酒は飲んでも飲まれるなと誰かが言っていたが、それは最もな格言だと思う。ルイーザさんの大きな胸が辛うじて収まっている服からすると、少し脱ごうとしただけで大変なことになってしまうので、五十嵐さんがフォローしてくれたことについてはファインプレーとしておきたい。

 そう、決して残念だと思ってはいない。しかし急に賑やかな席から離れると、何か寂しく感じもする――俺もすっかり、今の環境が馴染んでしまったものだ。

(飲み会は嫌いじゃないが、気を遣うことの方が多かったからな……今も気配りは必要だが、それよりはまだ気楽なほうだ)

 外で待ち構えているのも何なので、俺は一旦外の風にでも当たってこようかと、廊下を歩いていく――すると、この店には中庭の景色を見ながら食事ができる席もあるようで、庭への出入り口を見つけた。

 何となく近づいて、すぐに気がつく。庭に出たすぐのところで、誰かが話をしている。どうやら、二人の男性が話しているようだ。

「ロランドは、あとどれだけで昇格試験を受けられるんだ?」

「次の探索で、あの人の累計貢献度は目標値をクリアするって言ってたろ。『蟹狩り』だけでこれだけ貯めた探索者は他にいないな」

 立ち聞きをするのは良いことではないが、『自由を目指す同盟(ビヨンド・リバティ)』の内情を知る貴重な機会だ――俺はいつでもその場を離れられるように周囲に気を配りつつ、できるだけ物音を立てないようにして息をひそめる。

「まあ、方法としちゃありなんだろうけどな……複数の『蟹』が湧いても、3パーティで見張ってれば、どこに出現しても安全に狩れる」

「それにしても、ロランドのパーティが六番区に上がった後も、俺たち全員を引き上げてくれるのかよ? 六番区で探索した方が効率が良いんだろうに」

「もともとはロランドとダニエラ夫婦だけのパーティだったんだ、どうなるかはあの二人次第ってことになる。しかし、あいつが方針に口出ししそうなのは気に食わないな」

「ああ、グレイか……全く、そういう『職』なのかってくらい、他人に取り入るのが上手いやつだぜ。第一パーティにいつの間にか移ってたが、俺たちには何の説明も無しだぜ。どうなってやがる」

 野太い声の男と、いかにも荒くれ者という雰囲気の、スキンヘッドに肩に入れ墨を入れた男。話を聞く限りでは、彼らは『同盟』を構成する複数のパーティのうち、二番手以下に所属しているということになる。

「まあ、世渡りの上手いやつはどこにでもいるもんだ。しかしあいつの場合、ある程度腕も立つ……か」

「『黒服』ってのは、そういう奴がのし上がる職業なんだろうからな。腕っぷしもある程度必要ってことだろうよ」

 黒服――俺が想像するのはスーツ姿の強面の男性だが、迷宮国でも受理される職業だということか。

「それにしてもあいつに話しかけられた女のメンバーの態度が軟化するのは、一体何なんだ? 今日も同じ卓に女ばかり集めてるが、誰も異論を唱えやしねえ」

「そういう職だ、で済ませるわけにもいかねえな……男の嫉妬だなんて思われたらたまったもんじゃねえ。グレイの行動は注意して見ておくしかねえが……」

 グレイがそういう技能を持っているのか、話術が巧みというだけなのか分からないが、もし技能で女性を口説く時にプラスになるなんて効果があったりしては問題だ。彼らの話を聞いていると、その線も否定できない――うちのメンバーを引き抜かれるような事態にはさせるつもりはないが、向こうからの接触に対して警戒は必要だ。

 それはさておき、この機会に彼らの現況について聞いておきたい。『同盟』が狩り場を独占している『落葉の浜辺』は星三つの迷宮なので、俺たちが入れるようになるにはまだ貢献度が足りないが、いずれは侵入可能になるので情報が欲しいところだ。

「まあ、泣いても笑っても、最短で明後日には目標達成だ。ロランドの累計貢献度は2万になる……あとは、規定数の『名前つき』を狩れば、めでたく六番区入りだ」

「慎重すぎるほど安全にやってきたとはいえ、『蟹』一匹で貢献度60のところを、ずいぶん時間がかかったもんだな」

「『蟹』を五十匹狩ると、また湧いてくるまで少し日数が空く。『魚』もいるとはいえ、俺たちが居座るようになってからは砂浜に近づかなくなったからな……この作戦の良し悪しってやつだ」

「『蟹』でも油断すれば指の一つは切り落としてくるからな……『蜘蛛(クモ)』や『蟷螂(カマキリ)』なんてもっと相手にしてられねえ。モグラと甲虫ですら、油断したら医療所送りで全治十日コースだぜ」

 地面に潜るモグラ、空を飛ぶ甲虫。俺たちは遭遇した魔物を協力して撃破したが、確かに一度戦闘するごとに少なからず消耗させられた。

 『フォーシーズンズ』のみんなも言っていたが、『蜘蛛』と『蟷螂』は相当に厄介な魔物らしい。倒すことでメリットがあるのならば挑む価値はあるが、『蟹』が狩りやすいと聞くと、まずそちらと戦ってみたいとも思ってしまう。

 しかし、一つ引っかかっていることがある。俺が見てきた迷宮は、こんな方法が通用するような生易しい場所だっただろうか。そんな考えは、彼らの中にも無いわけではないようだった。

「だが……昇格条件の『名前つき』を確実に倒せる保証はあるのか?」

「そんなもんはねえよ。七番区で長くやってりゃ、運良く倒せるような名前つきに遭遇することはある。それを運か、実力で掴んだ連中だけが上に行けるんだ。俺たちもその場に居合わせるだけで、『名前つき』の討伐数にはカウントされる。ここで逃げたら何にもならねえ」

「そいつはそうだが……ああ、分かったよ。そんな顔するな、俺だってここで降りるつもりはない。自分たちのパーティの独力だけじゃ、六番区なんて一生上がれない。おこぼれの貢献度でも、随分稼がせて……ん?」

「そろそろ締めの時間か。グレイの奴、バーゼルを使い走りにしやがって……」

(っ……まずい、このままだと前後から挟まれる……!)

 中庭から廊下に入ってくる男二人、そして『自由を目指す同盟』が食事をしている部屋から、バーゼルという人物が彼らを呼びに来る。俺は話を聞くことに集中しすぎていたので、咄嗟に隠れる場所を見つけられない。

 ――偶然居合わせたという顔ですれ違うか。そう考えたとき、思いもよらないことが起こった。

   ◆現在の状況◆

 ・『メリッサ』が『猫撫で声』を発動 →『ロドニー』『チェン』の行動をキャンセル

「みゃーん」

「ん……なんだ、猫?」

「護衛のペット可の店だからな。他のパーティが連れてきてるんじゃないか?」

 中庭から廊下に入ってこようとした二人の注意がそらされる――俺はライセンスで近くにメリッサが来ていることを確認すると、緊急脱出に使える技能があることに思い当たった。

(『猫撫で声』って一体……いや、そんなことを言ってる場合じゃないっ……!)

   ◆現在の状況◆

 ・『アリヒト』が『バックスタンド』を発動 → 対象:メリッサ

 一瞬の意識の欠落の後に、色素の薄い髪をした少女の背中が視界に飛び込んでくる。どうやら『バックスタンド』は成功したようだ。

「っ……びっくりした。いきなり後ろに出るから」

 メリッサは振り返りつつ、小声で言う――どうやら彼女はアンナと一緒に俺のことを探しに来てくれたようだが、どうやって俺がピンチだと分かったのだろう。

「私は先ほどレベルが上がって、『戦局眼』という技能を取得しました。それで、アリヒトさんが窮状にあることを察することができました」

「そういうことか……『テニス選手』だから、試合の流れを読むような技能ってことかな」

 アンナはこくりと頷く。そして、『同盟』のメンバーが合流するところを遠目に見つつ、俺たちは自分たちの個室に引っ込んだ。

「後部くん、待たせちゃってごめんなさい……どうしたの、汗をかいてるみたいだけど」

「何と言いますか、ちょっと深追いしてしまったというか……『同盟』のメンバーが立ち話をしてたので、可能なら情報を得たいと思いまして」

「…………」

 すっかりテーブルの上の料理を平らげたテレジアが、ぺたぺたと歩いてきて俺の汗を拭いてくれる。俺には諜報活動のようなことは向いてないので、可能ならテレジアにお願いしたいところだが――彼女にそういうことをさせるのは、どんな頼みでも聞いてくれるだろうからこそ、安易にしてはいけないと思う。

「…………」

「ん……どうした? テレジア」

「……遠慮しないで、って言ってる。どこでも、私を連れていってって」

「そ、そうなのか……?」

 メリッサはテレジアの考えていることが、他の皆よりも感じ取れる――それは、メリッサが亜人であるお母さんの血を引いているからだろうか。

「……いつも一緒だと、ボディガードでもさせてるみたいだからな。そういう遠慮こそ、しなくていいって言われそうだけど」

 テレジアはこくりと頷く。そのはっきりとした答えを見て、みんなも笑っていた。

「アトベ様は……もっと、皆さんに甘えられてもいいのでは、ないでしょうか……私がそう言うのも、おせっかいかもしれませんが……見ていて、歯がゆいこともあるといいましゅか……ひっく」

「ルイーザさん、もう少しお水を飲んで……だいぶ落ち着いてきたけど、さっきは服をとにかく脱ごうとして大変だったのよ」

「そろそろお開きにして、休ませてあげた方が良さそうですね。ルイーザさんは、ギルド職員の寮に入っているんですか?」

「……いいえ……私は、アトベ様方の、専任担当なので……ご一緒の宿舎に住まわせていただくことに、なっております……」

「同じ宿舎に、ルイーザさんの部屋も用意されてるってことですよね。すみません、まだお酒が回っててきついとは思いますが、ライセンスに地図を表示するので、宿舎の位置だけ教えておいてもらえますか」

 ルイーザさんは丸椅子に座ったまま、隣の席に座っている五十嵐さんに上半身を預けて休んでいたが、俺がライセンスを持っていくと、なんとか操作して場所を示してくれた。

「……こちらの番地になります……アトベ様方は、七番区に来られた時点で、七番区内の序列が、294位でしたので……宿舎は、スイートテラスになっております……」

「スイートテラス?」

「テラスハウス的なやつじゃないですか? 行ってみないとわからないですけど」

 ミサキの言うとおりだとすると、敷地を壁で区切られて、同じ形の家が並んでいるタイプの物件ということになる。

「八番区で『オレルス夫人邸』を経験すると、七番区の宿舎は少し手狭に感じるかもしれませんが、スイートテラスでしたらかなり広々と使えますよ」

「ええなあ、うちらはマンションタイプで、二人部屋を二つ使わせてもらってるんやけど。スイートテラスやったらみんなで一緒に住めるやんな」

「私たちも頑張って、もう一つ上の宿舎に行けるようにしなきゃ。アリヒト先生たちと協力できて、先に進めるようになったから」

「……時間のあるときに、一度お伺いしてみたいです」

 フォーシーズンズの面々は、上位ギルドを利用しているとはいえ宿舎は俺たちと同等のものではないようだ。パーティメンバーが俺とテレジア、そして五十嵐さんだけだった頃のことを思い出す。あの当時も、部屋は十分すぎるほど広かったが。

「それで……後部くん、戻ってきてもらったばかりで、申し訳ないんだけど……」

「うーん……ら~いじょうぶれすよぉ……歩けますからぁ……」

 さっきまで何とかろれつが回っていたルイーザさんだが、やはり駄目なようだ。

「じゃあ、俺が運ばせてもらいます。ルイーザさん、いいですか?」

「……は~い……」

「お兄ちゃんにおんぶしてもらえるとか、もしかしてルイーザさん、こうなることを見越してたりしないです?」

「ルイーザさんがそんなこと考えるわけ……ありませんよね?」

「わ、私に聞かれても……この様子を見る限りだと、ほんとに潰れちゃってるみたいだし。思ったより、お酒が濃かったんじゃないかしら」

 スズナに聞かれて五十嵐さんが困っている――当のルイーザさんはすっかり脱力していて、むにゃむにゃと何か言っているがよく聞こえない。見たところ、普通に酔いつぶれているように見える。

「よっと……ああ、これなら大丈夫そうですね」

「……恐れ入ります……うーん……」

 何か皆が羨望の視線を注いでくる中、俺はルイーザさんを背負う――そんなに重くはないが、太ももの裏に回した腕や、何よりも背中に、思わず動きを止めてしまいそうなほどの質感が伝わってくる。

「……あんなに密着して、やっぱり役得なような」

「リョ、リョーコ姉……思ってても言ったらあかんよ、そういうことは」

「アリヒト先生、やっぱり男の人なんですね……軽々と持ち上げちゃってますし」

「頼りがいがあります。カエデが『兄さん』と呼ぶ気持ちが分かりました」

「みんなも準備はできたか? 忘れ物とかしないようにな……マドカ、済まないが代わりに精算を頼めるかな」

「はい、アリヒトお兄さん」

 俺はルイーザさんをしっかりと担ぎ、店を後にする。『同盟』も締めにすると言っていたが、延長になったのか、まだ賑やかな声が聞こえていた――鉢合わせにならずに済んだのは、幸いと言っておくべきところだろう。