Trinitas Mundus - The Story of Saint Knight Ray
Episode 66: To Zalesche
トリア歴三〇二六年三月四日。
ルーベルナの南、ロウニ峠にある自然にできた広場では、数百人の鬼人族がレイたちを取り囲み、月の御子がザレシェに帰還してくれることに喜びを露わにしていた。
レイと大鬼族のタルヴォ・クロンヴァールとの戦いを間近に見たことも高揚している要因の一つだ。
基本的に鬼人族は単純であり、更に強い者が正義という考え方が強い。
当初はレイが卑劣な罠を仕掛けてソキウスの西方派遣軍を全滅させたと思っていたが、最強の戦士と言われているタルヴォを一騎打ちで破り、その強さを証明した。
更に彼らの崇拝する月の御子ルナのことを一番に考えろと言い切ったことで、直情的な鬼人族戦士の尊敬を勝ち取った。
ルナはこの展開に戸惑いを隠せなかった。
彼女はこの騒動では蚊帳の外であり、タルヴォとレイが戦ったことの意味もよく分かっていなかった。
(この展開はどういうことなのかしら? 体育会系のノリなの? 強敵と戦って和解するって、読んだことはないけど、少年コミック的な何かなのかしら……)
それでも彼が自分のために戦い、更にアシュレイも自分が孤独であることに理解を示してくれたことがうれしかった。
(聖《ひじり》君は分かってくれていた。アシュレイさんも……私が何に怯えていたのかを……私はこれから強く生きていく。私自身が努力して、聖君みたいに信頼できる人を見つけるわ……)
鬼人族の興奮冷めやらぬ中、ステラは警戒を続けていた。
すべての鬼人族がレイに対して害意を失ったとは思えず、また、当初は殺気が感じられなかったタルヴォが豹変したことから、いつ状況が変わるか分からないと警戒していたのだ。
(鬼人族は雰囲気に流されやすい。ルナさんが説得すれば大丈夫かもしれないけど、気が短い中鬼族が何をするか分からない。それにあのイェスペリという大鬼族の戦士は西側に攻め込んだ一人。タルヴォという人がレイ様を認めたからといって、報復してこないとも限らないわ……)
彼女は独断で獣人奴隷部隊のウノたちに指示を出していた。
その内容は鬼人族の中に不満を持っている者がいないか確認することで、ウノ以外の四人に鬼人族が襲撃を企てようとしている者がいないか探らせている。
ステラは騒ぎが続くことで警戒が難しくなると思い、レイに提案を行った。
「ルナさんは疲れていると思います。だから、もうそろそろ休んだほうがいいのではないでしょうか」
「そうだね。僕も疲れている気がするし、タルヴォ殿に話してみるよ」
レイはタルヴォとすっかり打ち解けており、すぐにその話を持っていった。
「ルナが疲れていると思います。それに皆さんも明日の出発に向けて、そろそろ休んだ方がよいのではないでしょうか」
タルヴォは「うむ。確かに」と言って立ち上がった。
「御子様がお疲れのようだ。皆の者、部族ごとに警備を立てて休んでくれ」
それだけいうとルナに向かって深く頭を下げ、
「もっと早く気づくべきところ、申し訳ございません。では、警備は我らが行いますゆえ、ゆっくりとお休みください」
そう言って自らの部族に指示を出しにいった。
ルナは張っていた気が緩み、突然疲れを感じた。
「結構疲れているみたい。馬車で休ませてもらうわ。おやすみなさい」
そう言ってイーリスとイオネを伴って馬車に向かった。
鬼人族たちは広場を取り巻くように野営の準備をするが、準備といっても焚き火を起こす程度で毛布すら持っていない。それほどまでに荷物を減らして行軍していたのだ。
レイは馬車の近くで毛布に包まり、空を見ていた。
鬼人族との邂逅《かいこう》がうまくいき、その先のことを考えていた。
(これで西に戻れるのかな? 僕たちがこっちに来てから一ヶ月半になる。マーカット傭兵団(レッドアームズ)はもうトーア砦にいないんだろうな。そう言えばトラベラーはどうしているんだろう。砦の狭い厩舎で寂しがっているんだろうな……)
ふと思い浮かんだのは愛馬トラベラーのことだった。
(ライアンはどうしているんだろう。レッドアームズと一緒にペリクリトルに戻ったのかな。それともトーア砦に居座っているのかな。誰かは残っていてくれると思うけど……)
彼の横ではアシュレイが横になっていた。彼女も急な展開に未だに寝付けないでいた。
(とりあえずうまくいった。ザレシェに戻った後、どうやってトーアに戻るかだが、できるだけ早く帰った方がいい。それにここソキウスの現状をどう伝えたらいいのか……)
彼女はレイと違い、先のことを真面目に考えていた。
(レイとルナの絆は強い。だが、それは同胞としてのものだ。それが分かっただけでも今回の騒動には意味があった……)
二人は何も言わずに手を握り合う。そして、そのまま眠りに落ちていった。
ステラはそんな二人を見ながら、焚き火の番をしていた。ウノが代わると言ってきたが、「眠れそうにありませんから」と言って断っている。
彼女も明日からのことを考えていた。
(鬼人族を信用しすぎないようにしないといけないわ。それが私の役目……あとはルナさんにも警戒した方がよさそうね。あの人は不安定すぎる。少しのことで動揺するから、あの方に迷惑を掛けてばかり……)
彼女はルナに同情しているものの、積極的に関与しないことに決めた。それはルナという人物を冷静に見られる者が必要だと考えたからだ。
(いつ虚無神《ヴァニタス》が現れるか分からない。でも、現れるとしたら彼女のところであることは間違いないわ。レイ様もアシュレイ様もルナさんには少し甘い気がする。私がしっかりと見張っていないと……)
その決意を固めると、周囲の警戒に意識を集中していく。
翌朝、日が高く昇った頃にレイは目覚めた。峠の気温は思いのほか低く、寒さに震えながら起き上がる。既にアシュレイとステラは起きており、朝食の準備を始めていた。
「僕が一番遅かったみたいだね」と言って焚き火にあたる。
「いや、ルナたちはまだ起きていない。もう少し寝ていられるが」
アシュレイにそう言われるものの、二度寝をする気分でもなく、顔を洗いに谷に下りていく。その後ろをステラが追いかけてきた。
既に身支度は終わっており、疑問に思ったが、湯を沸かすために水を汲みにいくところだったと伝えられる。
谷に降りていく途中、オーガやオークの姿を見かけ、レイは思わず身構えそうになる。
「反射的に構えちゃうよ」と笑うが、ステラは「そうですね」と答えるだけで警戒を続けていた。
「鬼人族がいるから大丈夫だよ」
「いいえ。鬼人族がいるから警戒しているのです。野生のオークなら近寄る前に処分できますけど、鬼人族の眷属を勝手に殺せませんから」
レイはステラの過剰な警戒に疑問を感じるものの、自分を守るためだと気づき、それ以上何も言わなかった。
朝食を摂った後、ヴァルマ・ニスカと翼魔族の呪術師が舞い降りてきた。彼女たちはイーリスを迎えに来たのだ。
イーリスは鬼人族たちに対し、
「御子様のことをお願いします。半月ほど経った頃に闇の神殿に神官を派遣しますので、何かあれば連絡を」
そしてレイの前に立つと、大きく頭を下げる。
「御子様のことを頼みます。あなたなら大丈夫だと思いますが、敵は何をしてくるか分かりません。油断なさらないようお願いします」
レイが「任せてください」と答えると、最後にルナの前に立つ。そのままルナの両手を取るとその場で跪く。
「御子様は我ら魔族の希望なのです。何卒、ご自愛を……」
そこで感極まったように涙を零す。
「分かっています。皆さんの期待を裏切らないように努力します。だから、安心してください」
ルナは笑顔でそう言い切った。
その答えに満足したのか、イーリスは涙を拭くと、ヴァルマたちを従えて空に舞い上がる。
イーリスたちが見えなくなったところで、タルヴォが号令をかける。
「打合せ通りに小鬼族が先導し、中鬼族が御子様の馬車を守る。殿は我ら大鬼族だ! 出発!」
ルナとイオネ、そしてレイとアシュレイが馬車に乗り込む。
ステラとウノが御者になり、セイスたち四人が馬車の周囲を固めている。
その前後には中鬼族のバインドラー家とブドスコ家の精鋭が配置されていた。これはタルヴォが中鬼族に配慮した結果だが、ステラはこの状況を苦々しく思っていた。
(大鬼族なら少しは信用できたのだけど、一番信用できない中鬼族が近くに来るなんて……オークを遠ざけることができたことだけはよかったけど……)
ステラはタルヴォと中鬼族の責任者であるエルノ・バインドラーに対し、ルナがオークを嫌っていることから遠ざけるように依頼していた。
実際、ルナはオークを嫌っていたため、その願いはすぐに認められた。
眷族であるオークは死を厭わぬ攻撃を掛けてくるため、ウノたちとの相性はあまりよくない。ペリクリトル攻防戦の最後でも、ウノの部下はゴブリンの壁に阻まれ命を落としている。
(オークを無茶苦茶にぶつけてこられたら対処のしようがないわ。これはレイ様でも同じ。でも、中鬼族なら何とかできる。少なくともレイ様とアシュレイ様を脱出させる時間を稼ぐことはできるわ)
ステラとウノは交互に御者を代わりながら、周囲を警戒していたが、中鬼族たちが行動を起こす兆候は見られなかった。
何事もなく、街道を南下していく。
翌日には鬼人族の本隊と合流し、再び静かな森に歓喜の声が響いた。しかし、本隊の隊列は数十km(キメル)にも及び、ルナが乗る馬車は遅々として進まない。一応、身軽な小鬼族が先触れを行っているのだが、ルナの姿を一目みたいと鬼人族たちが街道の脇を固めていたため、通常通り動けなかったのだ。
それでも十三日後の三月十七日に無事、鬼人族の都ザレシェに到着した。
街に入ると月の御子帰還を心待ちにしていた市民たちの熱烈な歓迎を受ける。
人々は口々に「御子様!」と声を掛け、ルナは馬車の窓から手を振ってそれに応えていた。
市民たちの歓迎を受けながら、馬車はザレシェの政治の中枢である大政庁に到着した。そこには遠征に加わっていた者を含め、二十五の氏族の長たちが並び、月の御子を出迎えている。
門の前で馬車が止まり、ルナが姿を現すと、族長を含め、すべての鬼人族が一斉に跪く。
そして、族長会議の長、タルヴォが代表して歓迎の言葉を述べた。
「我ら鬼人族はこの日を待ち望んでおりました。御子様におかれましてはここを居城とされ、我らに神の恩寵を与えてくださらんことを!」
族長たちは一斉に平伏する。
ルナは西側に戻るつもりでいるため、どう答えていいのか一瞬迷ったが、すぐに笑みを浮かべてそれに答えた。
「皆さんのお心遣い、ありがたく思います。私には立派過ぎますが、ありがたく使わせていただきます」
鬼人族たちはその言葉にルナがザレシェに残ると感涙する。
ルナが先頭に立ち、その後ろにレイたちが続いていく。
事前にレイが“白の魔術師”であると伝えられているため、混乱はないが、ルナの言葉を聞いていない者たちから、強い敵意が篭った視線が送られていた。
通された部屋に入ると、レイはフゥと息を吐き出した。
「あまり居心地がいいとは言えないね」とレイが苦笑気味にそう言うと、アシュレイが真剣な表情でそれをたしなめる。
「お前は鬼人族の宿敵、“白の魔術師”なのだ。そして、ここは鬼人族の王城とも言える場所。敵意を感じない方がおかしい」
「そうだね。敵のド真ん中といってもおかしくないんだ。今回の道中でタルヴォ殿たちと打ち解けられたから、忘れていたよ」
十日以上も鬼人族の戦士たちと行動したことから、先遣隊のメンバーとはほとんどわだかまりを感じることなく打ち解けられている。特にタルヴォと小鬼族のソルム・ソメルヨキ、中鬼族のヨンニ・ブドスコとは充分な信頼関係が築けていた。
そのため、自分が鬼人族の西方派遣軍を全滅させたという事実を忘れそうになっていたが、ザレシェに入ってあからさまに敵意を向けられたことで、三ヶ月前に殺し合っていた相手だと思い知らされる。
「油断はしないつもりだけど、あまり過剰に反応しないようにしないと。その辺りはタルヴォ殿たちにうまく取り計らってもらわないといけないんだけどね」
その話にルナが加わってきた。
「あなたに指一本触れさせないわ。これは“月の御子”である私が約束する」
ルナはこの旅の間に大きく変わっていた。
ヴァニタスの影響も抜け、明るさが戻り、更に鬼人族たちに対しても以前のように利用しようとするのではなく、真摯に向き合うようになっていた。
そして、何より自信が付いたことが大きかった。
レイやアシュレイの意見を聞きながら、タルヴォたちに指示を出すようになり、鬼人族とうまく付き合えるようになったことから、指導者としての自信が付いてきたのだ。
「それより今後のことはどうするの? 計画通りでいいのかしら」
この十二日間、馬車に揺られるだけですることがなく、多くのことを話し合っていた。その中でも一番の話題は今後のことで、ザレシェから西に向かう計画もほぼ決まっている。
「そうだね。今のところ変更する必要は無いと思う。アッシュ、ステラ。何か意見は?」
二人に意見を求めるが、特に意見は出なかった。