三月十六日の朝。

安全だと思われた飛行中の翼魔族の呪術師が襲われた。その原因を探ろうとしていた時、“不可視の(インヴィジブル)殺戮者(マーダー)”と呼ばれる液体金属でできた魔物の襲撃も受けている。

翼魔族の呪術師たちは窒息に似た症状で一瞬にして五人が命を落とし、不可視の殺戮者の襲撃では中鬼族戦士が一人犠牲となった。

不可視の殺戮者はレイの魔法とセオフィラスらの攻撃で倒し、翼魔族を襲った罠は巧妙に設置された魔法陣によるものだということがヴァルマ・ニスカの調査で判明している。

その魔法陣は巨大な岩に描かれていたが、自然にできた模様のように見え、一見するだけでは魔法陣と判別できなかった。

「このような魔法陣は闇の大神殿の書庫でも見たことがございません」

その報告を聞いたレイもその巧妙さに驚くが、すぐに頭を切り替える。

「その魔法陣はまだ作動しているんでしょうか?」

「今は起動していないようなのですが、初めて見る紋様で魔晶石があるのかすらはっきりしません。私に言えることは風属性を用いた魔法を作り出すというだけなのです……」

ヴァルマは転移魔法の魔法陣を自力で描けるほどの呪術師で、月魔族の中でも一、二を争う専門家だ。しかし、その彼女ですら見たことがなく、起動原理すら分からないと報告する。

仮に学術都市(ドクトゥス)の一流の研究者が見たとしても、その特殊な魔法陣を解読することはできなかっただろう。

この罠だが、ヴァルマの言う通り風属性魔法を利用したものだった。

空中にランダムに空気の密度を変えることができるもので、ウノの報告にあった“雲が歪んで見えた”は密度の差により屈折率が他と異なったため起きた現象だ。

レイは「そうですか……」と答えながら考えをまとめていく。

「草原の民に合流するよう連絡を」と獣人の伝令に命じると、

「行軍を再開します! 但し、今まで以上に慎重に進んでください!」

「このまま進むのか?」とアシュレイが確認する。

「危険な罠だけど、それを恐れて偵察を控えたらもっと酷いことになる」と言うと、

獣人や翼魔族に対し、更に注意を促した。

「斥候の皆さんは光の屈折にも注意をお願いします。この先、似たような罠がないとも限りません。他にも気づいたことがあれば、どんな些細なことでも報告をお願いします」

レイは六名もの命が一瞬にして失われたことに内心では大きく悔やんでいた。

しかし、ここで落ち込んでいては全体の士気に関わると考え、自分の感情を押し殺したのだ。

そのことに気づいたステラは言葉を掛けようとしたが、

(レイ様はご自身の感情を抑えようとされている。私がここで慰めの言葉を掛けたら、感情が噴き出してしまって逆効果になるかもしれない。どうしたらいいのかしら……)

隣を歩くアシュレイはステラの肩に手を置き、「今は見守るしかない」と他の者には聞こえないほどの小声で呟く。

その言葉にステラも小さく頷いた。

討伐隊は “絶望の荒野(デスペラティオニス)”を再び進み始めた。

斥候隊が慎重に行動するようになったため、移動速度は前日より落ち、一時間に二km(キメル)ほどしか進めない。更に斥候隊が過度の緊張を強いられるため消耗が激しく、何度も交代を余儀なくされたことも速度が落ちた原因だ。

速度こそ落ちたものの、レイの指示通りに僅かな違和感でも報告がなされたため、危険な罠を事前に察知し、被害を最小限に抑えている。それでも犠牲はゼロではなかった。

昼食を兼ねて長めの休憩を摂っている時、それは突然起きた。

周囲だけでなく地面も警戒していたが、その地面が突然割れ、イソギンチャクのような触手を生やした巨大な魔物が襲い掛かってきたのだ。

触手を生やした魔物(ローパー)は高さ約七m(メルト)、幹部分は直径三メルト近くあり、最も近いマーカット傭兵団三番隊の傭兵に十五メルトほどある触手を向けた。

地面に腰を下ろして休憩していた隊長のラザレス・ダウェルは突然の襲撃に驚くが、即座に命令を発した。

「一旦離れろ! 奴の触手に注意しろ! 毒があるかもしれんからな!」

冒険者としての経験もあるラザレスは触手系の魔物(ローパー)と戦ったことがある。その経験から毒を持つことが多いことを知っており、警告を発したのだ。

一時的な混乱は起きたものの、精鋭揃いのレッドアームズは見慣れない魔物に対してもすぐに冷静さを取り戻す。

ラザレスの命令を受けて距離を取ろうと素早く後退し、弓術士は岩の上に素早く上ると矢を放って牽制し、撤退を援護する。

その間に月の巫女イーリス・ノルティア率いる呪術師たちが攻撃を開始した。多くの呪術師が慌てて火属性を選択しようとしたが、イーリスがそれを止める。

「落ち着きなさい! 伝承ではこのローパーに火属性の魔法は効かなかったはずです! 風属性で触手を切り落とすことに専念しなさい」

そう言いながら自らも呪文を唱えていく。

「魔法で弱ったら一気に片を付けるぞ! ゼンガ! 二番隊の出番だ!」とハミッシュが二番隊の隊長ゼンガ・オルミガに命じる。

「了解だぁ! おらぁに続け!」と応える。いつもの少し間延びする独特の訛りが二番隊の傭兵たちの緊張を解していった。

イーリスたちの攻撃で触手がすべて切り落とされると、ハミッシュは「俺に続け!」と叫びながら、ローパーに突撃する。

触手を切り落とされたローパーは地面に逃げ込もうとしたが、ハミッシュの“闘気”を纏った強烈な斬撃を受け、動きを止める。

更にゼンガの巨大な斧槍(ハルバード)が幹部分を抉り、長柄武器(ポールウェポン)を主体とする二番隊の傭兵が次々と襲い掛かっていく。

ローパーは成すすべもなく樹液のような液体を撒き散らしながら完全に動きを止めた。

その戦いに決着が付き、多くの者が安堵する。

決して油断したわけではないが、その僅かな隙を突いて煙のような気体状の魔物が静かに足元から湧き出していた。

二番隊の隊員がその気体状の魔物に触れた瞬間、生命力を吸われ膝を突く。しかし、何が起きたのか理解できない。

最初に気づいたのは獣人のセイスだった。

「足元に注意してください! 霧状の魔物が出てきます!」

以前に見たことがあったため、すぐに警告を発し、ドワーフの名工が鍛えた水属性の魔法剣で即座に氷を飛ばす。精霊の力を纏った氷は霧状の魔物に大きな穴を開け、動きが鈍る。

「ミスリルの武器か、魔法でしか倒せません! 普通の武器しか持たない人は下がってください!」とレイが命令を出す。

イーリスたちが再び魔法で攻撃を開始し、魔物は完全に消滅した。

しかし、膝を突いて崩れ落ちた傭兵は完全に生命力を奪われたのか、虚ろな目をして虚空を見つめていた。

その後も罠や襲撃により、鬼人族二名、獣人部隊二名、翼魔族一名が命を落とした。それでも何とか二十キメルほど進み、二日目の夜を迎えようとしていた。

レイは野営の準備を命じると、隊長クラスを招集し、今後のことを協議する。

最初に発言したのはイーリスだった。

「想像以上に恐ろしい場所です……お恥ずかしい話、我ら呪術師隊は大きく士気を下げております」

その言葉にタルヴォ・クロンヴァールも大きく頷く。

「鬼人族も同様です。精鋭を集めたつもりでしたが、“絶望の荒野(デスペラティオニス)”という名に怯えております……」

妖魔族と鬼人族は二千年前にアクィラ山脈の西の土地を追われ、この地にやってきた。その際にこの荒野に入り込み、多くの仲間を失っている。その伝承が脈々と継がれ、彼らの心にその時の恐怖が刻み込まれている。

また、無謀な若者が絶望の荒野を侮り、何度も挑んだが、結局誰一人生きて横断できた者はおらず、その事実も魔族の国ソキウスに住む者に認識を新たにさせていた。

「それを言ったら、俺たちも大して変わらん。隊長クラスはともかく、兵たちはいつ魔物が出てくるのかと怯えている。こう言っては何だが、平常心を保っているのはウノ殿の獣人部隊とセオたちだけだろうな」

ハミッシュの言葉に多くの者が頷いている。

ウノたち獣人部隊は元々死を恐れておらず、罠や魔物の襲撃にも冷静に対処し続けていた。その姿はまさに戦闘機械のようで、彼らの正体を知るハミッシュは改めてその恐ろしさを実感していた。

セオフィラスらロックハート家の者たちだが、ハミッシュが言うようにいつもと同じように行動していた。食事の準備を終えると、五人はいつも通り厳しい鍛錬を行っていた。

その彼らとて恐怖を感じていないわけではない。

そのことをハミッシュに問われ、セラフィーヌはいつも通りの笑顔で答えていく。

「……おじい様や父上から“戦場では怖いと思っても笑っていろ”と教えられているんです。ロックハート家の者が怯えていたら、自警団員はもっと怯えるからって。だから、私たちはどんなに怖いと思っても我慢するんですよ……」

更にセオフィラスも同じようなことを答えていた。

「……僕たちはロッド兄様やザック兄様を見ていますからね。兄たちが戦う時に怯えた表情を見せたことは一度もなかったと思います。その兄たちに恥ずかしくない振る舞いをしようと心がけているんです」

と言った後、何かを思い出したのか、クスリと笑い、

「それにザック兄様はこんなことを教えてくれたんです。“敵が怖いと思ったらドワーフを思い出せ”って」

「それはどういう意味なんだ?」とハミッシュが聞く。

「ドワーフは仲間や友を守るためなら、どんな敵にも恐れずに戦うんです。例えそれが大国であっても。恐らく、相手が神でも怯まないでしょう……アルスのドワーフはロックハート家を守るために三百キメルもの距離を走って助けに来てくれました。そこに打算も何もなく、ただ守りたいという一心から……つまり一番大事なことは大切なものを守るということを忘れないこと。それを思い出すにはドワーフを思い出すのが一番だということです」

「なるほど。確かに彼らなら打算も何もなく、戦い抜くだろうな」

「そういうことです。死ぬことは怖いですが、仲間を失う方がもっと恐ろしいです。そうならないようにするには無理をしてでも恐怖に打ち勝たないといけないんですよ」

その話を聞いたタルヴォは自らを省みて、

「セオフィラス殿の言う通りだな。ルナ様を守ることを第一に考えれば、恐怖など感じぬはずだ」

タルヴォの言葉にイーリスも同意する。

「おっしゃる通りです。私たちはルナ様を守るため、そして世界を守るためにここにいるのです。そのことを心に刻んでおけば、打ち勝てない恐怖などありません」

二人の言葉にセオが注意を促す。

「無謀と勇猛は違うとも教えられていますよ。大切なのは冷静さを失わないこと。守るために逆上してしまっては意味がないんですから」

タルヴォとイーリスは大きく頷いた。

レイはそこで「話を戻しますが」と仕切り直す。

「二日で五十キメルほど進みました。距離自体は想定より順調と言えますが、今日一日で十二名もの犠牲を出しています。この先どう進むかについてご意見があればお願いします」

そこでアシュレイが手を上げて発言する。

「犠牲は最初から分かっていたことだ。半数を失ったというなら別だが、この程度で怯むのであれば、そもそも虚無神(ヴァニタス)に挑むことなどできんと思うが」

レイはその意見に反論する。

「そうは言ってもこれから先、もっと厳しくなるんだ。特に斥候隊の犠牲が大きすぎるよ。このまま何も対策を立てずに進むのは危険すぎると思う」

「俺はアッシュの意見に賛成だ」とハミッシュが発言し、

「少なくともあと五十キメルは進まねばならんのだ。翼魔族と獣人族の斥候が上手く機能しているからこの程度で済んでいる。もし、斥候隊を縮小するなら犠牲は更に大きくなると思っておいた方がいい」

「斥候隊と精鋭だけで前進して、安全を確保した後に本隊が進むというのはどうでしょうか? 本隊の休憩中に何度も襲われていますし、危険な場所では守る範囲を限定できる方がいいと思うのですが」

レイは人数が多すぎて守り切れないのではないかと考えていた。これは彼の目が届かない場所で何人も命を落としていることから、今のような大規模な部隊で移動することがいいことか迷っていたのだ。

それに対し、ハミッシュはきっぱりと否定する。

「罠はともかく、襲ってくる魔物に対しては戦力が多い方がいい。それに先発隊が通ったところが安全だと言い切れるのか? この二日しか見ていないが、ここの魔物の襲撃にはパターンらしきものがない。こういう時は戦力を分散しない方がいい」

ハミッシュの言葉にレイは「そうですね」と答えるが、まだ迷いが見えた。

その姿にハミッシュはレイが自信を失い始めていると確信する。

(いつもの奴ならこの程度のことは理解しているはずだ。恐らく指揮を執って初めて部下が命を落としたことで自信を失ったのだろう。俺が口を出してもいいが、それでは奴の成長を妨げる。ここはフォローに徹して様子を見るべきだろう……)

ハミッシュが考えていた通り、レイは自信を失いかけていた。そのことをアシュレイとステラも気づいていたが、有効な助言ができずにいる。

「提案があります」とルナが発言する。

その場にいる全員が彼女に視線を向けた。ルナはこういう場では積極的に発言してこなかったため、レイは驚きの表情を浮かべている。

「幸いここは安全なようです。この場所に簡易の拠点を作って、魔物や罠に対する対策を考えてから行動してはどうでしょうか」

「それはこの周囲を探りながら罠や魔物への対処方法を確立するということでいいのかな」

「ええ、その通りよ。土属性魔法を使える人が十人以上いるわ。地面を魔法で固めて地下からの奇襲を防ぎつつ、少数で周囲を探るの。あなたも十人くらいのパーティなら目が行き届くから何かあっても対処できるでしょ。いろいろな人に経験を積んでもらって、この先で不測の事態が起きても慌てないようにするのよ」

ルナの提案は主要なメンバーにこの危険な“絶望の荒野(デスペラティオニス)”での経験を積ませ、この場所が克服できないほどの危険ではないと認識させることを目的としていた。

「確かにそれは有効かもしれないな」とアシュレイが賛同する。

「特に期限があるわけではないのですから、この後の行動も楽になると思います」

セオフィラスもルナの意見に賛成する。

「確かに期限はないですが……」とレイは言いかけるが、

「ちょうど半分くらいの距離だし、この場で訓練をするというのはいい考えかもしれない……明日は拠点作りをして、明後日から周囲の偵察を兼ねた訓練を行いたいと思います。それでいいですね」

まだ完全に自信を取り戻したとは言い難いが、それでも無理をして進まないことに決まったことで、レイは内心で安堵していた。