められていた。

彼女の村が魔族に襲われ、ただ一人生き残り、救助に来た冒険者に救われる。

その冒険者は彼女を引き取り、一緒に住むことになった。彼女は絶望の中、冒険者の男に励まされ、独り立ちしようとしていた。

ここまで話が進んだところで中断していた。

(この後、街が魔族に襲われる設定だったんだっけ? プロットは……あれ? どこに紛れ込んだんだ?)

彼はプロットを探すが、フォルダ内にそれらしいファイル名がない。

(あれ? 間違って消したのか? 気になるから手当たり次第に開いていくか……)

彼は手当たり次第にファイルを開いていくが、プロットが見付からない。

そして、“転送設定”という名のファイルを見つけ、「こんな名前だったかな?」と疑問に思いながら、そのファイルのアイコンをダブルクリックした。

その瞬間、突然パソコンの画面が真っ白に輝き、彼の部屋はその光に包まれていく。

「うわっ! 何だ!?」

彼はその光に驚きの声を上げるが、物理的な圧力があると思われるほどの光量に座っていたイスから転げ落ち、そのまま意識を失った。

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礼は自分の部屋では嗅ぐことの無い、湿った草木の匂いで目を覚ました。

(何が起こったんだ? パソコンが急に光って……思い出せない……)

彼はまだ意識が朦朧としているようでしきりに頭を振っている。

(頭が重い……何でヘルメットなんて被っているんだ?)

彼は頭を振ったときに覚えた違和感から、自分がヘルメットを被っていることに気付く。

そして、ヘルメットを外そうと手を顔の近くに上げると自分の手が金属製の防具を付けていることにも気付いた。

彼は慌てて自分の体を確認していく。

(何だ? ガントレットか?……プレートアーマーを着けているし、腰には剣が……誰がこんなコスプレ衣装を着せたんだ……)

彼は混乱しながら立ち上がり、自分の姿を確認していく。

最初はコスプレのような張りぼての鎧と思っていたが、軽く叩いてみると意外に厚みのある本格的な鎧であることが分かった。

だが、知識にあるような重量感はなく、思った以上に軽い。そのため、本物のような気がしなかったのだ。

(しかし、一体ここはどこなんだ? コスプレっぽい衣装といい、悪ふざけにしては手が込み過ぎている……)

彼は周りをゆっくりと見回していく。

直径が一メートルを超える大木が何本もそびえ、木漏れ日がところどころに差しこむが全体的にはうっそうとした印象が強い。地面には緑色の苔に覆われた岩や背の低い灌木、羊歯のような草が生えているが、人工物は一切見当たらない。

(ここはどこなんだ? 夢を見ている? 深呼吸をして、冷静になれ。何があったか思い出そう……)

彼は必死に状況を把握しようと記憶を辿るが、思い出せるのは自分の部屋でパソコンを見ていたということだけだった。

(僕の名前は……聖 礼。年齢は十八歳、あと二ヶ月で十九歳……東京の大学に入るため、荷物の整理をしていた……パソコンのデータをバックアップするつもりで「トリニータス・ムンドゥス」のファイルを整理して……ここからが思い出せない……)

彼はもう一度自分の周りを見回してみる。

その時、何かいつもと違う感じがし、その違和感の原因が思い当った。

(視線の位置が高い? 比較対象が無いけど、何となく背が高い気がする……)

彼の身長は百六十センチメートルを少し超えたくらいで、背は低い方だった。

比較対象が無いため、どのくらい高いか正確には分からないが、二十センチ以上高い気がしていた。

そして、そのまま自分の姿を確認していく。

白銀のプレートアーマーに同じ色の大腿甲《キュイス》などのレッグアーマーも着け、革のブーツに白いマントを着けている。

鎧の隙間から見える肌は白く、白人の肌のようだった。

そして、左の腰には一メートルくらいの直剣、いわゆるロングソードを佩き、足元には二メートルくらいの長さの槍が落ちている。

その槍は柄も含めすべて白銀色の金属製で、三十センチくらいの長さの十字型の穂先が付いていた。

(夢で無ければ、異世界トリップか? 体は別人だから転生か? まさか……はっはっはっ……)

夢にしては感覚が生々しく、夢ではありえないと思い始めていた。

彼は自分の持ち物を確認しようとポケットや袋などを探すが、周りに槍以外の荷物はなく、バックパックなどの袋類も持っていない。

(持ち物は武器と防具だけ……食料も水もない……夢ならそれでもいい。現実だとすると……とにかく動こう。人を探して助けてもらうしか生きていけない……)

彼は意外に早く現実的な考え方に切り替えた。小説を書くときに自分ならどうすると、いつも考えていたことがその思考に繋がったのかもしれない。

もちろんサバイバルの経験もなく、インドア系の彼が知る食料を得る手段は本で得た知識しかない。

そんなあやふやな知識に頼ることはできないと、森の中を彷徨い始めた。