トリア暦三〇二六年二月五日の夜。

絶望の荒野(デスペラティオニス)を越えたものの、レイは疲労と魔力切れにより高熱を発して倒れた。アシュレイは偶然見つけたマウキ村という小鬼族の村に助けを求めることに決めた。

マウキ村は絶望の荒野の外縁に位置する開拓村で、十数軒の民家と畑が広がる小さな村だった。辺境ということで決して豊かな土地には見えないが、小鬼族の農民たちは“遭難者”であるレイたちを暖かく迎えてくれた。

アシュレイは意識を失ったレイを背負い、獣人奴隷部隊の一人、ヌエベに先導され、治癒師のいる小屋に向かっていた。彼らと共に壮年の屈強な小鬼族の男が付き添っている。

彼は歩きながら、「ウルホだ」と名を告げる。

アシュレイが「アシュレイ・マーカットだ」と答えるが、「済まぬ。今はレイのことが……」と付け加える。

「分かっている。俺の妻が治癒師だ。すぐに家に着くから安心しろ」と笑みを浮かべる。その顔はゴブリンに似ており、狡猾そうな笑みに見えたが、思慮深い瞳が嫌悪感を抱かせない。

ウルホの言う通り、すぐに掘っ立て小屋のような小さな家に着いた。彼が先に家に入ると、中ではバタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。すぐにウルホが顔を出し、「準備はできている。すぐに入ってくれ」と中に入るよう促す。

ウノが罠を警戒するかのように先に入り、安全を確認し小さく頷く。アシュレイはその合図を受け、飛び込むように中に入っていった。

レイを降ろしながら、「凄い熱なのだ。助けて欲しい。頼む……」と中にいた小鬼族の女性に懇願する。

鬼人族の女性は男性ほど魔物に似ておらず、僅かに見える牙と額の突起がなければ、小柄な人間の女性と言われても違和感はない。その女性が柔らかな笑みを浮かべながら、「ギネです。私にできることはします。そこに寝かせてください」と言って、寝台を指差した。

アシュレイはすぐにレイを寝台に寝かせると、「もう少しだ。がんばれ」と彼の手を取って励ます。

その様子を見ながら、ギネは柔らかい笑みを浮かべ、

「あなたたちもお疲れでしょう。暖かいものでも飲んでゆっくりなさい」

その言葉が合図となったのか、奥から湯気の上がる鍋を持った二人の子供が現れ、素焼きの器にスープらしき液体を注いでいく。

ステラが「ありがとうございます」と頭を下げ、器を受け取ると、一口飲んだ後に「アシュレイ様もお休みください。レイ様のことは私が見ます」と言ってアシュレイに器を渡す。

小鬼族の子供たちはウノたちにも器を配っていくが、ウノは「私たちのことは気にしなくともよい」と言って固辞する。アシュレイが「ウノ殿たちも休んでくれ。この方たちは信頼に値すると思う」と言って器に口を付ける。

ウノはどうすべきか悩むが、ここで小鬼族の機嫌を損なうより、アシュレイの言葉に従う方が危険は少ないと判断し、器を受け取った。

その様子を見て、ウルホは彼らの関係について考えていた。

(先ほどの獣人(セイス)の話ではあの青年が主(あるじ)だという。あのステラという娘を含め、獣人たちの技量は恐ろしく高い……“絶望(デスペラティオニス)”を抜けてきたという話だが、彼らを見ねば与太話と笑い飛ばすところだが、ありうるかも知れぬな……それにしても、獣人たちはあの青年に心から信服しているように見える……アシュレイという娘に対しても恭しい。代々続く主従関係なのか? とりあえず、明日にでも事情を聞くしかあるまい……)

ウルホが見守る中、ギネが手を翳しながら呪文を唱え、治癒魔法を掛けていく。

「大いなる生命の源水の神(フォンス)よ。清浄なる精霊の力により、彼《か》の傷を癒したまえ。我は代償に命の力を捧げん。治癒の力(ヒール)」

レイの胸辺りに手を当て、精霊の力を注入していくと、三十秒ほどでギネの額に汗が浮き始める。

ゆっくりと手を離すと、アシュレイたちに向かい、「とりあえず、私にできることはここまでです」と告げる。

「助かるのだろうか。レイは……」とアシュレイが不安げな表情でギネに尋ねると、彼女は小さく頷き、「内臓が弱っている感じでした。恐らく疲労が原因でしょう。ですから、安静にしていれば回復すると思いますよ」と微笑んだ。

アシュレイは両膝をつき、ギネに取りすがって、「感謝します。本当に……ありがとう」と涙を浮かべながら感謝を伝えた。その隣では同じように涙を浮かべたステラが「ありがとうございました」と深々と頭を下げている。

ウノは小さく感謝の言葉を伝えるが、冷静にレイの様子を見ていた。

(呼吸は落ち着かれている。今のところ、罠の兆候はない……しかし、ここは敵地。アークライト様が回復なされるまで油断はできん……)

ウルホは彼らの様子を見ながら、「この男が目覚めるのは早くとも明日の朝だろう。狭いがここで休んでいけ」と声を掛ける。

アシュレイは「気遣いに感謝します。ステラ、ウノ殿、お言葉に甘えよう」と提案を受けた。

アシュレイとステラがレイの横で看病しながら眠り、ウノ、セイス、オチョ、ヌエベの四人が入口近くで壁を背に座る。この時、ウノは三人の部下に交代で不寝番をすることを密かに伝えていた。

時々、アシュレイが確認するが、レイは未だ目覚めこそしないものの、呼吸は落ち着いており、夜半過ぎにはあれほど高かった熱も下がっていた。

(とりあえず、峠は越えたようだ……)

アシュレイはレイの髪を撫でながら安堵の息を吐きだす。そして、この先のことを考え始めていた。

(レイの体調が回復するまではここで静養させたいところだ。だが、ここが安全なのか不安が残る……いくらウノ殿らが手練《てだれ》とはいえ、ここは敵地。相手は鬼人族なのだ。油断はできぬ……)

その夜は何事も起きず、まだ暗い時間にウルホが休んでいるアシュレイたちに声を掛けてきた。

「休んでいるところすまぬが、夜が明け次第、村の衆に君たちの事を伝えねばならん。事情を聞かせてもらうぞ」

アシュレイは頷きながら、ウルホという男を冷静に観察していた。

(小鬼族にしては粗野な感じはない。武人、いや、元武人といったところか……隙はないが、ウノ殿ほどではない。私でも負けぬ程度の腕だな……)

アシュレイは「昨夜は満足に礼を言うこともできなかった。改めて、礼を言わせていただく」と頭を下げる。ウルホはその言葉に「このような場所では助け合わねば生きていけぬ。当たり前のことをしたまでだ」とぶっきらぼうに言いながらも、「助かってよかったな」と付け加えた。

ウノはそのやり取りを見ながらも、冷静に周囲を探っていた。

(家の周りに気配はない……この男ならば脅威にはならんだろう。家が十数軒ということは戦えるものは二十名程度。この男が標準ならば、我らだけでも脱出は可能だろう。アークライト様が動ければという条件は付くが……)

間者として、そして暗殺者として生きてきた彼も、レイたちと出会ってから人らしい感情が芽生え始めていた。そのため、昨夜は常の冷静さを失っており、敵となりうるものの戦力を確認しきれていなかった。もちろん、出会った村人たちの技量や村の地形もある程度把握していたが、それでもこのような冒険に出たことに焦りを感じていた。しかし、冷静さを取り戻した今、不測の事態がなければ何とかなると分かり、ようやくいつもの余裕が戻った。

ウルホの尋問が始まろうとした時、寝台で横になっていたレイが小さくうめき声を上げた。

「レイ様!」というステラの声が部屋に響く。その直後、「おはよう、ステラ」というややしわがれたレイの声が聞こえてきた。

アシュレイはすぐに寝台の横に跪き、「レイ! よかった! 本当に……」と彼の胸に顔を埋める。レイは事情が掴めないまま、彼女の頭を撫でながら、「心配掛けたみたいだね」と優しく囁く。そして、ステラにも「心配掛けたけど、もう大丈夫だと思うから」と優しく微笑む。

アシュレイが落ち着くまで十秒ほど何も言わずに髪を撫で続けたが、見知らぬ家の中にいることについて、疑問を口にした。

「ここはどこ? 僕はどうして、ここに?」

その言葉にウルホが「ここは俺の家だ」と答え、「俺はウルホ。マウキ村の村長みたいなものだ」と言い、「あんたが死にそうだと聞いたからな。治癒師に見せたのだ」と簡潔に事情を説明する。

レイはゆっくりと身体を起こし、「ありがとうございました。レイと言います」と頭を下げた。そして、アシュレイに「どこまで事情を知っていますか? アッシュ、どこまで説明した?」と尋ねると、その問いにウノが「今から説明するところでした。セイスが我々が遭難者で助けを求めているということはお伝えしておりますが、それ以上は……」と答えた。

レイはウノに頷き、「では、私の方から説明させていただきます」と寝台から降りようとした。

「あんたは病人なんだ。もう少し寝ていろ。話がしたいなら、寝ながらでいい」

レイはウルホの申し出に小さく頭を下げると、再び寝台に横になった。

(どうしようか。正直に話すわけにもいかないし……僕たちはどう見てもアクィラの西側から来た人間だ。こっちの事情に詳しいわけでもないから、ヘタな嘘をつくとすぐにばれそうだ……見た感じは悪い人じゃ無さそうだ。それにこんな危険な場所にいるってことは、今の魔族の体制とうまくいっているわけでもないんだろう……ある程度、事実を隠しながら、ルナを助けに来たと言った方が説得力があるかもしれない……)

頭の中で話を整理していく。そして、ゆっくりとした口調で話し始めた。

「僕たちはアクィラの西から仲間を追ってきました……その仲間はソキウスの軍隊に捕まったのです……レリチェで情報を集めたら、都に連れていって何かの儀式の生贄にするということが分かって……それで先回りしようと絶望の荒野を横断したんです。でも、最後の最後で僕が病気になって……あとはご存知の通りです」

彼の話はルナが月の御子であるということと、月魔族の呪術師ヴァルマ・ニスカが関与したことが伏せられていること、情報をレリチェで入手したという点が真実と異なるが、ほぼ事実を告げていた。

その上で仲間を助けるために敵国であるソキウスに潜入し、更に危険な絶望の荒野を越えてきたと説明することで、相手の同情を買おうとしたのだ。

もし、この村が普通の鬼人族の村なら、敵国から潜入してきたというだけで捕らえられるはずだが、レイは辺境の、それも魔族が恐れ、忌み嫌う“絶望の荒野(デスペラティオニス)”に近い場所にわざわざ住んでいるのは、現政権に批判的な者たちが隠れているためではないかと考えた。ウルホの纏う雰囲気は厭世的なものであり、自分の直感を信じて同情を買うという賭けに出たのだ。

ウルホは「そうか……仲間を救い出すために……」と呟き、「それでも無茶なことをしたものだ。“荒野”の恐ろしさを知らぬからできたことなのだろう……」と首を横に振っていた。

レイはその様子を見て、賭けに勝ったと確信した。

ウルホが西から来たという事実に敵意を見せなかったこと、捕虜の奪還という国にとっては不利益になる話ですら、“仲間を救い出す”という言葉を使い、特に否定しなかったからだ。

「少しだけ休息させていただくことはできないだろうか」というアシュレイの言葉に、「村の衆の意見を聞かねばならんが、恐らく問題はなかろう。ここは世捨て人の集まりのようなものだからな」と頷いた。

ウルホが「いくつか確認させてくれ」と言って質問を始めた。

“荒野でどんな魔物と出会ったのか”とか、“仲間は何人失ったのか”などの話であり、レイは正直に答えていく。いくつかの質問を終えると、「本当に荒野を越えたんだな」と呟き、「村の衆との話が終わるまで、この家から出ないでくれるか」と言って、家から出て行った。代わりに妻のギネが現れ、「具合は良さそうね」とニコリと笑い、「念のために治癒魔法を掛ける?」と聞いてきた。

レイは「もう大丈夫です。ありがとうございました」と答えると、「それじゃ、食事の準備をするわ」と言って、奥に戻っていった。

その頃になると夜は明けており、戸や木窓の隙間から日の光が差し込み始める。

自分たちだけになったことを確認し、レイがアシュレイたちに自分が気を失ってからのことを確認していった。

その中でアシュレイが「お前の武具を荒野に放置してきた。済まぬ」と言って頭を下げる。レイは「仕方がないよ。それに誰も盗んでいかないだろうし」と明るい声でいい、更に小さな声で「その方が良かったと思う。僕の装備は目立つから。まさか、こんなところまで“白の魔術師”という名が知られているとは思わないけど、知られないに越したことはないから」と付け加えた。

アシュレイは彼の気遣いに胸の奥が暖かくなる。

麦の粥と根菜のスープという決して豪華ではないが、暖かい朝食をとった。久しぶりにまともな食事をとり、レイたちの顔にも明るさが戻っていく。

朝食をとり終えた後、ウルホが戻ってきた。

「認められた」と端的にいうと、「体調が戻るまでだ。もちろん、問題を起こせば、すぐに出て行ってもらうが」と厳しい表情で言った。

レイは「ありがとうございます」と頭を下げると、「もう一人、仲間がいます」と村の外で待つディエスのことを説明したが、ウルホは気を悪くすることなく、「一人増えても同じだ」と笑う。

レイの体調は回復するかに見えたが、その夜、再び熱を出した。ギネの見立てでは、体力が落ちていることと、魔力が完全に回復していないことが重なったのではないかということだった。彼女は明日一日は休養した方がよいと提案した。

アシュレイはすぐに明日休養することを決め、その間に彼女とレイの武具を回収するようウノに依頼する。

翌日になると、レイの体調は目に見えて回復していた。

レイはすぐにでも出発したかったが、いつになく強硬に反対するアシュレイに折れる形でしぶしぶ了承した。

マウキ村は貧しい開拓村だと思われたが、思いの外、豊かだった。

一つにはこの村には領主がいないこと、すなわち、税がないことが挙げられる。また、痩せていると思われた土地は充分に豊かで、近くを流れる川の豊富な水と相まって食糧事情は悪くない。

更にこの村の住民はすべて故郷を捨てた者たちであったが、いずれの村人も何らかの技能を持っており、自給自足を可能としていた。

もう一つ言えることは、ここは思った以上に安全だということだ。

魔族が忌み嫌う“絶望の荒野”の領域から僅か一km(キメル)しか離れていないのだが、これが逆に安全をもたらしている。一つには魔族はこの場所に近づきたがらないため、レイたちのような者以外、不意に人が訪れることはない。また、ここに流れ着くものは基本的には自らの命を絶つために荒野を目指している者であるため、彼らが戻らなければ、死んだと思われるだけで追手が来ることがない。更に荒野が近いことから、通常の魔物は荒野を恐れているのか、この辺りには出没せず、逆に荒野の魔物は領域の境界を越えることがない。念のため、柵が作られているが、外から守るというより、中にいる家畜が逃げ出さないようにするためらしい。

レイは村の中を歩く許可を得て、ぶらぶらと歩きながら考えに耽っていた。

(この村の人たちは小鬼族だけど、いい人ばかりだ。ウルホさんも見た目は怖いけど、優しいし、僕たちに対しても人種による差別なんかもないし、皆親切だ。こんな人たちばかりなら、戦争なんて起きないのに……こういう人たちだから、街から逃げてきたのかもしれないけど……ここはソキウスの理想を体現するための場所っていう気がする……)

魔族の国ソキウスの理想とは、“すべての種族が平等に幸福になる機会を得る”ことであり、王は存在せず、政策は種族の代表者による合議で決まる。しかし、現状では鬼人族の一部と月魔族が対立しながら政治を行っており、建国の理想は失われていた。

そして、これからのことを考え始めた。

(地図を見る限り、ここから東に五十km(キメル)くらい進めば、鬼人族の都ザレシェと妖魔族の都ルーベルナの間に出られる。そこから街道を北に向かって行きながら、ルナ(月宮さん)の情報を探っていくしかない……レリチェ村からザレシェまでは三百五十km(キメル)。月宮さんが出発してから半月くらいだから、ザレシェに着いていてもおかしくはない……何とかギリギリ間に合うって感じかな……)

体調が回復したレイたちは二月八日の早朝、東に向けて再び出発した。