We Live in Dragon’s Peak
He who wants to be saved, he who wants to be saved.
暗闇をただ歩むだけの意味のない人生に、月のような優しい光を照らしてくれたのは、巫女のルイセイネであり、マドリーヌであり、そして師であるジャバラヤンだった。
罪を犯した者であっても、己の過ちに真摯に向き合えば、母なる女神は深い慈愛をもって許してくださる。
イステリシアにとって、神殿宗教の導きはまさに、救いそのものだった。
これまで、どれだけの精霊を犠牲にしてきただろう。
どれだけ償っても、償いきれないほどの罪を背負ったイステリシア。
だが、己の罪と向き合い、贖罪を重ねれば、いつかは女神の膝下で心安らかに過ごすことができる。
それは、イステリシアの願う未来であり、心の拠り所でもあった。
しかし、どうだろう。
母なる女神に赦(ゆる)されたとして。
だからといって、数多くの同族を殺された精霊たちが、イステリシアの罪を赦すだろうか。
イステリシアは、いつか女神に赦されようと、巫女として清く正しく生活を送ってきた。
だが、それが精霊への贖罪に繋がるのかと言われれば、けっしてそうとは言えない。
なぜなら……
イステリシアは、狼狽えたように視線を彷徨わせる。
すると、少し離れた場所で談笑しながら自分を護衛している四人の獣人族が目に映った。
次いで、森を吹き抜ける冷たい風に乗って顕れた、風の精霊王が視えた。
周囲は寒々とした冬の森がどこまでも続き、足下には枯れ積もった落ち葉が広がる。
見上げると、今にも雪が降ってきそうな灰色の雲が分厚く空を埋め尽くしていた。
だが、それだけ。
本来、豊かな自然の中には必ずいるはずの「存在」が、どこにもない。
姿どころか、気配さえ感じられない。
感じ、視ることができる「存在」は、系譜の王である、風の精霊だけ。
イステリシアは自覚していた。
自分は、精霊に嫌われている。
だから、自分の周りからは精霊たちが逃げ出し、姿を視ることも、気配を感じることもできない。
そんな状況で、いったいどうすれば、精霊たちに贖罪できるのか。
いいえ、違いますね。と、イステリシアは瞳を伏せる。
精霊たちは、イステリシアに贖罪してほしいとさえ思っていないのだ。
だから、イステリシアが罪の赦しを請う機会さえ与えない。
姿を見せず、気配さえ感じさせないのは、そのせいなのだと、イステリシアは知っていた。
『ああ、ああ、浅はかな耳長族の娘よ。そうやって、誰かのためと働いていても、内実は贖罪を言い訳に、己の罪から目を遠ざけようとしているだけではないのか』
風の精霊王の言葉に、寒さからとは違う、心の奥底からの震えを感じるイステリシア。
「わらわ……わらわ……」
神殿宗教に身を寄せたのは、自身が救われたかったからではないのか。
ジャバラヤンの教えを守り、規律正しく生活していたのは、そうしていれば赦されるのだという優しい世界に浸って、癒されたかっただけではないのか。
そして、こうして薬草の素材を自主的に集めている行為でさえ、厳しい現実から目を逸らす言い訳に利用しているだけではないのか。
自身の行いのどこが、贖罪に繋がるのか。
イステリシアは、風の精霊王の言葉に凍りつく。
はたして、巫女としての修行やこれまでの行為のどこに、意味があったのか。
風の精霊王が言うように、現実から目を逸らし、贖罪の真似事をしていただけではないのか。
イステリシアは、きつく目を閉じ、体を丸めて、小さな子供のように震える。
だが、世界はイステリシアに容赦なく現実を押し付けてきた。
「おい、村の方から騒ぎが聞こえてこないか!?」
耳の良い獣人族のひとりが、森の異変に気付く。
近くの村というのであれば、先ほど逃げるように飛び出してきた鹿種の獣人族が暮らす村だ。
「ふぅむ、嫌な臭いがしやがる」
「おい、煙が上がったぞ!」
護衛の獣人族たちに、緊張が走る。
四人は、鹿種の村の方角を見やり、騒ぎ始めた。
本来であれば、耳長族のイステリシアの方が、獣人族よりも早く森の異変には気づけたはずだ。
だが、今のイステリシアは、本来持ち合わせているはずの耳長族としての力の半分を、失っていた。
風に乗り、遠い場所の様子を知らせてくれる精霊たちが、自分の周りには存在しない。自然界にごく普通に存在する火も水も土も、イステリシアには何も語りかけない。
精霊たちの声が届かない今のイステリシアは、探れる範囲以外の状況を感知する術がなかった。
とはいえ、種族の特徴である長い耳は、耳の良い獣人族並みに周囲の音を拾う。
風の精霊王の冷たい言葉に心を凍らせ、膝を抱えて丸まり、震えるイステリシア。その長い耳にも、たしかに遠くの喧騒が届いた。
「どうする?」
「気になるが……」
「だが、俺たちの役目はなぁ」
「護衛っつう立場からすれば、警護対象者を危険から遠ざける判断の方が正解なんだろうがな?」
イステリシアは、獣人族の四人が自分に注視していることを知る。
自分は、どうすべきなのか。
長い年月、災禍に身を置いていたイステリシアだ。
膝を抱え、心を乱しながらも、緊急事態に対して思考が動きだす。
そして、最初にイステリシアの瞼の裏に映った情景は、鹿種の少女の無垢な笑顔だった。
「わらわ、気になります!」
言って、護衛の確認も取らずに走り出すイステリシア。
獣人族の四人は、村へ向かって急に走り出したイステリシアを、慌てて追いかける。
風の精霊王もイステリシアに追従してきた。
『ああ、ああ、それは自己満足だ、耳長族の娘よ。其方が行ったところで、何の役にもたたぬ。罪は償えぬ』
「わらわ……。自己満足ではありません……」
『それは、嘘だ。其方は、誰かを救おうとした、という免罪符がほしいだけだ』
「……」
風の精霊王は、走るイステリシアに並んで飛ぶ。
そうしながら、イステリシアの心をかき乱す。
イステリシアは獣道を必死に走りながら、風の精霊王の言葉を否定しようとする。だが、想いが言葉にならない。
「お嬢ちゃんが救援に行くってんなら、俺たちは先行させてもらうぜ!」
小柄なイステリシアがどれだけ必死に走ろうとも、屈強な脚力を持つ獣人族には敵わない。
護衛役の獣人族の内三人は、イステリシアを置いて走り去る。
残りひとりがイステリシアに合わせてついてくるが、幾分、速度の遅さに不満そうな表情だ。
『やはり、其方の行為は自己満足でしかない』
「そんな……わらわ……」
『では、なぜ空間跳躍を使わない? 其方は、耳長族なのだろう? 獣人族の村を救いたいのだろう?』
風の精霊王の容赦ない鋭利な指摘が、イステリシアの冷え固まった心に深く突き刺さる。
風の精霊王は、どこまでも正論を突いてくる。
耳長族であれば、地を走るよりも空間跳躍を駆使した方が遥かに速く移動できる。
なのに、イステリシアはその華奢な脚で走るばかり。
「わらわ……巫女ですから……」
『しかし、まだ洗礼は受けていない』
「洗礼は受けていませんが、巫女として正しく……」
『巫女として正しくあれば、駆けつけた時に手遅れになっていても言い訳がたつか』
「そ、そんなつもりでは!」
洗礼を受けた巫女は、以後、法術以外の術の使用を禁じられる。
だが、イステリシアはまだ、洗礼を受けていない。
とはいえ、洗礼前であっても、イステリシアは既に巫女然とした心構えを会得していた。
いつ洗礼を受けてもいいように、精霊術を自ら禁じていたイステリシア。
その志(こころざし)は、見習い巫女として、正しい。
しかし、一刻を争う現状においては、はたして正しいのだろうか。
では、空間跳躍を使ってでも、現場へ急行すべきなのか。
まだ、見習い中だから。
まだ、洗礼を受けていないから。
言い訳はできる。
「ですが……」
イステリシアは、苦しむ。
ここで、言い訳を盾に、自ら禁じた空間跳躍を使ってしまえば、今後どうなるだろう?
もしも、洗礼を受けた先。
法術では対処できないが、精霊術でなら切り抜けられる、という場面に直面した時。
誰かを救うため、何か大切なことを成すために、どうしても精霊術が必要になった場合。
自分は、禁忌を犯してまで、救いの手を差し伸べるのだろうか。
それとも、禁じられているから、と大切なものを手放すのだろうか。
何が正しく、何が間違いなのか。
そして、自分の行為そのものに、意味はあるのか、ないのか。
罪を犯した自分にも、救いはあるのだと教えてもらった。
だが、精霊たちから見れば、どれだけイステリシアが救われようとも、関係がない。
それに、世の中において、何が正しく、何が間違いなのかさえ、イステリシアにはわからない。
いったい、自分はどうすべきなのか。
どう在るべきなのか。
全力で駆けるイステリシアの呼吸は、心の苦しみもあって激しく乱れる。
空気を求める胸の痛みに、瞳を閉じるイステリシア。
「わらわ……」
とうすれば、良いのか。
こういう場合、ルイセイネはどう判断するのだろう。
マドリーヌは、どう行動するのだろう。
そして、女神様は、何を望まれるのだろう。
イステリシアは、痙攣しそうな胸にありったけの空気を取り込む。
次に、閉じた瞳をしっかりと開き、森の先を強く見据えた。
「わらわ、先行します!」
そして、空間跳躍を発動させた。
「うおうっ!」
直前まで自分の前を苦しそうに走っていた耳長族が、一瞬にして遥か前方へと移動した。それだけじゃない。あっという間に先駆けていった三人を追い抜き、森の先へと姿を消したイステリシアに、獣人族たちは度肝を抜かれた。
『ああ、ああ、滑稽だ。所詮は巫女の真似事だったのだな。いざとなれば、簡単に矜持も信仰も捨て去る。其方は、そういう女だ』
「わらわ……」
言い返せない。
風の精霊王の言葉は、イステリシアの心を無慈悲に抉り出した。
救われたかった。
赦されたかった。
辛い現実から、目を逸らしたかった。
逃げ出したかった。
まさに、その通りだ。
結局は自分のためであり、精霊への贖罪ではなかった。
精霊たちから嫌われて当然だ。
気配が感じられないほど避けられて当然だ。
「ですが……」
空間跳躍を連続させながら、イステリシアはひとつだけ、風の精霊王に反論した。
「鹿種の獣人族を助けたい、と思う気持ちだけは本物です!」
これまで、誰も救えなかった。
救おうとしてこなかった。
しかし、今は違う。
これからは違う。
巫女としての教えを学び、誰かのため、世界のために奉仕する、という考えを身につけた。
「わらわ、滑稽でも良いです。その場しのぎでも、自己満足でも良いです。ですが、今の自分にしかできないことがあるのなら、全力でやります!」
間違った考えかもしれない。
精霊たちは呆れるばかりだと思う。
しかし、イステリシアは決断した。
間違った道でも、紆余曲折を得て、いつかはまた正しい道に戻れるかもしれない。
それを信じて、いま目の前に見える道を、一歩ずつでも着実に進んでいこうと。
新たな決意を胸に、解禁して何度目かの空間跳躍で、イステリシアは鹿種の村へと戻ってきた。
だが、思わず足を止めてしまう。
戻ってきたイステリシアの先では、恐ろしい光景が広がっていた。
「妖魔……!」
泥土でできたような妖魔が、ずるり、ずるり、と地面を這いずりながら進む。
進んだ先には、民家が一軒。
泥は、大波のように高く盛り上がる。
盛り上がった泥の中心には、赤く不気味に光る瞳と、酸を吐き出す口だけが有った。
泥の妖魔は、そのまま、民家の屋根から覆いかぶさる。
じゅうじゅうと、全てを溶かす嫌な音と悪臭が広がる。
泥の妖魔に飲み込まれた民家から、悲鳴が響いた。
「まさか、家ごと中の住民を溶かして喰ってますの!?」
民家ごと獣人族を溶かした泥の妖魔は、次の獲物を目指して地面を這いずる。
屋内は、安全圏ではない。
民家に逃げ込んでも、建物ごと溶かされてしまう。
一部始終を目撃していた鹿種の獣人族たちが、悲鳴をあげて逃げ惑う。
誰かが、果敢にも矢を放った。
だが、矢は泥土に当たると、そのまま溶かされて吸収されてしまった。
「くそっ、何でも溶かす妖魔か!」
「こ、こいつはとんでもねえな!」
「おいおい、建物ごと全てを溶かすような妖魔を相手に、どう戦えってんだ!」
遅れて到着した護衛の獣人族も、イステリシアに並んで足を止める。
「ジャバラヤン様に報告だ。これは、俺たちだけじゃ対処できねぇ!」
最後に追いついてきた獣人族は、そのまま踵を返して、森へと走り去った。