Trinitas Mundus - The Story of Saint Knight Ray

Episode Four: Aquila Mountain

トリア暦三〇二六年、一月八日。

レイたち魔族追撃隊は吹き止まぬ吹雪に足止めを余儀なくされていた。

その頃、月魔族のヴァルマ・ニスカと大鬼族のイェスペリ・マユリ率いる月の御子の護送部隊はアクィラ山脈の抜け道まで二百kmほどの位置まで進んでいた。

既に日は落ち、野営が行われているが、ヴァルマの周囲には翼魔が一体しかおらず、五体のハーピーと一体の翼魔の姿がなかった。

五日前の一月三日。

ヴァルマは月の御子、ルナのためにアクィラ山脈の麓に近い開拓村で物資を補給しようと考えた。そのため、翼魔一体とハーピー五体を引き連れ、自ら偵察に向かったのだった。

決して油断していたわけではなかった。

だが、彼女の手勢は開拓村の自警団に殲滅され、自らもほうほうの体で逃げ出せたに過ぎない。

(どうしてあんな辺境にあれほどの備えが……これで私の手勢は翼魔一体だけ。これでは碌に偵察にも出せないわ……)

物資の補給に失敗しただけでなく、手勢の大半を失ったことから、彼女は自信を喪失しかけていた。更に間が悪いことに、年が明けてから急激に気温が低下し、ルナが何度も体調を崩しており、それが彼女の心労のもととなっていた。

(御子様のお体が心配だわ。治癒魔法で何とかもたせているけど、これ以上無理は出来ない。いいえ、いつ体を壊してもおかしくないわ……)

その懸念はすぐに現実のものとなった。

ルナは失意と寒さ、そして、偏った食事――極少量の穀物に大鬼族の獲る魔物の肉のみ――により本格的に体調を崩してしまい、立つことすらできなくなってしまった。そして、頼みの綱であるヴァルマの治癒魔法すら効かなくなる。

一月七日の午後。

ヴァルマはやむなく移動を断念する。

イェスペリに洞窟などの避難所となる場所を探すように指示しながら、この状況をどうするか考えていた。

(熱が下がらない。それにほとんどお食べにならない……このままでは間違いなく御子様を失ってしまう……)

ヴァルマは焦りを覚えながら、ルナのために食料と衣類を手に入れる方法を考えていた。

(この辺りに開拓村はないわ。一番近くて、アルス街道の宿場町。距離は正確には判らないけど、五十kmくらいあるはず。私と翼魔なら数時間で往復できるわ。今から向かえば、日付が変わる前に戻ってこれる。でも、御子様を一人にしてしまう……)

この状況で女性であるルナを男だけの大鬼族に預けることに一抹の不安を感じるものの、事態を打開するためには決断が必要だった。彼女は苦渋の決断をした。

(悩んでいても仕方がない。何としてでも御子様のために、食料と防寒着を手に入れなければ……)

日没直前、何とか避難所となる洞窟を見つけることに成功する。ヴァルマはルナをイェスペリに託し、唯一残った翼魔を伴って、雪がちらつくアクィラの裾野の森から西に向かって飛び立った。

午後九時過ぎ、ヴァルマはアルス街道にある小さな街を見つける。

街の周りには木製の防壁が張り巡らされ、周囲を警戒するように多くの灯りの魔道具で照らされていた。

(それほど大きな街じゃないわ。これなら、うまく忍び込める。食料と着る物……あそこがよさそうだわ……)

彼女は名も知らぬ宿場町の上空から、一軒の家に目を付けた。ちょうど、裏口から主婦らしい女性が出てきたことから、ヴァルマはその女性を眠らせ、食料と衣類を奪うことにした。

ヴァルマは漆黒の翼を駆り、暗闇の中を梟のように音もなく着地する。

家から出てきた四十代半ばと思しき女性はヴァルマに気付くことなく、裏庭にある倉庫に向かった。ヴァルマは静かに呪文を唱え始めた。

「夜と平穏を司りし、闇の神(ノクティス)よ。安寧の霧、睡眠の雲を我に与えたまえ。我はその代償に我が命の力を御身に捧げん。我が敵に安らぎの眠りを。睡眠の雲(スリープクラウド)」

黒い霧状の睡眠の雲(スリープクラウド)の実体は闇に紛れてほとんど見えないが、ゆっくりと、そして確実に主婦の背後に迫っていく。黒い霧がその主婦に纏わりつくと、違和感を覚える暇を与えず、彼女の意識を奪った。

(うまくいったわ。後は必要なものがあるかだけど……)

ヴァルマは翼魔に周囲を警戒させ、自らは物置の中を物色する。比較的裕福な家だったのか、食料を手に入れることに成功する。だが、もう一つ必要な防寒着は物置にはなく、仕方なく家の中に入っていく。

既に家族は寝入っているのか、台所の灯りの魔道具以外、すべて消されていた。

(私たちが来たと分かると面倒だから、必要なものだけ奪って逃げた方が良いわね……)

街道からは五十kmほどの距離を移動しているが、敵がどう動いているか判らない以上、出来るだけ痕跡を残したくないと考えていた。彼女は眠らせた主婦を台所にある椅子に座らせ、居間にあった男性用の防寒着を手に取った。更に予備の衣服を入れてある物入れを見つけ、ウールの衣服を数着、手に入れた。

(質は悪くないわ。これなら大丈夫だわ。後は物盗りの仕業に見せ掛けて……)

ヴァルマは目に付いた金銭を懐に入れ、戸棚の扉を開けるなど、物色したような細工を施す。

その際に薬草が入った薬箱を見つけ、中身を奪っていく。ほとんど音を立てることなく、数分で細工を済ませる。

彼女はコソ泥のような行いに、自嘲するように苦笑を浮かべる。

(誇り高き月魔族であるこの私が……いえ、これはすべて我らの悲願のため、御子様を都へ、ルーベルナへお連れするため……)

彼女は自らにそう言い聞かせると、静かにその場を立ち去った。

そして、イェスペリらと合流するため、雪が舞う真冬の空に舞い上がっていった。

ヴァルマはルナのことで焦りを覚えていたが、無理はしなかった。三時間ほどでイェスペリらが守る洞窟に舞い戻った。洞窟は奥行き数mほどの小さなもので、大柄な大鬼族が入るには狭いが、その分、寒風を遮ってくれる。

幸い、ルナの容態は小康状態を保っており、ヴァルマは安堵の息を吐き出す。

(良かったわ。薬も手に入ったし、食料も……二日くらい、ここにいた方がいいかもしれないわね。この周りには村もないし、この時期に冒険者たちが入ってくることもない。先回りされるかもしれないけど、それは後で考えればいい……)

ヴァルマの献身的な看病により、ルナの容態は快方に向かう。

元々、疲労と精神的な落ち込みが原因であったため、十分な休養と栄養のある食事によって、過酷な状況にも関わらず、若いルナはすぐに回復し始める。体力の回復に伴ってほとんど効かなかった治癒魔法も効果を表し始め、翌日には起き上がれるまでに回復した。

それでもヴァルマは無理をすることなく、二日間の休養をとることにした。

そして、天候がやや回復した一月十日の朝になり、ルナの体調が満足いくところまで戻ったことを確認し、移動を再開した。

前日までの雪交じりの天候から、薄日ながらも晴れ間が広がる中、イェスペリら大鬼族戦士を先頭にアクィラ山脈の麓の森を移動していく。

それまで彼女たちを苦しめていた天候は、徐々に回復していった。だが、彼女たちにとって、天候の回復は必ずしも良いことばかりではなかった。

空腹に耐えかねた魔物たちが、彼女たち一行に襲い掛かってきたのだ。

普段なら、三級相当の魔物であるオーガがいれば、大抵の魔物は身の危険を感じて襲い掛かる事はない。だが、ここ数日の天候不順のため、多くの魔物が腹を空かせており、飛竜《ワイバーン》や有翼獅子《グリフォン》などの大型の飛行型の魔物が上空から隙を窺い、岩巨虫《ロックワーム》や地竜《ランドドラゴン》が岩場で待ち伏せていた。

優秀な戦士であるイェスペリは、配下の戦士、眷属を巧みに指揮し、それら強力な魔物を排除していく。だが、アクィラの奥地に進むに従い、少しずつ戦力を消耗していった。

一月十二日には、二人の戦士と五体のオーガを失い、更に多くの戦士が傷付いていた。ここまで黙ってヴァルマの方針に従ってきたイェスペリだったが、これ以上は危険が大き過ぎると考え、ルートの変更を提案した。

「このままではレリチェに辿り着けませぬ。いま少し山から離れるべきかと」

その時、ヴァルマらはカウム王国北部の街バルベジーの北、約百kmの位置にいた。そこから抜け道にある拠点レリチェまでは真直ぐ東に向かえば最短距離だ。そして、バルベジーとトーア砦を結ぶトーア街道からも充分に離れており、敵からの発見を防ぐには最適なルートのはずだった。

事実、このルートは侵攻時にも使っており、その時は大軍であるにも関わらず、敵に発見される事はなかった。

ヴァルマは少し考えた後、「……そうね。もう少し南に行きましょう」と同意する。

だが、内心では不安を感じていた。

(幸いカウムには有翼獅子(グリフォン)隊も飛竜(ワイバーン)隊もいない。でも、街道近くを念入りに哨戒しているはず……さすがにトーア街道から十kmも離れたら開拓村はないけど、魔物狩りの冒険者たちに遭遇する可能性は一気に高くなるわ。ここで見付かったら、トーアの砦から出てこられる……そうなったら……)

ヴァルマは不安を押し隠し、平静を装いながら周囲の警戒を強めていった。

時は二日遡る。

トリア暦三〇二六年、一月十日の早朝。

レイたち魔族追撃隊はトーア砦を出発しようとしていた。

一月八日から吹き荒れた吹雪はようやく小康状態となり、トーア砦の北十kmほどの位置にある魔族の抜け道を目指すこととなったのだ。

小康状態となったとはいえ、厳寒のアクィラ山中は移動するだけでも油断ならない場所だった。二百名の傭兵たちは厳重な防寒装備に身を固め、食料や装備を満載した背嚢を背負っている。険しい山中を行くため、輜重隊を伴うことが出来ず、すべて自分たちで運搬する必要があったのだ。

ペリクリトル出発時から厳冬での山岳戦となることは想定されていた。だが、寄せ集めに近い傭兵たちがそのような特殊な訓練を受けているはずもなく、訓練を施す時間もなかった。

地図のない山中であり、尾根や谷が何度も行く手を阻む。その都度、迂回していくため、彼らの士気は徐々に低下していった。

そのため、出発から数時間も経たないうちに、落伍者が出始める。

日本の一般的な高校生であり、インドア派だったレイは、当然冬山の登山の経験はない。だが、レイ・アークライトの頑健な体は、厳しい冬山の行軍をものともしていなかった。

レイは頻繁に休憩を必要とする状況に焦慮していた。

(今日中に抜け道まで行っておきたかったんだけど……これだけ厳しい条件だと一時間に一km進むのも難しいのか……)

焦りの表情を見せているレイに対し、アシュレイが声をかける。

「焦りは禁物だぞ。あれだけ吹雪いたのだ。如何に大鬼族とはいえ、予定通り移動できるはずはない。それよりも味方の体力を維持することを考えねばな」

アシュレイの言葉にレイは苦笑気味に頷く。

「分かっているんだけどね。向こうの様子が分からないから、どうしても焦ってしまうんだ。まあ、僕が焦ってもハミッシュさんたちはよく判っているから、無理はさせないんだろうけどね」

マーカット傭兵団(レッドアームズ)の団長、ハミッシュ・マーカットはベテランの傭兵らしく、決して無理はしなかった。

自らが鍛え上げたレッドアームズたちと比べ、追撃隊に参加している他の傭兵、冒険者たちの技量や体力が劣ることは最初から判っていたし、何より厳しい規律に馴染めないことも充分に理解していた。

そのため、厳格な規律を課すハミッシュにしては、非常に緩い規律しか課していない。それでも、傭兵たちの間から不満の声が上がり始めていた。

十日は一応の目標である北十km地点に遠く及ばず、僅か五kmしか移動できなかった。ハミッシュは自らの計画の甘さに苦々しい思いをしていた。

(急ぐ必要があったとはいえ、やはり無理があったようだな。地図のない山中、それも険しいことで有名なアクィラの山の中だ。今日一日の移動も距離としては五kmほどだが、歩いた距離はその三倍はあるはずだ。レッドアームズ(我々)だけなら何とかなるが、他の連中は三日ともつまい……)

翌日の一月十一日。

その日の夕方、レイが傀儡《くぐつ》とした小鬼族の戦士、ダーヴェとラウリにより、抜け道付近であることが確認された。

その日のうちに、獣人部隊のウノらが偵察に赴き、魔族が使用した抜け道を発見する。

更に翌日の十二日、ハミッシュは野営地に適した場所を探すように命じた。

そして、強い風を遮ることができる山陰《やまかげ》を野営地として選んだ。

その間にウノやステラを伴い、レイたちは周辺を偵察していく。雪に埋もれた抜け道に大鬼族たちが通過した痕跡は見付からなかった。

レイは間に合ったことに安堵する。

(どうやら間に合ったみたいだ。後はどれくらいここで待つかだけど、早ければ二、三日でやってくるはず……)

だが、彼の予想は裏切られることになる。

十二日から三日間、天候は回復し、何度も偵察を行うが、大鬼族たちは姿を現さなかった。

その間にも追撃隊は脅威に晒され続けていた。

奇しくもヴァルマたちと同じように、飢えた魔物に襲われ続けたのだ。

飛竜《ワイバーン》や有翼獅子《グリフォン》だけでなく、数十頭にも及ぶ雪狼の群れ、体高十mはあろうかという霜の巨人(フロストジャイアント)が次々と彼らに襲い掛かる。

空中から襲い掛かる魔物に対してはレイの魔法が威力を発揮し、撃退に成功するが、数で攻めかかってくる雪狼に対しては数人の犠牲者を出している。

幸い、霜の巨人(フロストジャイアント)はウノらの哨戒線に引っ掛かったため、ハミッシュらレッドアームズの精鋭により、犠牲者を出すことなく倒していた。

天候が回復したとはいえ、夜には天幕の中でも氷が張るほどの低温のため、彼らの体力と気力はすぐに底をついてしまった。

一月十五日の朝。

レッドアームズ以外の傭兵たちを取りまとめる傭兵、ダスティ・コベットがハミッシュの天幕を訪れる。

ダスティは開口一番、「限界だな」と言って小さな壷に入った蒸留酒をあおる。

ハミッシュとレッドアームズの隊長たちは、主語を抜いたその言葉に対し、何が限界なのかすぐに悟った。

ダスティはもう一度酒を口に含むと、

「一旦、引き上げるしかねぇな」

ハミッシュは隊長らと協議の上、マーカット傭兵団以外の傭兵、冒険者たち百名を物資補給の名目でトーア砦に戻すことにした。

ハミッシュは不満げな表情を見せる隊長たちに笑顔を向ける。

「戻ってくるまでの数日間は我々だけとなる。物資の補給は必要なのだ。そう割り切ればよい」

一番隊隊長のガレス・エイリングはハミッシュの言葉に頷くものの、不甲斐ない味方に不満気な表情を崩さなかった。

「この程度で根を上げるようなら、最初から手を挙げねばよいのだ!」

それに対し、副官のアルベリック・オージェがいつものように飄々としたしゃべり方で彼を宥める。

「そんなことは最初から判っていたじゃない。元々、僕たちだけで何とかするつもりだったんだから、輜重隊だと思えばいいんじゃないの」

輜重隊という言葉にダスティが苦笑する。

「まあ、そういうなよ。よくここまで付いてきたと思うぞ。まさか、二級のそれも上位クラスの霧の巨人(フロストジャイアント)なんていう大物まで出てきたんだ。ブルっちまってもおかしくはねぇ」

そして、翌日の一月十六日。

追撃隊の半数が砦に戻っていった。