Vermillion

83. Policy

『やあ、ケイくん。どうしたんだい?』

一人で戻ってきたケイに、デッキチェアで優雅に紅茶を味わっていたコウが気さくに声をかける。

『なんでも、女同士で相談があるそうで』

『あー、そりゃ男は蚊帳の外だ』

サイドテーブルにカップを置きながら、苦笑するコウ。

『ケイくんも一服どうだい』

『ごちそうになります』

ケイはひらりと身を翻し、サスケから降りる。木立のそばに張られたテント――小さなテーブルや折りたたみ式の椅子、茶器一式に簡易竈まで用意され、そこはすっかり屋外ティールームの様相を呈していた。

「ヒルダ」

「はい、かしこまりました」

コウが声をかけると、背後に控えていたヒルダ――イリスの側仕えのメイド――がケイの分のお茶を用意し始めた。別の使用人が新たなデッキチェアを運び、またたく間に新たな席がセットされる。

ケイも腰を下ろそうとしたが、どうやらサスケがまだ走り足りなさそうだったので、手綱と轡(くつわ)を外してやった。

「よし、そのへん走ってこい」

ケイがぽんと尻を叩くと、サスケが「わーい」と言わんばかりに喜び勇んで走り去っていく。

「よ、よろしいのですか……?」

凄まじい加速で、あっという間に地平線の彼方まで遠ざかっていくサスケに、メイドの一人が目を丸くしていた。

「大丈夫だ、飽きたらそのうち戻ってくる」

サスケ(あいつ)は賢いからな、と言って笑うと、「は、はぁ……まあ、このあたりには獣もいませんし……」と気を取り直すメイド。しかしサスケはただの馬ではない。リラックスした姿ばかり見ていると忘れがちだが、その正体は雑食の凶暴な魔物(バウザーホース)だ。草原で出くわすような獣なら、たいていの相手は返り討ちにできる。心配無用だろう。

ケイが椅子に腰掛けると、サイドテーブルに紅茶のカップが置かれる。小さな焼き菓子とミルク差しも一緒に。

いたれりつくせりとはこのことだ。何人ものメイドにかしずかれると、思わず気後れしてしまうが、そんなケイとは対照的にコウは堂々としている。

『こういうのは、肩の力を抜いて自然体でいればいいのさ』

脚を組みながら、コウはのんびりと言った。

『彼女(メイド)らもプロだからね。変に遠慮されるより、堂々と構えてもらった方が色々やりやすいと思うよ』

『そんなものですか』

『うん。オドオドしたり、みっともない姿を晒すと、それはそれで侮られるから。かといって、ことさら偉そうにする必要もないけどね。たとえば後ろの――』

そこでふと、コウは口をつぐんだ。しばし沈黙。続く言葉を待ちながら、ケイも紅茶をいただくことにした。屋外で淹れたとは思えないほどの理想的な温度、そして香り。メイドたちの技量の高さがうかがい知れる――

『日本語で話してても、固有名詞を出すとバレちゃうな。そうだ、丘(おか)を英語読みしてくれ。彼女のことは丘田(おかだ)さんと呼ぼう』

丘は英語で「Hill(ヒル)」。

つまり丘田(おかだ)の『おか』を入れ替えて――丘田(ヒルダ)。

「んっぶぅ」

危うくケイは、紅茶を鼻から噴き出すところだった。ちょっと予想外でツボってしまった。背後のヒルダが怪訝そうにしているが、まさか自分の名前が原因とは思うまい。コウは悪戯を成功させた子どものようにからからと笑っている。

『名案ですけど吹いちゃいましたよ』

『ああ~丘田さんが変な人を見る目でこっち見てる』

『ンふッこれ以上笑わせないでください!』

ふう、とため息ひとつ、気を取り直したケイは紅茶を飲みながら、(言葉が通じすぎるのも考えものだな)などと思った。

『それで、ヒル……丘田さんがどうしたんですか』

『彼女ねー、男爵家の生まれなんだよ。彼女自身に爵位があるわけじゃないけど、貴族の家の者だから下女より身分が上――侍女っていうんだっけ? 日本語では。仕事もできるし、バリバリのキャリアウーマンって感じさ。将来的には侍女長とかになるんだろうね。でもプロだから、自分の生まれとかは関係なく、相手が何者であれ、お客様にはきちんとした態度で接する』

『ほほう……』

『何が言いたいかっていうと、まあお互いリスペクトしましょ、ってことさ。彼女は僕の客をきちんともてなすし、きみはきみで堂々とそれを受けつつ、紳士的に振る舞えば何の問題もない。一応きみはゲストだから、丘田さんと同格の侍女は、さん(Miss)付けで呼んだ方がいいかもね』

『なるほど』

そう言われて見てみると、周囲の使用人たちも、各々服装の『質』が違うことに気づく。たとえばヒルダのメイド服はかなり上等なものだが、その他のメイドたちは生地が微妙に粗雑だったり、デザインが簡略化されたりしている。一口に使用人と言っても、召使いか管理職かで明確にランク分けされていた。

今まで区別がついていなかったが、少しばかり視野が広がった気分だ。

『色々あるんですね、全然知りませんでしたよ』

『まあ機会がなければ気づく必要さえないしね』

手帳を開き、何やら書き込みながらコウが頷く。

『……それは?』

『アイデア帳さ。素人なりに、冷蔵庫を始めとした魔道具の改良にも取り組もうと思っていてね。思いついた先から、色々アイデアを書き留めてるんだ』

見た感じ、どうやら日本語でメモしているらしい。暗号として大活躍してるな、とケイは笑った。

『……ケイくんは、』

紙面に視線を落としたまま、不意に、コウは口調を改める。

『どうやって、この世界で生きていくつもりなんだい』

静かな、問い。

『……どう、ですか。狩人にでもなろうかと思ってますが』

『狩人?』

意外そうに、顔を上げるコウ。「今さら?」とでも言わんばかりの表情だ。

『ええ。特に"大熊(グランドゥルス)"みたいな、一般人では手に負えない大物狩りの専門家になろうかと』

サティナやウルヴァーンの周囲には開拓村が多く、まれに【深部(アビス)】から怪物が迷い出てくることもある。そのような状況下で、村人たちに大きな被害が出る前に、怪物を狩り殺す専門家になりたい、とケイは考えていた。

『それはまた……アレだね。確かに"大熊"クラスのモンスターを狩れば、実入りもいいだろうけど、危険すぎないかい?』

『それはある程度、承知の上です。……こう言っちゃあなんですが、俺は人の役に立ちたいんですよ』

気取るでもなく、あくまで生真面目なケイを、コウはまじまじと見つめた。

『それは……勇敢だね。いや、冷やかしているわけではなく』

揶揄するような言い方になったことを、恥じるようにコウは視線を逸らす。

『僕は、そういうの御免だな……って思っちゃうからさ』

『……昔だったら、違ったかもしれません。この世界に来た直後は、俺も、"どうやって死なないか"をずっと考えてたんです』

転移直後のことを思い返しながら、ケイはぽつぽつと話す。

『もともと地球では、持病で余命が幾ばくもなかったので……死にたくない、っていつも思ってたんです。でもそのままじゃ、生きている、って感じがしないというか。こういう言い方すると語弊がありますけど、自分の命の使い方――どう生きるか、をより深く考えるようになったんです』

『…………』

『きっかけは、ウルヴァーンの近くの開拓村で、"大熊"を仕留めたことでした。"大熊"のせいで村にも大きな被害が出てましたから、そりゃあ感謝感激されましたよ。……あのときは、俺もすごく救われた気分でした。人から頼られて、感謝されるのが、あんなにも心地良いなんて、俺は知りもしなかった……』

それまで、頼ってばかりの、人生だったから――

『……だから、今は、そういう風に生きたいって、思ってます』

ふと素に戻ったように、ケイは気恥ずかしそうに笑った。

コウは、嗤(わら)わなかった。

『立派だね……』

僕には真似できそうにない、とコウは肩を竦める。

『ま、とはいえ、大物なんてそうそう出てきませんけどね。仮に出てきたとしても、俺の耳に届く頃には、領主や軍が解決してるかもしれませんし』

そう言いながら、ケイはふと、今度タアフ村を訪ねても良いかも知れないな、と思った。こうしてコウやイリスと出会えたのも、あの村で得た縁のおかげだし、懐かしさから狩人のマンデルにも会いたくなってきた。

『なるほどなぁ……僕はどうしたもんかな』

『……やっぱり、まだ気持ちの整理が』

『つかないねえ』

はぁ、と嘆息混じりに、コウは。

『まあ……でも、しばらく僕も考えて、気づいたんだよ。別に地球に帰ったところで、絶対にこれを成し遂げたい! という確固たる目標も夢もなかった、ってことにね……僕はただ惰性で生きてただけだった』

もちろん、ネットやら何やらの便利さ、快適さはこちらの世界と比べるまでもないけど、と口をへの字に曲げてコウは言う。

『逆に、それにさえ目を瞑れば――なかなか看過しづらいデメリットではあるけど――こちらの世界も悪くはない、とは言えないこともないかもしれない』

『そうですね……』

こんな多重否定文、英語だったら咄嗟にわからんぞ、などと思いながら、ケイは相槌を打っていた。

『こちらの世界で、革新的な冷蔵庫とジェラートの父として名を馳せるのも、いいかもしれない……なんて考えてるよ。今はね』

複雑な心境を覗かせながらも、フフッとコウは笑みを浮かべてみせた。

『ところで、話は変わるけど、きみとアイリーンは、ど(・)う(・)なんだい? 随分と……親しげに見えるが』

『えっ』

宣言どおり、突然の話題転換に少し戸惑う。

『えっと……彼女とは、恋人同士です』

改めて言うと恥ずかしい。ケイは柄にもなく頬が熱くなるのを感じた。母国語のせいか。

『あ~~~良いねぇ、若いねぇ』

何が良いのか、腕組みをしてうんうんと頷くコウ。言われっぱなしは癪なので、逆にケイも聞き返す。

『そういうコウさんは、どうなんです? イリスと何かあったり?』

『いや、ない。彼女とは友人関係を維持してるよ』

ところが、即答。

即答であった。

『へぇ……そうなんですか? コウさんたちこそ、けっこう親しげに見えますよ。イリスだってかなり美人ですし』

『恋人持ちがそんなこと言っていいのか~?』

『いや、客観的にですよ』

茶化すコウに、冗談めかして言うケイ。

『こっちの世界に来て、一緒に色々乗り越えて、仲が進展してもおかしくないじゃないですか』

『まあ、ね。確かに彼女とは知らない仲でもないし、美人であることは事実だ……だが、だからこそ僕は、今の関係がベストだと考えている』

『……それはまた、どうして?』

『だって恋人にしたら面倒くさそうなんだもん彼女』

コウの答えは、にべもないものだった。

『今でこそ、可愛げがあるというか、大人しく僕に感謝してくれているけど、恋人ないし夫婦になったら絶対それを『当然』と考えるタイプだよ、彼女は。いわゆるお嬢様に憧れる男は多いが、嫁にしたらそれを養わなければならない、という事実は頭の片隅に置いておくべきだ。まあ、このまま魔術師としてやっていくなら、金は足りると思うけどね……金は(・)、ね……』

ただパートナーとして上手くやっていける自信がないんだよなぁ、とコウは深い深いため息をついた。

『……あ、今のはもちろん、本人には内緒だぜ』

『わ、わかってますよ』

『きみの彼女にも、だからね。男同士の秘密ってことで頼むよ』

『わかりました』

聞かなかったことにしよう……とケイは思った。

『そいや、きみの夢……大物専門の狩人になりたい、って話はアイリーンにもしているのかい? 恋人として反対されたりとかは?』

『話はしてますし、反対も特には。むしろ背中を押された気がします』

『ははっ、さすがに勇ましいな。彼女(アイリーン)はどう生きていくつもりなんだろう』

『あいつは、影の魔術が使えますから、色々と魔道具を売ろうとしてます』

ケイは、影絵を用いた投影機(プロジェクター)や、防犯用の警報機(アラーム)の販売計画について話す。

特に警報機(アラーム)の、『精霊に捧げられた触媒は魔力に変換され消滅する』という性質を、物理的なスイッチに応用する発想はコウにとっても目からウロコだったらしく、「ほほー!」と大いに感心していた。

『それは面白い。都度触媒をセットし直す必要があるとはいえ、魔術的作用をダイレクトに物理現象に変換できるわけか……』

『あと、俺もそのうち魔道具作りにチャレンジしてみようかと』

『きみが?』

コウがきょとんとする。

『……脳筋戦士で、魔術関連には一切技量割り振ってないんじゃなかった?』

『こっちの世界で受肉して、ポテンシャルの制限はなくなったらしいです。事実、俺もけっこう魔力が増えてるんですよ……【 Maiden vento, Siv. ――Faru la venton milde blovi! 】』

ケイが唱えると、ふわっとかすかな風がコウに吹き寄せる。確かな魔力の流れ。羽衣をまとった乙女の姿を幻視したコウは、驚愕に目を見開いた。

『そういえば! 風の精霊と契約してるんだったか! そっかぁゲーム的なポテンシャルの制限も取っ払われたわけか……なるほどなぁ!』

ちなみに大興奮のコウの背後、ヒルダも「!?」と目を白黒させていたが、ケイたちは気づかなかった。

『見たところ、ケイくんはすでに脱初心者といったところか』

『そうですね。駆け出し魔術師くらいは魔力も確保できてると思います』

『……何を作るつもりなんだい?』

『まあ、メジャーなところで矢避けの護符(タリスマン)とか。あとは風を集めやすい帆とかですかね……』

『うわ~~~それ絶対売れるやつだ! 港湾都市(キテネ)からの勧誘に備えるべきだね。狩人よりそっち専門の方がいいんじゃないか?』

『ははは、そうかもしれません。まあまだ遠い道のりですが』

実際、作れるようになればアホみたいに売れるだろうな、とは思っている。少なくともコウの冷蔵庫とはいい勝負をするはずだ。需要(シェア)的な意味で。

『いいなぁ、僕も矢避けの護符とか欲しい。まあ今のところ身の危険は感じてないけどさ』

万が一ということがあるからねえ、とコウは胸のあたりを撫でながら言う。

『もちろん、作れるようになったら融通しますよ。……代わりと言っちゃなんですが、俺は冷蔵庫が欲しいです。キンキンに冷えたエールが飲みたくて……!』

ケイが心の底から言うと、コウが破顔一笑した。

『はっはっは、たしかに、きみらは長いことご無沙汰だろうからね……』

『夢に見るくらいですよ。生温いのばっかりですから……』

『こればっかりは、魔術抜きじゃどうしようもないからね。わかった、冷蔵庫に関しては隙を見て作ってあげよう』

『いいんですか!?』

『ああ。ただし順番待ちがすごいから、今すぐの話じゃないよ』

コウ曰く、冷蔵庫は注文が殺到しているので、一日あたりの製造数を絞っているのだという。魔力が厳しいから、というのが表向きの理由だが、実際は過剰労働の回避と希少価値の維持が目的だとか。

『今は朝と夜に一台ずつ作ってるよ。その気になればあと三台はイケるけど、大事を取っている――ことにしている』

とはいえ、あくまで領主公認のもと自重しているだけなので、余裕があればその他の魔術の研究はできるし、むしろ推奨されているという。『自分用』という名目で密かに冷蔵庫の核となる部分を作るのは、そう難しくない。

『ありがとうございます!!』

『先行投資ってヤツさ。矢避けの護符もそうだけど、もし、きみたちが何か面白いものを作ったら、ぜひ声をかけてくれよ』

もちろん、とケイは快諾し、コウと固い握手を交わした。

『まあ、それはそれとして、だ……。ヒルダ』

不意に、コウが振り返って声をかける。

「はっ!? はい!」

ぼんやりとしていたのか、突然名前を呼ばれてビクッとするヒルダ。しかしすぐにプロの顔に戻り、背筋を伸ばす。

「たしか、エールかワインもあったと思うんだけど」

「はい、どちらもご用意しておりますが」

「それじゃあ、エール……で、いいかな?」

「あっ、はい」

確認されたケイは、コクコクと頷く。

「それじゃ二杯頼むよ」

「かしこまりました」

すぐさま、銀製のゴブレットになみなみと注がれたエールが運ばれてくる。

「さて……【 Aubine! Arto, Rei-Kyaku.】」

懐から白い粉――おそらくは塩――を取り出し、呪文を唱えたコウがふぅっと手のひらの上に息を吹きかける。吹き散らされた塩がきらめきながら、冷気へと変換されてゴブレットにまとわりつく。ケイは、冷笑を浮かべる長衣の乙女の姿を幻視した。

だが、それも一瞬のこと。銀のゴブレットは今や、急激に冷却されて白く曇っている。ケイは思わず「おお……!」と感嘆の声を漏らした。

『いやはや。宣之言(スクリプト)には手っ取り早く日本語使ってるけど、僕たち同士じゃ味気ないにもほどがあるな』

『俺だって似たようなもんですよ、実用性が第一ですし……』

もっともらしく頷いて答えながらも、ケイの目はゴブレットに釘付けだ。苦笑したコウはゴブレットを手に取り、一つをケイに渡す。

『これは……!』

――キンキンに冷えてやがるっ…………!

ケイはごくりと生唾を飲み込んだ。咄嗟に、草原の方を見ていた。アイリーンを呼ぶべきか。しかしアイリーンとイリスは、楽しそうに笑顔で話しながら、仲良く馬を駆けさせていた。

――今は邪魔をするべきではない。

ここはひと足お先にいただこう、とケイは判断した。

『それじゃ、乾杯しようか』

『はい! ありがとうございます』

『我々の友情に』

『……偉大なる氷の魔術に』

ニヤリと笑った二人はゴブレットを掲げ、こつんとぶつけた。

『――乾杯!』

ぐいっ、とエールをあおる。

目の覚めるような冷たさ、爽やかな喉越し――

「かぁ~~~っ!」

――間違いなく、こちらの世界に来てから、一等美味いエールだった。

……ちなみに、それから酒盛りに突入したケイだったが、「もっと早く呼べ」とアイリーンに怒られる羽目になったのは、言うまでもない。

†††

とっぷりと日が暮れて、月が昇る頃。

サティナの街も、住人たちの多くは寝静まっていた。

貴族街も例外ではなく、屋敷の窓からはロウソクのかすかな明かりが漏れるものの、静けさに包まれている。

ただ、そんな中で、活発な人の気配を感じさせる屋敷が一つ。

街の南東部に位置する、領主の館だ。

サティナの行政的な中心部でもあるこの館は、衛兵隊を統括していることもあって、夜になっても人の出入りが絶えない。

それにしても、平時よりは活発な印象を与えるが――

「それで、」

屋敷の奥。とある執務室にて。

シンプルだが座り心地の良さそうな椅子に腰掛ける、初老の男。

「――コウ殿はほろ酔い加減でご機嫌だった、と」

「はい」

初老の男の言葉に、キリッとした顔つきのメイドが答える。

――ヒルダだ。

普段、滅多なことでは表情を崩さない彼女だが、この場に限っては、緊張の色を浮かべていた。

無理もない。彼女の眼前に座す、この初老の男――柔和な顔に射抜くような眼光の持ち主こそが、サティナの領主、『ランダル=カーティス=サティナ=バウケット』伯その人だからだ。

「コウ様は、ケイ様とかなりの長時間、会話を楽しんでおられました」

「ケイ――公国一の狩人、か。どのような内容だった?」

「それは……申し訳ございません。聞き取ることができませんでした」

心底申し訳なさそうに、顔色を悪くしながらヒルダは頭を下げる。

「ふむ。例の聞き慣れぬ故郷の言葉とやらか」

領主カーティスは、ヒルダの隣に視線を向ける。そこに立っていたのは、執事服に身を包む白髪の老人。領主別邸を任せている家宰のアルノルドだ。

「はい。ケイ様が初めて屋敷を訪れた際、コウ様との会話に用いられていた言語と思われます」

慇懃に、わずかに頭を下げながら答えるアルノルド。顔に浮かべたアルカイックスマイルはまるで作り物のようで、その胸の内を悟らせない。

「ふむ。ヒルダ」

「はっ」

「お前はたしか、複数の言語を操るとのことだったが」

「はい。海原語(エスパニャ)と高原語(フランセ)を学んでおります。雪原語(ルスキ)も初歩的な会話でしたら可能です。草原の民の部族語も、単語レベルなら聞き取れます」

「それでも、コウ殿の言葉はわからず、か」

「……はい。公国語や海原語、高原語とは根本的に異なる印象です。最初は、草原の部族語を疑いましたが、それとも発音が全く異なります」

「精霊語(エスペラント)、という可能性はないか? お前の報告によれば、ケイとやらも魔術の才を見せたそうではないか」

カーティスに問われ、ヒルダはしばし迷う素振りを見せたが、「いいえ」と首を横に振った。

「精霊語とも、響きが異なっているように感じられました。少なくともRの発音は全くの別物です」

「ふぅむ。お前がそこまで言うからには、そうなのだろう。……同郷、とのことだったな。特に疑っていたわけではないが、本当なのやもしれぬ」

短く整えたあごひげを撫でながら、カーティスは考えることしばし。

「大儀であった。ヒルダは下がってよい」

「はっ」

頭を下げ、きびきびとした動きで、ヒルダは退室していった。

残されたのは、領主カーティスと、家宰のアルノルドのみ。

「ふぅ……」

億劫そうに席を立ち、自らの手で背後の戸棚からグラスと瓶を取り出したカーティスは、クイッと眉を釣り上げて、アルノルドに問う。

「……お前も呑むか?」

「いえ、まだ仕事がございますので」

「つまらんやつだ」

そうして、自分の分だけ、グラスに琥珀色の液体を注ぐ。

「……まあ、コウ殿に不満がないようなら、それでいいのだ」

再び椅子に腰を下ろしながら、カーティスは言った。

実のところ、コウとケイの会話内容にそれほど興味はない。コウの故郷――帰還が叶わぬほど遠いと聞く――についても、割とどうでもいい。

もちろん、わかるならそれに越したことがないが。

あくまで最重要は、コウの今後だ。現状に満足して、サティナに留まってくれるなら、それでいいのだ。

今(・)は(・)。

「かの御仁にご満足いただけるよう、わたくしどもも最善を尽くしております」

あくまで慇懃に、アルノルドが一礼する。

「うむ。……しかし、そう遠くないうちに情勢が変わるだろう。さすれば、コウ殿の力が必要になる……」

背もたれに身を預け、カーティスはしばし瞑目した。

「……陛下は、決(・)断(・)を(・)下(・)さ(・)れ(・)た(・)」

まるで独り言のように。

カーティスは、しわがれ声で呟いた。アルノルドの、まるで貼り付けたような穏やかな笑み(アルカイックスマイル)が、わずかに、そして、初めて崩れる。

「……とうとう、にございますか」

「うむ」

「では……」

「人手の準備くらいは、しておくべきであろうな」

「かしこまりました」

カーティスの言葉に、アルノルドは一礼する。

「下がってよい」

「はっ……」

そうして、老練なる白髪の家宰は、静かに退室していった。

「…………」

カーティスは独り、グラスの酒を舐めるように味わいながら、物思いに耽る。

「"公国一の狩人"、か」

ぽつりと呟く。

その称号が――何をもたらすか。皮肉な笑みを浮かべて。

「ふん」

鼻を鳴らしたカーティスが、とんっ、と執務机にグラスを置く。

飲み干されることのなかった酒が、グラスの中でただ、揺れていた。