水たまりの間を抜ける道を再びアルフェッカに乗って進み始めると、急に周囲の風景が変化し始めた。

「この感覚は……どうやら、転移してるみたいですね」

「目印も何もないと、少しびっくりするわね……急に霧が出てくるんだもの」

 シオンに騎乗して並走している五十嵐さんは、少し緊張した様子で言う。転移ではなく敵の攻撃だったりしたらとも思うが、シロネの足跡を追って行く先はこの方向しかないので、思い切って進むしかない。

 しばらくして霧が薄れ始める――二階層は昼間だったのに、三階層は夜の帳が降りている。階層を移動して時間が大きく変化したのは初めてで、皆も驚いていた。

 『原色の台地』の三階層。先が見通せないほど広大な荒れ地に奇妙な形の大岩が幾つもあり、まばらに緑で覆われている。この光景は、記憶の中に似ているものがあった。

 南米の秘境、ギアナ高地。映像で見たときは昼だったが、あの場所が夜になったらちょうどこんな光景になるだろうか。

 大岩は道を形成するように、列柱のように立ち並んでいる。さらに左と右を見ると切り立った岩壁に突き当たる――峡谷のような地形だ。

「こんなところに住んでいる魔物は、どんな種類なのかしら……」

 エリーティアは暗い中では視界が狭いからということか、俺の後ろから身を乗り出してくる。おさげが頬に触れて微妙にくすぐったいが、エリーティアが気にしていないようなので何も言わずにおく。

「私は夜目が利くから、暗くても大丈夫」

「…………」

 メリッサは『ワーキャット』の能力を引き継いでいるからか、暗い場所でもよく見えるということらしい。テレジアも見えているようだが、蜥蜴マスク越しの視界はどんなふうに見えるのだろう――暗視スコープのような見え方なのか、それとも普通に昼間のように見えているのか。

「シオンちゃんもよく見えてるみたい。匂いを追ってくれてるのかしら……みんな、少し後ろからついてきてくれる?」

「ワンッ」

 五十嵐さんの言う通り、シオンは何もなさそうに見える場所に鼻を利かせながら進んでいく。足跡なども辿れたりするのだろうか。

 周囲を警戒しながら慎重に進む。俺ももう少ししっかり見えないものか――と思った瞬間。

 ◆現在の状況◆

 ・アリヒトの『鷹の眼』が発動 → 状況把握能力が向上

(っ……そうか、鷹も夜目が利く生き物なのか)

 フクロウなどの夜行性の種を除いて鳥は夜に目が見えないというイメージがあるが、どうやらそうでもないようだ。昼間ほど遠くまでは見えないが、一気に視界を確保することができた。

 周辺の地形を見る限り、動くものは小さな生き物くらいしかいない。魔物の気配はないが、シロネの姿も見つけられない。

「……待って。シオンの様子が……」

 シオンがある場所で足を止め、困ったようにその場で一回りしてうずくまってしまう。五十嵐さんが降りてシオンに語りかけるが、それ以上動かなくなってしまった。

「シオンちゃん、どうしたの? シロネさんの痕跡が、ここで途切れてるっていうこと?」

「クーン」

 シオンも困惑している様子で、五十嵐さんの差し出した手を舐め、伏せの姿勢になってしまっている。俺たちも追いついたところでアルフェッカから降り、周囲に気を配りながら何が起きているのかを確かめる。

 メリッサは地面に這うようにして手がかりを探し始める――そして、しばらくして彼女は立ち上がり、小さく首を振った。

「かすかに残ってた足跡が途切れてる。跳躍したりした痕跡もない」

 辺りに生えている木や、ほぼ垂直に切り立った奇妙な形の岩を見てみても、シロネがここまで来たという痕跡すら見て取れない。しかしシオンは確かにここまで、シロネの匂いを辿ってきた。

(ここで何が起きた……魔物に襲われた? それにしては、まるでここで忽然と姿を消したみたいに見える。もしくは……)

「……まるで神隠しみたい。もしかして、空を飛ぶ魔物に捕まったとか……?」

 五十嵐さんが空を見上げながら言う――薄靄がかかり、朧げな月が浮かぶ、白黒の夜空。原色の台地というには似つかわしくないモノクロの空は、いつもの迷宮と比べても現実味がなく、御伽話の世界じみている。

「シロネほどのレベルの探索者が、成す術もなく捕まるなんてことは考えにくいですが……状況から見て、可能性はありますね」

「ええ……もし空を飛ぶ魔物に攫われたなら、早く見つけないと。でも、かなり広い範囲を探すことになる」

 探す方角すら絞り込めないようでは、全くの無駄足を踏むこともありうる。

 そして、もう一つの可能性――シロネ自身が、追跡を避けるために自ら行方をくらまし、身を隠しているということも考えられる。

 帰還の巻き物で一階層まで移動し、隙を突いて外に出ることも不可能ではないかもしれない。ならば、この得体の知れない迷宮を闇雲に探し回るよりは、俺たちも脱出を考えるべきなのか――そう考えたところで。

 何か、小さなものがひらひらと視界を横切る。

 白黒の夜空の下で、『それ』は俺たちの前に姿を見せた。一匹の、青い蝶――。

 ◆遭遇した魔物◆

 ?青い蝶H:レベル3 中立 耐性不明 ドロップ:???

「この小さな蝶が、魔物……?」

「中立……っていうことは、敵対してこない魔物みたいですね」

 ライセンスの表示を見る限り、この蝶は周辺にかなりの数がいるようだ。しかしひらひらと俺たちの周りを飛ぶだけで、何かしてくる気配はない。

「……念のために、倒してみる? シロネがこの魔物に会っていたなら、何か手がかりがある可能性はある」

「いえ、攻撃してはだめ。中立の魔物は、こちらから攻撃するとカルマが上昇してしまうから」

「そうなの? カルマって、ギルドの規則を破ったときだけ上がるものじゃないのね……」

 蝶は俺たちには近づいてこない。エリーティアの忠告通り、全く攻撃してくる気配がないものを攻撃するのは、普通に考えて悪行とされる行為だろう。

 ――しかし辺りを飛ぶ青い蝶の数は、一匹、二匹と増えていく。

 そして増え始めた蝶は、なぜか蝶を倒すなと言ったエリーティアの周りに引き寄せられるように集まっていく。

「エリーさん、この場から離れた方がいいわ。いくら無害でも、魔物なら何か危険があるかも……」

 五十嵐さんが声をかけようとしたときだった。

「……エリーティア?」

「……私は……」

『――契約者に警告する。その周辺に出現している魔物は――』

 エリーティアが何かを呟いた。同時に、アリアドネが警告してくる――それが全て耳に届く前に。

「……違う……私は、人殺しなんかじゃない……っ!」

「――エリーティアッ!」

 ◆現在の状況◆

 ・『?青い蝶H』が『ギルティフィール』を発動 →対象:『エリーティア』

 ・『エリーティア』が『スラッシュリッパー』を発動 →『ブルーバタフライH』が回避

 ・『エリーティア』が中立の魔物に対して攻撃 →『エリーティア』のカルマが上昇

 中立と表示されていた魔物が、エリーティアに何かをした――そうとしか考えられなかった。

 攻撃するなと言った彼女自身が、『緋の帝剣』を抜き放ち、周囲をひらひらと舞う蝶に斬りかかる。その攻撃は当たったかのように見えたが、彼女の剣は空を切っていた。

「――エリーティア、しっかりしろ! この魔物はまずい、一旦この場を離れるぞ!」

「っ……駄目……もう、遅い……私は……」

 エリーティアに何が起きているのか。彼女は苦しむように頭を抱え、青い蝶はまるで彼女を責め立てるかのように、見る間に数を増やして辺りを飛び回る。

「後部くんっ、向こうから霧が……!」

「……っ!」

『契約者に、一時離脱を勧告する。今から全力で離脱すれば、あの霧から逃げ切ることも――』

 アルフェッカが警告する――しかし青い蝶に囲まれたエリーティアは、俺たちの声が聞こえていないのか、ただ立ち尽くすのみで自失に陥っていた。

「エリーティアッ、脱出するぞ! エリーティア!」

「後部くん……っ、エリーさんを置いていくわけにはいかない。そうでしょう……!?」

 五十嵐さんはエリーティアのカルマが上昇したことに気づいているのか、青い蝶に攻撃しようとして思いとどまる。

 こちらから攻撃すればカルマが上がり、しかし敵はこちらに何かをしてくる――そんな理不尽は簡単に起こるものではないというのは、あまりに甘い考えだった。

 気を抜けば迷宮は一瞬にしてその表情を変え、探索者を喰らおうとする。エリーティアの仲間もまた、おそらくその犠牲になった――ならば。

(敵の技能で誘導されて、エリーティアは中立とされる魔物を攻撃してしまった……その一撃だけで、もう取り返しがつかないなんてことは絶対にない。必ず全員で切り抜ける……!)

「――シロネはおそらく、あの霧に飲まれたんだ! 連れ戻せるとしたら、俺たちも同じ場所に行くしか方法がない!」

「ええ……そうね。私達も覚悟を決めなきゃ……その前に……っ、エリーさんっ!」

 五十嵐さんは蝶をかきわけて、エリーティアに駆け寄る。一度は取り乱したエリーティアだが、五十嵐さんの声に反応して、振り上げた剣を力なく下ろす。

 視界を埋め尽くすほどの霧が、すぐそこまで来ている。俺は『帰還の巻き物』を使うという考えは捨て、押し寄せる霧に立ち向かう。

『契約者たちよ、我が陰に隠れるが良い。あの霧の中に求めるものがあるという予測は、おそらく正鵠を得ている』

「ああ……そうだといいんだがな。状況に流されてることに変わりない……必ず、流れを変えるぞ」

『御意に』

 アルフェッカの声が聞こえる。俺たちはその車体の影に隠れる――霧が押し寄せてくる寸前に、エリーティアを抱きかかえた五十嵐さんが、俺たちのいる場所にギリギリで飛び込んできた。

 霧とともに飛んでくる蝶の数は、先ほどよりも膨大な数に増えていた――エリーティアに近づくことはなく、辺りを霧が覆い尽くしたあと、空に向かって飛んでいく。

 アルフェッカの影から、俺は空を埋め尽くした蝶たちが、巨大な影絵を作っていく様子を見ていた。無数の蝶が集まり、一匹の巨大な蝶に変わっていく――初めから、一つの生命体であったかのように。

 ◆遭遇した魔物◆

 ☆憐憫の幻翅蝶 レベル8 特殊耐性 ドロップ:???