さすがにこのまま連獄へ挑むわけにもいかず、今回の探索はここでいったん切り上げることにした。
仮に十五階への道が開けたとして、その先に待つのは悪名高き迷宮主だ。
気軽に挑める相手ではない。
予定より半日早く地上に戻ったトールたちだが、幸いにも飛竜艇はすでにムー城塞で待機してくれていた。
さっそく乗せてもらい、境界街近くの発着場まで運んでもらう。
迎えの馬車は到着が早かったせいかまだ来ておらず、代わりに居たのは天嵐同盟の面子だった。
もう一頭の飛竜の足元にテーブルと椅子を並べ、出発前にゆったりとお茶を楽しんでいるようだ。
甘い菓子の匂いにつられたムーが、小舟から飛び降りて一目散に走り出す。
「ムーのぶんはどれ!?」
「いきなり来てあるわけないでしょ、おバカ」
優雅に足を組み直したキキリリは、駆け込んできた子どもに冷淡に言い放つ。
その一言に、ムーは激しいショックを受けた顔になった。
紫の瞳を最大限に見開き、無言のまま双子を見上げて固まってしまう。
「なんでお菓子が食べられないだけで、ここまで絶望できるの? この子」
「こんな悲しい気持ちになったのはいつぶりだ。チッ、来い」
露骨に舌打ちをしたネネミミは、立ち尽くすムーへ素早く手を伸ばした。
そして軽やかに子どもを抱き上げると、自らの膝頭にちょこんと置いてテーブルの上を指差す。
「これは白桃のジャムで、こっちはリンゴの砂糖煮。これはバタークリーム。好きなの選べ」
本日の軽食はさっくり焼き上げた小麦菓子に、たっぷりの甘みをのせて食す一品らしい。
ずらりと並べられた美味しそうな小皿や瓶に、ムーの目はたちまち輝きを取り戻す。
「これあまいのか? からいのない?」
「ないぞ」
「じゃあ、ぜんぶのせてください!」
「欲張りか。うん、お前は素直で可愛いな。ほれ、できたぞ」
「ありがとう!」
「あら、ちゃんとお礼言えるじゃない。良い子ね」
双子に頭を撫でられながら、ムーはお菓子を頬張って相好を大きく崩す。
そこへようやくトールたちも到着した。
「すまない。邪魔したな」
「邪魔かどうかを決めるのはこちらで、貴方が謝る筋合いじゃないわ。招いた以上はこの子は私たちの客よ。それに貴方たちもね。ほら、椅子とおかわりを持ってきて」
夢中で食べ続ける子どもの頭から手を離さず、キキリリは傍らに控えていた職員へ言いつける。
たちまちトールたちの席が準備された。
「うわー、いい匂い。座ってもいいんですか?」
「お招きいただき、ありがとうございます」
「じゃあ遠慮なく相伴にあずかるか」
芳しい香りを放つ薄紅色のお茶がカップに注がれ、トールたちの前に次々と置かれる。
色とりどりの付け合せとさくさく生地の焼き菓子に、ソラがムーそっくりに目を輝かせた。
「うーん、どれもおいしそう。ムーちゃんのおすすめはどれ?」
「ぜんぶ!」
「そっかー。じゃあ、わたしもそうしよっと」
「おまえも欲張りか。ほら、食え」
「いただきまーす!」
手渡されたお菓子を、ムーとまったく同じ表情で食べだすソラ。
ネネミミは静かに手を伸ばすと、満面の笑みを浮かべる少女の頭を優しく撫でた。
その隣では薄紅茶を口に含んだユーリルが、少しだけ驚いたように目を開く。
「これはずいぶんと美味しいですね」
「あら、気に入ったの? ハクリの西の方にある島で採れる珍しい茶葉なのよ。よかったら少し差し上げるわ」
「それはありがとうございます」
そんな盛り上がる女性陣をよそに、トールとチルは顔を突き合わせて無粋に迷宮の話を始めた。
明けても暮れても冒険に夢中な男たちの様子に、双子たちは呆れたような視線を送り、ソラは愛しそうに見つめた。
「今回は少し帰りが早いようだな、泥破り殿」
「ああ、ちょっと体を休めておこうと思ってな」
「ふむ、何かあったのか?」
「いや、特にはないな。次に備えてという話だ」
「ほう」
短く返事をしたチルは、鷹のような眼差しを一瞬だけ光らせる。
「もしや色柱の鍵をすべて見つけたのか?」
「ああ、実はそうだ」
あっさりと肯定してみせたトールに、翠羽族の射手はわずかに唇を震わせた。
言葉を返そうと口を開いたチルだが、不意に真上から落ちてきた声がそこへ被さる。
「あ、みんな来てたんだ~」
「こんにちは、チタさん」
一人だけ茶会の席に姿が見えないと思っていたチタだが、どうやら飛竜の腹にある小舟で作業をしていたようだ。
鱗の突起に器用に足をかけながら、スルスルと地面へ下りてくる。
またも目を輝かせたムーは、ネネミミの膝からぴょんと飛び下りて騎乗師へと駆け寄る。
その後ろ姿を、双子の妹は残念そうに見送った。
「おはねのねーちゃん、げんきか? おかしあるぞ?」
「ふふ~ん、元気だよ。あとそのお菓子、私の分だからね~」
「そっかー、ごちそうさま。あ、りゅーすけもげんきか?」
「だから、名前付けちゃダメだって~」
チタに鼻を軽くつままれたムーは、楽しそうに笑い出す。
「そうだよ、ムーちゃん。勝手に呼んだらダメだよ。ちゃんと、もう……。そういえば、この子はなんて名前なんですか?」
お茶を飲んで一息入れたソラが尋ねると、翠羽族の女性は子どものほっぺを左右に伸ばしながら答える。
「名前? ないよ~」
「え、ないんですか?」
「正確にはあるが、我らには呼べないという話だよ。ソラ殿」
説明不足の妹を補ったのは、兄のチルであった。
首をひねる少女に、分かりやすく噛み砕いてくれる。
「竜は賢い生き物でな。ちゃんと己の名を各々が持っているのだよ。だから我らが勝手に名付けて呼ぶというのは、失礼に当たる行為となるわけだ」
「へー、そうなんですか」
「それに名付けには縛るという意味合いもある。うかつに呼べば、それは忌み名となり、時に大きな禍ともなりうる。ゆえに竜に名付けてはならない。というのが我らの考えだ」
「ほほー、気をつけますね。わかった? ムーちゃん。その竜さん、ちゃんと名前があるんだよ」
「そっかー。なまえなんていうんだ? りゅーすけ」
ちっとも分かってない顔で竜を見上げた子どもは、無邪気に尋ねる。
とたんに頭上の飛竜は、唐突に大きく翼を伸ばした。
そして天に向かって、空気を震わせる咆哮を発する。
いきなりの巨体の動きに周囲の大人が身構える中、ムーは平然とした顔で言い放った。
「ガギュガギギャガガグかー。へんななまえだなー」
その奇妙な発音に、眠そうに下がっていたチタの目が大きく見開かれる。
兄のチルも椅子を蹴飛ばすような勢いで立ち上がったかと思うと、ムーを凝視したまま呻くように言葉を漏らした。
「馬鹿な……。竜の真名をやすやすとだと……」
ゆっくりと息を整えたチタは、子どもの前にひざまずくと視線を合わせて口を開いた。
「ムーちゃん、すごいね~。びっくりしたよ」
「ふふーん、よくいわれるぞー」
「でもそれは大事な名前だから、あんまり口にしちゃダメだよ~」
「うん、いいにくいからなー。それにりゅーすけのほうがいいなまえだぞ」
「もう、だから勝手に付けちゃダメだって~」
「むぅー。ダメばっかりだなー」
そんな二人の様子に何かを察したような顔になったチルは、椅子に腰を落とすとトールへ向き直った。
「なあ、泥破り……トール殿。俺とも少しばかり賭けをしないか? 十五層の主を先に倒したほうが――」
「ムーなら諦めろ。受ける気はない」
「ふふ、たしかにあの幼子は魅力的だが、俺はどちらかと言えばユーリル殿が欲しいがな。いや、それも冗談だ」
口振りは軽いが眼前の男の目に真摯な光が宿ってるのを感じ取ったトールは、しばし考え込む。
これまで色々と迷宮の情報を交換してきたのだが、それは本当にチルたちが欲している物ではないとトールも承知していた。
なぜなら、すでに十五階の迷宮主、腐屍の龍ゾルダマーグは、ストラッチアたちが一度倒しているからである。
"白金の焔"の一員として戦闘に参加していたキキリリたちがいるので、その過程は十二分に知っているはずだ。
それにそもそも中間層の迷宮主は数日で再発生するので、早いもの勝ちというわけでもない。
なのに先を急ぐようなチルの口振りに、トールは静かに問いかけた。
「賭けの内容だけ聞いておこうか」
「いや、ささやかなものだよ。ただの願いみたいなものだ」
一息置いたチルは、幼子と戯れる妹を眺めながら言葉を続けた。
「あの子と見た景色を忘れないでくれ。それだけだ」