その後、ベッティーナたちは、新たな谷へ進む度に黒骸鷲の群れに襲われることとなる。

だが初戦を無難に切り抜けてみせた一行は、タリの警戒とゴダンの落ち着いた指示もあって、日暮れ前に安全な谷まで無事にたどり着くことができた。

初日だと思えないほどの安定ぶりである。

「え、それ本当に食べるの?」

「はい、たいへん美味しそうなもも肉ですよ」

「……いらないなら、俺がその分を貰おう」

「……俺にもよこせ、タパ」

「じゃ、俺もいただくぜ」

「わかったわ、食べるわよ! 食べればいいんでしょ。あら、意外とあっさりして美味しいわね」

脂がしたたる黒骸鷲の足を上品にかじりながら、ベッティーナはちゃっかり食事に参加している案内人をジロリと睨みつける。

「案内人って、自分の食事を持ってこないものなの?」

「いや、ちゃんと持ってきてるぜ。でも食うなら砂まみれのパンより、断然こっちだろ。うん、こりゃ美味いな」

「喜んでいただき幸いです、ガルウド様」

「いやはや、こんなところで、こんな飯が食えるとはな。よく持ってこられたもんだ」

天幕の横に広げられた本格的な調理道具一式を前に、遠慮をどこかに置いてきた案内人は感嘆の声を上げる。

「これもタリ様の<風速陣>があってこそですよ。いつも助かっております」

「……いくらでも頼ってくれ、ゴダン殿」

「なるほど、極めると荷物まで軽くできるのか。しかも、それだけじゃないしな」

<風速陣>は単なる追い風を発生させる魔技ではなく、実は任意の方向に風の向きを操ることができるのである。

自在に飛来するモンスターの襲撃に合わせて、風使いが巧みに風向きを変えていたのをガルウドはしっかり見抜いていた。

向かい風に勢いを削がれたせいで黒骸鷲どもの速度がいつもより落ちていたのは、地味ながら大きな功績と言えよう。

「ふう、ごちそう様。じゃあ、また明日な」

「おやすみなさいませ」

食事を終えた一行は、それぞれの天幕へ引き上げた。

ただしベッティーナとゴダン、タパは交代で夜番である。

疲れが抜けないと魔力の回復に差し障るため、タリだけ高いびきであった。

二日目もベッティーナの選択で、進む峡谷は適当に決まっていく。

しかし特に問題もなく、午前中もかなりの距離を進むことができた。

そして太陽が真上近くなった頃、視界の先に岩山が浮かぶ位置まで一行はやってくる。

「後、少しのようですね」

「……だが、谷は三つに分かれているな」

「……どれを通っても良さそうだが」

「なら決まってるわね。ここはまっすぐよ!」

高笑いをしながら正面の谷を指さすベッティーナに、ゴダンたちは何も語らず荷物を担ぎ直した。

黙々と進み続け、やがて谷の終点が遠くに見え始めた頃――。

「最後に不味いところへ駒を動かしちまったか。持ってないな、あのお嬢様は」

不意に激しく吹き始めた風の気配に、ガルウドは首をすくめた。

そっと足取りを緩め、かたわらの壁の出っ張りに身を潜める。

ほぼ同時に、けたたましい鳴き声が谷底へ響き渡った。

「何か、でかいのが来るぞ!」

タリの警告は即座に証明される。

太陽を遮るほどの大きな影が、足元の地面をよぎったからだ。

次いでまたも耳障りな甲高い叫びがこだまし、強い突風が吹き寄せる。

そして巨大な旗がはためくような音とともに、大きな影は谷底へと舞い降りた。

飛来する巨大な物体は、またたく間に真正面から押し迫る。

そのまま先頭に立ちはだかるゴダンを軽々と跳ね飛ばし、伏せた三人の上を猛烈な勢いで通り過ぎていく。

宙に浮かんだまま数歩の距離を移動したゴダンは、側面の壁に激しくぶつかって、その赤い鎧から軋んだ音が上がった。

「……見たか?」

「……見たぞ!」

「大丈夫?! ゴダン。何だったの、今の?」

「平気ですよ、お嬢様」

とっさに衝突の瞬間、地面を蹴って勢いを殺したようだ。

平然と立ち上がった執事は、盾を構えたまま上空を観察する。

「何かお分かりですか? タパ様、タリ様」

「……ああ、間違いない。あれは風の獣だ」

通常、獣型のモンスターとは、何らかの動物が瘴気を帯びて変化したものだ。

だがまれに精霊の影響を強く受けた獣が、理から外れた姿を持つモンスターに変わる場合がある。

それが風や雷の名を有する特別な獣たちである。

風獣と呼ばれた先ほどのモンスターも、特異な外見をしていた。

頭部は猛禽類で、大きな二枚の翼も有している。

だが胴体部分は、明らかに四足の獣のものであった。

さらに首周りには、棘状の羽がたてがみのように生えていた。

再び鳥じみた獣の鳴き声が響いた。

間を空けずに空気が震え、風をまとった巨体が舞い降りてくる。

その体高はゴダンの二倍以上、体長は四倍を超すだろう。

圧倒的な体重の差で、風獣はまたも前に走り出た盾士をやすやすと吹き飛ばしてみせた。

「う!」 

「くっ!」

しかも、それだけではない。

身をかがめる双子の上を通り抜ける際に、その首の棘羽根を飛ばしてきたのだ。

肘ほどまである鋭い羽根の一本はタパの太ももを貫き、見る見る間に下衣を赤く染めていく。

同様に肩口で羽根を受けたタリも、苦痛で顔を歪めている。

白い鱗鎧で棘羽根がすべり唯一無傷だったベッティーナは、仲間の様子に怒りを真っ赤な瞳にたぎらせた。

「よくもやってくれたわね!」

「……許せんな」

「……かならず仕留めるぞ」

「ここからのは撤退は、厳しそうですしね」

立ち上がったゴダンが、前方と元来た道を見ながら冷静な判断を下す。

あのモンスターを相手に、谷を走って抜ける余裕はありそうにない。

「突撃は何とかいなせますが、飛んでくる羽根までは無理ですね」

「……矢が届かぬな」

「同じく、剣も空気を切ったみたいだったわ」

「……おそらく風をまとっておるのだろう」

「何とかできる?」

「……来るぞ」

傷口を素早く縛った双子は、両壁に別れてくっつく。

時を置かず雄叫びを上げながら、盾を構えたゴダンが突進した。

その背後に、地を滑るように身を屈めたベッティーナが続く。

盾とくちばしの激突は、風の獣に軍配が上がった。

再度、空中を舞ったゴダンは、あっさり地面へ落ちる。

そして白刃を空気の壁に阻まれたベッティーナは、風圧で飛ばされて壁に強くぶつかり短い悲鳴を発した。

双子の方は、飛んでくる棘羽根に対応するだけで精一杯だったようだ。

矢と短剣で撃ち落としてみたものの、モンスター自体は全く無傷である。

苦戦するパーティの様子を、盾の隙間からガルウドは黙って眺めていた。

あの空を飛び続ける巨体の動きを止めるには、大きな障害物でもなければ不可能である。

<岩杭陣>ならば可能だが、ゴダンのスキルはまだ大きな岩を生み出せるレベルではない。

それに仮に動きを止めたり鈍らせたとしても、体を覆う風の鎧には生半可な攻撃は通用しない。

弓士の<風飛>系なら通用するだろうが、それを援護できる風使いが使い物になるかどうか。

精霊はより支配力の強いほうが有利である。

<風速陣>ごときでは、全く通用しないと見ていいだろう。

せめて剣士のベッティーナに、もっと強力な武技があれば何とかなったかもしれない。

巨大な獣の力に翻弄される彼らを観察しながら、案内人は飛び出すタイミングを見計らう。

まだ遊んでいる段階だが、風の獣が本気を出せば棘羽根をいっせいに放つ凶悪なモードに入ってしまう。

失望とともに盾を持ち上げたガルウドの耳に、不意にお嬢様と執事の会話が飛びこんできた。

「どうやらここまでのようですね、お嬢様。残念です」

「……そう、仕方ないわね」

そう言い放ちながら唇の端を大きく持ち上げる美女の姿に、案内人は魅入られたように動きを止めた。