Trinitas Mundus
Lesson 42: Disturbance
ルーベルナの南にあるロウニ峠にある渓谷。
月魔族の呪術師ヴァルマ・ニスカは岩棚に潜む月の巫女イーリス・ノルティアの下に向かっていた。
敬愛するイーリスと月の御子であるルナを守るため瀕死の重傷を負ったが、イーリスを説得して欲しいというレイによって治癒魔法を掛けられ、ほぼ回復していた。ただ、出血多量による体力の低下と、魔法の行使による魔力の低下は回復しきっておらず、僅か数十m(メルト)の飛行ですら歯を食い縛る必要があった。
イーリスたちはレイの魔法を恐れ渓谷の岩棚に身を隠しており、レイたちの監視をすることすらままならず、ヴァルマが助けられたことに気付いていなかった。そこにヴァルマがひらりと舞い降りる。
「無事だったの」というイーリスの声に不信の響きがあった。ヴァルマが瀕死の重傷を負ったことは自らの目で確認しており、敵の手を借りずに回復できるとは思えなかったからだ。
「ただいま戻りました」といい、すぐに片膝を突く。
「どうやってあの傷を治したのかしら?」とイーリスは冷ややかな目で見つめる。その後ろでは翼魔族のキーラ・ライヴィオがすぐに攻撃に移れるよう準備をしていた。
「白の魔術師が治癒魔法を掛けてくれました。あの男は軍師としてだけでなく、治癒師としても優秀なようです」
軽口のような内容だが、至って真面目な口調で報告する。
この状況で敵に寝返ったことは確実であり、イーリスは「裏切ったのね?」と確認するでもなく呟いた。
「いいえ、裏切ってはいません。私は祖国ソキウスのために最善だと思えることをしようと思っているだけです」
「白の魔術師に私を殺してこいとでも言われたの? 侮られたものね。一対一なら、あなた程度の呪術師に後れを取ることはないわよ」
そう言って不敵に笑うが、心の中は別だった。
(確かに一対一なら勝てるし、ここにはキーラたちもいるわ。でもあの白の魔術師が何の策もなく送り込むわけはない。何を狙っているの、あいつは……)
イーリスの疑念にヴァルマは冷静に答えていく。
「白の魔術師から交渉を持ちかけられました。儀式の延期を、御子様がご納得されるまで延期してほしいという申し出です」
「延期? 何を言っているの?」と嘲笑するが、すぐに猫撫で声になり、
「白の魔術師を油断させるための策ね! 自分が裏切ったように見せておいて、白の魔術師を油断させようとした。そうでしょ?」
イーリスの言葉に即座に「いいえ」と否定する。
「白の魔術師は懸念しておりました。今回の儀式にはおかしな点があると」
「それはどういう意味かしら? 私が間違っているとでも言いたいの!」と怒りをぶつけるが、ヴァルマは冷静に反論する。
「闇の神(ノクティス)は安寧をもたらす神。その神が何ゆえ復讐のための戦争を主導されるのでしょうか? 何ゆえソキウスの理想を踏みにじる行為をお認めになるのでしょうか?」
イーリスは「巫女である私の言葉に逆らうの!」と金切り声を上げるが、ヴァルマはその目を見つめたまま微動だにしなかった。
「あなたや白の魔術師に神の何が分かるというの! 神々には人には分からないお考えがあるわ。私たちはそれを信じて行いを成すだけ。そんなことも分からなくなったの?」
「その神は真《まこと》の神でしょうか? ノクティスであるならば、同じ眷属たる鬼人族を騙し、傷つけ、奪うようなことはおっしゃられないはず。既にこの地に混乱が起きております。それは神が望んだことなのでしょうか」
キーラたち翼魔族の呪術師もヴァルマの言葉に聞き入っていた。
「話を戻しますが、御子様のご意思を無視してまで神降ろしの儀式を行うのはなぜなのでしょうか? 神降ろしは非常に高度な術です。受け入れる気持ちのない御子様に儀式を施せば大きな災いが起きるのではないのでしょうか」
イーリスはその言葉に激昂する。
「栄えある月魔族の呪術師ヴァルマ・ニスカともあろう者が、白の魔術師に洗脳されたとは! キーラ、この裏切り者を殺しなさい! 敵に寝返った者を御子様の傍に置くわけにはいかないわ!」
命じられたキーラは珍しく迷っていた。ヴァルマの言葉に頷くところが多く、イーリスに不信感を抱き始めていたのだ。しかし、上位者に盲目に従うことに慣れた彼女は反射的にイーリスの命令に従おうとし、闇の槍の魔法の呪文を唱えていく。
ヴァルマはキーラが呪文を唱え始めても全く動じず、
「私を殺して御子様をお守りできるというのなら撃ちなさい」と言い放つ。その言葉と強い意志にキーラは呪文を唱え続けることができなかった。
イーリスは自らの権威が揺らいでいることに目眩を感じた。
(私の言葉に絶対に服従していたキーラですら疑問を持ち始めている。これは悪い兆候だわ……ヴァルマを排除するだけでは解決しない。私が正しいことを証明しなければ……)
イーリスは不敵な笑みを浮かべながら、麻痺の魔法の呪文を唱えていく。そして、無抵抗のヴァルマに向けて魔法を放った。ヴァルマは魔法の直撃を受けその場に崩れ落ちた。
魔法に対する耐性が高いことが幸いし、ヴァルマは意識を失わなかったが、それでも身体は麻痺し呻き声すら発することができない。
イーリスはその姿に満足し、
「殺さないわ。あなたが白の魔術師に騙されたということをその目で見ておきなさい」と言い放つと、キーラたち翼魔族の呪術師に顔を向ける。
その顔は狂気に歪んでおり、キーラたちはイーリスを恐れた。
「この場で神降ろしの儀式を行います」
逆上したイーリスはノクティスの降臨の儀式を行うと宣言した。
言葉を発することができないヴァルマは必死に目で止めるように訴える。キーラも高度な術であり、大神殿の魔法陣と数十人の神官たちによって執り行われる神降ろしを僅か七名で行うことに反対を訴えた。
「危険です。儀式は大神殿でなければ行えません」
「あなたたちは闇の精霊の力を集め、御子様に送り込みなさい」
イーリスはキーラの言葉を聞いていないかのように命令する。
キーラは「この場では危険です。御子様のお命が……」と縋りついて訴える。イーリスは「あなたも私に逆らうのね」と言って護身用の短剣をキーラの胸に突き刺した。キーラは信じられないという表情を浮かべながらヴァルマの横に倒れこんでいく。
残りの翼魔族は狂気に染まったイーリスを怯えた目で見ていたが、「早く闇の精霊の力を集めるのです」という言葉を受け、闇の精霊の力を集め始めた。
「それでよいのです。月の巫女たる私に意見するなど神に逆らう所業。ノクティスの降臨さえ成功させれば私が正しかったことが分かるのです……」
既に彼女の目に理性は残っていなかった。美しかった顔は狂気と憎悪で歪み、威厳に満ちていた姿は影を潜め、狂人のように落ち着きなく独り言を繰り返していた。
ヴァルマはイーリスの理性が崩壊したことで、レイの言葉が正しかったと完全に認めた。しかし、唇すら動かせぬ状況ではイーリスを止めることは叶わない。
(まさかキーラにまで手を掛けるとは……イーリス様は完全に操られている。なんとしてでも儀式を止めなければ御子様が……)
彼女の魔力は既に底を突いていたが、無詠唱で麻痺の解除の魔法を練り上げていく。しかし、闇の精霊の力は彼女に向かうことなく、より強い詠唱を行う翼魔族の呪術師たちに向かう。必死に精霊の力を掻き集めるが、間に合わないと直感していた。
彼女の狂気は翼魔族の呪術師にも伝染していた。自らの能力以上に精霊の力を集めており、このままでは精神がもたず数分で廃人になってしまうだろう。
「よく見なさい、ヴァルマ。ノクティスのご加護がなければ、このように精霊の力が集まるはずはないのです。神官たちの力などなくとも、これだけの力があれば必ず成功するわ。よく見ておくのよ。ハハハ!」
イーリスは巫女には相応しくない下品な哄笑を上げながら、未だに意識が戻っていないルナに近づいていった。
渓谷の対岸から見ていたレイも闇の精霊たちが異常に集まっていくことに気付いた。
「何が起こっているんだ!? この力は……」と呟くが、すぐに神降ろしの儀式が始まったと直感する。
横にいるアシュレイとステラも異常を感じていた。それは今まで感じたことがないような根源的な恐怖であり、歴戦の二人が手の震えを止めることができないほどだ。
「何が始まったのだ」というアシュレイの問いに、レイは「神降ろしの儀式が始まってしまった……」と消え入るような声で答える。
「すぐに止めないと拙いのではないか……あれは危険だ。止めねば……」とアシュレイは誰に言うでもなく呟いていた。
レイはヴァルマを解放したことを後悔した。
(説得に失敗した? いや、ヴァルマが裏切ったのか? こんなところで儀式を始めたら危険なことは分かっているはずなのに……今はそんなことを考えている時じゃない! 何としてでも止めないと……)
そう考えるものの、イーリスたちは岩陰に隠れており、打つ手が思いつかない。
その間に精霊の力がどす黒い瘴気のように立ち上がっていく。
「あれは絶対に闇の神(ノクティス)じゃない! もっとおぞましい力だ……」
レイは覚悟を決めた。ルナに当たるかもしれないと範囲攻撃魔法を躊躇していたが、今の状況の方が彼女に危害が加わると考え、魔法を打ち込むことを決意する。
しかし、効果的な魔法が咄嗟に思いつかない。
「レイ! 花火の魔法を撃ち込め! あれなら殺傷力は低いが敵の集中力を切らすことができる」とアシュレイが叫ぶ。
レイは「了解!」と応えると、すぐに花火の魔法の呪文を唱えていく。
呪文の完了と共にヒュルヒュルという音を立てて火の玉が飛んでいく。そして、岩棚の直前で轟音と共に炎の花が大きく開いた。
眩い光が消えるが、立ち上る瘴気は消えなかった。
レイは信じられないという顔を一瞬するが、すぐに光属性魔法の流星雨の呪文を唱え始めた。しかし、光の精霊の力は遅々として集まらない。
アシュレイは「済まぬ」といい、自らの提案が失敗に終わったことに悔恨の念を抱く。
この時翼魔族の呪術師たちは花火の音と光に驚き、アシュレイの目論見どおり集中力を切らしていた。狂気に染まった闇の精霊は彼らの力を介することなく自立的に集まり始めていたのだ。
イーリスは今まで感じたことがないほど強大な力に酔いしれていた。
(神の降臨。誰もが成し得なかったことを私は成したのよ! ノクティスよ! 我が前に!)
トランス状態に入っていた彼女はレイの花火の魔法の影響を受けることはなかった。それどころか鼓膜を破るような爆発音や激しい閃光にすら気づいていなかった。
徐々に高まる力に麻痺で動けないヴァルマは恐怖を感じていた。
(恐ろしい……深淵を覗くような恐ろしさ……慈愛どころか感情すら拒否する冷たさしか感じない……)
彼女がそんな思いに震えていた時、ルナの様子が変わり始めた。
意識がなかったルナがゆっくりと立ち上がる。そして、その身体から膨大な魔力を放出し始めた。
精霊の力を感じられる者はその暴風のような力に後ずさってしまった。五人の翼魔族の呪術師は自らが召喚したものが神でないと知り、次々と岩棚から飛び出していく。しかし、彼らの翼は風を掴むことができなかった。常ならば風の精霊の力が浮力を与えるのだが、その時は全く力を与えなかったのだ。
五人の翼魔族は悲鳴を上げながら深い渓谷に落下していった。
レイはその姿を見て、この場では魔法が使えないことを悟った。すぐに流星雨の魔法を諦め、次にすべきことを考え始める。
(精霊が暴走している? 原因は判らないけど、魔法は使えない。どうすれば……)
対策が思いつかないまま、成す術もなく立ち尽す。
そんな中、ステラは岩棚ではなく、その周囲に視線を向けていた。
レイが呪文を途中でやめたことを不審に思ったが、翼魔族たちが落下していくのを見て、即座に魔法が使えないと判断し、次に打つ手を探し始めたのだ。
(私にできることは少ない。でも、できることがあるはず……)
しかし、打つ手を見つける前に事態は大きく動き始めた。