ソラたちと別れたトールが一人で向かったのは、修復が終わっていない南の壁であった。

めぼしい破損箇所を<復元>しようと壁沿を走っていたトールは、木々の間に動くものを見つけ足を止める。 

身をかがめ気配を消しながら、森の中へ行き先を転じる。

すでにその場にはなにもいなかったが、地面の上にうっすらと残った足跡を見つける。

見慣れたゴブリンよりも一回り大きい――ホブゴブリンだ。

立ち上がったトールは、周囲を警戒しながら足跡の進む方向を目指し始めた。

どうやらモンスターたちは、壁に近い森の中を移動しているようだ。

普段であればすぐそこで生活している住民めがけて、我先にと石壁に襲いかかっているはずである。

何らかの目的を伴ったモンスターの行動に、トールは違和感を覚えた。

囲まれることを用心して、やや速度を落としながら追跡していたトールの耳に、遠くから鳴り響く角笛の音が聞こえてくる。

戦闘が始まったようだが、少なくともこの近くではない。

方角からして反対側、北の壁辺りのようである。

そのまま進み続けたトールは、自分の懸念があっていたことを確信した。

木立を通して見えたのは、石壁に群がる緑の肌の亜人たちの姿であった。

ざっと数えて二十匹ほど。

対抗する手段を持たない普通の住人であれば、数百人を簡単に殺してしまえる数だ。

元からもろくなっていた場所らしく、すでに積石のいくつかが脇にどけられ大穴になりつつある。

場所はほぼ街の南で、戦闘が始まってる北壁からはかなり離れた位置となる。

この辺りは日当たりのせいで木もよく繁っており、壁上からでは接近されても気づきにくい。

壁際の森を移動していたのは、壊れて突破しやすい部分を探していたのか、もしくは見張りの有無を確認していたのだろう。

木立の中から観察しようとしたトールに、長年、森の中を歩いて培われた勘が不自然さを告げる。

森の中にも伏兵が潜んでいるようだ。

近い場所に五匹。

反対側にもおそらく同程度がいるはずだ。

一匹でも声を上げれば、三十匹以上が襲いかかってくる状況である。

だが援軍を呼ぼうにも手段がないうえ、ここまで駆けつけてくるにはかなりの時間がかかる。

しかし今動かねば、確実にモンスターどもは街中へ入り込むのは間違いない。

旗が下がってなかった様子からして、まだ避難もまともに終わってないだろう。

無駄に時間をかければ、被害はさらに大きくなってしまう。

ソラとムーがいれば何とかなったかもしれないと考えかけて、トールは音もなく剣を抜いた。

たった数日間、一緒に行動しただけで、すっかり毒されていた自分がおかしくて自然と頬が持ち上がる。

二十五年間、ずっと単独で戦ってきたのだ。

今さらこれくらいのことで、怖じ気づくほどやわではない。

気配を隠したトールは、下生えに身を伏せるホブゴブリンどもにギリギリまで近づく。

木陰から飛び出したその体は、瞬時に最高速へ引き上げられた。

ムーの<雷針>を何度も味わったおかげで、会得した動きだ。

音を立てぬ軽やかな踏み込みと同時に、まずは手前のホブゴブリンの首を斬り飛ばす。

手首を柔らかく返しながら、横にいた二匹目のこめかみを強打。

振り向きざま背後に立っていた三匹目の喉を真横に斬り裂き、そのまま体を回転させて、慌てて立ち上がりかけた四匹目の首を斬り落とす。

そして身を低くしたトールは、伸び上がるように五匹目の口元へ剣尖を突き出した。

叫ぼうとしていたホブゴブリンは、上顎から頭部を貫かれ手足を痙攣させて息絶える。

「ハァァァ……ハアァァァ……ハアァァ……」

十秒にも満たない時間で五匹を音も立てず行動不能にしたトールは、肺の底から長く息を吐き出した。

全力を出した反動で激しく消耗し立っているのも厳しい体を、<復元>でもとに戻して止めを刺して回る。

反対側も同様に始末したトールは、肩で息をしながら壁へ視線を向けた。

さすがに二十匹を一度に相手にするのは無謀である。

なんとか数匹だけおびき寄せる方法を思案していたトールだが、背後の森に新たな気配を感じて思わず振り向く。

さらなる強敵が近づいてきている。

そう感じ取ったトールは、心当たりに顔をしかめた。

ゴブリンとその亜種であるホブゴブリンの大きな違いは、体格差だけではない。

ホブゴブリンどもの方が、厄介なことに若干知能が高めなのだ。

彼らには投石や冒険者が落とした武器を使いこなす知恵と、より自分たちが有利になるよう仕向ける狡猾さが備わっていた。

今回も先に北側に襲撃をかけ、そちらに注意を引きつけておいて反対側から奇襲をかける作戦を実行したのだろう。

ただこれほど大規模な動きとなると、当然ながら指揮を執る存在が必要だ。

彼らに命令できるようなボス。

おそらく小鬼の洞窟の主である、ホブゴブリンどもの長(チーフ)が出張ってきたのだ。

このままでは挟み撃ちになると考えたトールは、いったん離れようとして大きな音に足を止める。

視線を向けると、広げられた穴の上部の石がちょうど崩れ落ちたところであった。

下敷きになった数匹を引っ張り出しながら、ホブゴブリンどもは口々に奇声をあげ出す。

壁の穴が街中へ開通してしまったと判断したトールは、思考を即時に切り替えた。

より危険な状況ではあるが、逆手に取れる好機でもある。

近づいてくる背後の複数の気配を感じ取りながら、トールは直前まで息を整えた。

そして穴を掘り終えたホブゴブリンたちが見張りを数匹残して中に突入した瞬間、木陰から飛び出して全力で駆け寄る。

一瞬で最高速になったトールの体は、旋風のように見張りのホブゴブリンの脇をすり抜けた。

一息遅れて、二匹の首元から緑色の血が噴き出す。

次いで大穴の手前にいた二匹の首が、地面に転がり落ちた。

そのまま穴を駆け抜け街の中に戻ったトールは、去り際に穴の壁に触れて元の頑丈な壁に戻しておく。 

再び塞がってしまった穴の向こうで、到着した新たなホブゴブリンどもは大きな喚き声を上げた。

その中にひときわ、凶悪な叫びが混じっていたことをトールは聞き取る。

やはり嫌な予感は間違ってなかったようだ。

危機から間一髪で逃れたトールは、細く息を吐きながら気を引き締めた。

<復元>の残り使用可能回数は八回。

今、刃こぼれした鉄剣を戻したので七回になった。

体力も戻しておきたいが、まだかなりのホブゴブリンどもが控えている。

今も先に入り込んでいた十匹以上のホブゴブリンが、苦労して開けた穴が消え失せた事実に気づき怒りで牙を剥き出しにしていた。

錆びた剣を下げたモンスターどもに隙間なく取り囲まれたトールは、やや絶望的な状況に少しだけ唇の端を持ち上げる。

「疾(と)く、睡(ねむ)れ――」

次の瞬間、聞き覚えのある祈句を耳にしたトールは、身を低くして地を蹴っていた。

「――<冷睡>」

声に気を取られたホブゴブリンたちの足元を前転ですり抜けたトールの背後で、いきり立っていたモンスターたちはいっせいに動きを止めた。

次々とその場で膝をつき、まぶたを閉じて首を垂れる。

<冷睡>は対象一体を短時間だけ眠気に誘う、氷精樹の下枝スキルの魔技である。

だが今、目の前のホブゴブリンたち全てが、完全な眠りに落ちてしまっている。

この街でこれほどまでに氷系魔技を使いこなせる人物は、トールの心当たりの中では一人しかいない。

杖代わりにほうきを握り、いつもと変わらぬ笑みを浮かべる女性に、トールは思わず確認の声をかけた。

「……大家さん?」

「あら、トールさん。おかえりなさい」