「そんなことがあったんですね」

法廷神殿の地下での顛末を聞かされたユーリルは、嘆息混じりの感想を漏らしてみせた。

すでに夕食は終わり、デザートのリンゴジャムのパイも、あらかた少女と子どもの胃袋に消え去った頃合いだ。

最後の一切れを飲み込むように喉奥に詰め込んだムーは、自慢げに鼻を持ち上げた。

「ふぅーおいしかったー。きょうはムーがんばったから、とくにおいしいなー」

「うんうん、今日のムーちゃんはすごかったよー。なんかよく、わからなかったけど、うん、すごくすごかったねー」

意味がやや不明瞭なソラの称賛に、子どもは満面の笑みを浮かべた後、その肩を嬉しそうにペチペチと叩いた。

「確かに驚いたが……、聖痕具が壊れるとかあり得るんですかね?」

実際に弾け飛んだのは事実なのだが、思わずその可否をトールも確認してしまう。

少し考え込んだユーリルは、おそらくですがと前置きしてから言葉を続けた。

「賢者の塔の研究では、人だけでなくどんな物にでも魔力は宿るとされています。ただ非生物の場合、器の大きさはあらかじめ決まっており、大きくなることはありません。今回の場合、繋がりを得たことで聖遺物からムムさんに流れ込んだ魔力が、そのまま天威の雷環に注がれて過剰な供給状態になり、器の限界に達したのかもしれませんね」

「魔力の器ですか」

「ただ貴重な聖痕具はその名に相応しい器があるはずなのですが、それを上回ったのは、やはりムムさんの素質が素晴らしいからだと思えます」

ユーリルに率直に褒められたムーは、ソラの時とは違いふんふんと鼻息を荒くして頷いてみせた。

「あとは聖遺物に触れたことで、ムムさんの魔力の器が広がったのも関係あるのかもしれません」

神の力の具現だけあって、聖遺物にはそんな効能もあるらしい。

ただこれ以上、あの獣との関わりは避けたいトールにとって、それはあまり必要のない情報であった。

「なんにせよ、ムーが無事で何よりですよ。お前、一人で留守番になるところだったんだぞ」

事の重大さが分かっていない子どもに、トールは顎の下を掻きながら告げる。

仮にムーに罪喰らいの獣の分け身が取り憑いた状態になっていたら、大瘴穴を守る迷宮主の戦いへ連れていくという選択肢はなかったであろう。

しかしその場合、迷宮主を倒しても意味はほぼないとも言える。

「聖遺物なしでも、大瘴穴を封じることはできないんでしょうか?」

一度、宝玉蟻の巣の最下層で、トール自身もおぞましい瘴気の深淵を目撃している。

その存在に人の力が及ばぬことははっきりと理解していたが、それでも尋ねずにはいられなかった。

「ええ、私が知る限りではありませんね」

「そう……ですか」

沈んだ声となったトールへ視線を向けたユーリルは、ゆっくりと頷いてから話を続けた。

「良い機会なので、お披露目いたしましょうか」

そう言いながら耳先を揺らした美女は、部屋着の胸元のボタンを丁寧に一つずつ外していく。

そして呆気にとられるトールたちへ、服の裾を静かに持ち上げてみせた。

雪のような白い肌が露わになり、その豊かな双丘が転び出る寸前――。

「えっ!」

「それは……」

信じ難い異変を目にした二人は、思わず声を漏らす。

ユーリルの腹部、みぞおちからヘソの周囲までは、茶色いかさぶたのような物で覆われていた。

いや、正しくは皮膚そのものが変質しているようだ。

それはまるで、植物の樹皮のようにも見えた。

「いつから、そんな状態に……?」

「金剛級に上がってすぐに施術を受けました。もっとも、ここまではっきり出たのはつい最近ですけどね。ようやく馴染んできたみたいです」

まるで変化を喜んでいるかのようなユーリルの物言いに、トールは言葉を詰まらせる。

その脳裏には、金剛級に昇級した当時、探求神殿からユーリルが何か贈られたという話が浮かび上がっていた。

中身については、確実に芽が出てからとも。

「もしかして、芽がどうこうと仰っていたのは……」

「はい、無事に芽吹きました。これが我がストラが誇る聖遺物、黄金樹ですよ」

「へ?」

いきなりの宣言に、ソラが間抜けな声で応じる。

たぶんトールと同じで、探求神殿にあるオードルの薬房の温室に生えている木を連想したのだろう。 

二人の様子をおかしそうに笑ったユーリルは、あっさりと種明かしをしてくれる。

「あれはリンゴの木に、黄金樹の枝を接ぎ木したものなんですよ。聖遺物の力は受け継いでいますが、大瘴穴を塞ぐほどの物ではありません」

「接ぎ木……、まさか!?」

薬房の主オードルは植物に属する聖遺物の専門家であると語っていたユーリルの言葉が、またもトールの脳内に駆け巡る。

「ええ、人の体に宿してこそ黄金樹の真の力は発揮されます。聖遺物とはそのような物だと、トールさんもよくご存知ですよね」

周囲の人間や宿主の様々な情報を吸収することで、聖遺物はその力を示すことができる。

トールの知る限り、解放神殿の"欲喰の灯明"は人の欲望を、交易神殿の"勿憶草"は記憶を、そして法廷神殿の"罪喰らいの獣"はその名の通り罪の感情を餌にしていた。

「黄金樹は……、何を犠牲にするんですか?」

「誰しもが持つ普遍的なものですね。お分かりになりますか?」

「うーん、探求神殿の役割って学校だから、あっ、知識とかですか?」

「ふふ、それらしいお答えにすぐに行き着くのは素晴らしいですね、ソラさん」

教師らしい褒め方をしたユーリルは、もったいぶる素振りもなく解答を明かす。

「答えは若さです」

驚きで目を丸くする少女に、ユーリルは詳しい説明を続ける。

様々な言い方はあるが、ようは寿命や生命力といったものに近いらしい。

子どもは特に多いため、学校の経営が一番、集めるのに効率が良いとも。 

「もちろん心配するほど、吸収はいたしません。ほんの少し成長が早まる程度ですね」

温室にある黄金樹には、その吸い取った若さを果実として宿らせるのだという。

そしてそれを食せばわずかだが若返りの効き目があるのだと、灰耳族の女性は淡々と語った。

冒険者限定で配布しているのは、少しでも長く活動してほしい保護目的のためらしい。

また販売しているのは神殿の運営資金に充てているためで、そのおかげで学校の授業料などは基本的に無償となっている。

「若返りかー、あれ、もしかしてオードルさんの見た目って?」

「はい、世話係の特権ですね」

おそらく神殿長のミーラリリーラも同様なのだろう。

二人ともかなりの年齢のはずだが、明らかに三十代前後の外見を維持している。

あるいはユーリルも冒険者を続けていれば、同じく見た目は若々しいままであったかもしれない。

そういえばオードルは、トールが青冠草を<復元>してみせた時も、ほとんど驚いた様子を見せなかった。

若返りというものに慣れていたのなら、その態度にも頷ける。

同時にトールは、ユーリルが他人に対して無償の奉仕を厭わない理由もそれとなく理解する。 

他者の若さを吸い取っていくことへ、少しでも報いるためなのだろう。

「驚かせてしまってごめんなさい。ふふ、でも実はムムさんは気付いてくれてましたね」

明かされた事実の大きさに言葉を失くすトールたちへ、ユーリルは子どもの金の巻き毛をそっと撫で付けながら悪戯っ子のような笑みを浮かべた。

かぶと虫にリンゴの芯を食べさせていたムーは、自分の名前が聞こえたのか顔を上げる。

しばしユーリルをじっと見つめた子どもは、ぽつりと問いかけた。

「ユーばあちゃんは、どっかいったりしない?」

「はい、私はどこにも行きませんよ。どうしたんですか?」

「ブチがなー、からだがだんだんかたくなって、ムーいっしょうけんめいこすったんだけど、いつのまにかいなくなってなー」

気がつけばムーの紫の瞳には、大粒の雫が盛り上がっていた。

ブチというのは推測だが、ムーが路地裏で寝起きしていた時に一緒に暮らしていた猫の名前だろう。

人一倍、ユーリルの膝の上が大好きなムーなら、その異変を真っ先に察してもおかしくはない。

ここのところ、度々ユーリルの手伝いをしたり体をほぐそうとしていた子どもの姿を、トールは今さらながら思い出す。

「黄金樹を体に宿すと、人よりも早く若さは失われます。だけど安心してください。トールさんがおられる限り、不要の心配ですからね」

「トーちゃんがいるとあんしんかー。うん、わかった!」

ムーは強く頷くと、ユーリルの胸に飛び込むように抱きつく。

頬をピッタリとくっつけ合う二人を見ながら、トールは何も言えずに拳を強く握りしめた。 

ユーリルの異変は、その体を<復元>しようとすれば遠からず気付けたはずだ。

しかし廃棄された地下監獄では、第二階層の連獄を抜けた際に体力を戻したくらいで、それ以降は全くユーリルへ魔技を使っていない。

なぜならユーリルの魔力が枯渇するような場面が一切、なかったからだ。

けれども、さすがに膨大な魔力を注ぎ続ける上枝魔技の<冥境止衰>を使った後でも、平然としていたのはおかしすぎた。

知らぬ間にユーリルの魔力は無尽蔵にあるものだと勝手に思い込み、その変化を完全に見逃していたのだ。

そしてつい先ほどユーリルは、さり気なく答えを教えてくれていた。

聖遺物に触れた人間は、魔力の器が広がると。

英傑に至る迷宮へ挑むことに、トールの気持ちは先走り過ぎていたのだろう。

だからといって、ムーやユーリルの変わり様に気づけなかった言い訳にはならない。

深く息を吸い込んだトールは、鋭く首を左右に振った。

ここでさらに見落とすような間抜けには、皆をまとめる資格はない。

伸ばした手をユーリルの手の甲に重ねたトールは、真摯な思いを込めて言葉を絞り出す。

「ユーリルさん、もう隠し事はなしでお願いします。どうか、もっと俺たちを頼りにしてください」

トールの<復元>で若さを取り戻すことで、黄金樹の弊害を防げるのだとしたら、もっと早く教えてくれてもおかしくはない。

しかしムーの聖遺物の取得が駄目になったタイミングで打ち明けるのは、あまりにも出来すぎである。

都合よく代わりが存在すると言われてしまえば、人はそうそう疑うことはない。

じっとトールの目を覗き込んでいたユーリルは、静かに頬を持ち上げた。

とたんに、いつもの氷が溶け出したような笑みが生じる。

「…………やっぱりトールさんは、頼りになりますね」

一息ついたユーリルは、清々しい顔であえて黙っていたことを話してくれた。

やはり黄金樹が求めるのは、若さだけではなかったようだ。

樹皮に覆われたその体が示す通り、黄金樹は宿主の体の一部を自らの組織とじょじょに置き換えてしまう。

それがユーリルの支払うべき代償であった。

ただし体が樹木と同化することで、信じられないほどの魔力を生み出すことも可能にはなる。

そして黄金樹の力を最大限に解き放つと、最後は完全に一体化してしまうのだと。

獣の巫女よりも酷いかもしれない状況に、少女が大きな声を張り上げた。

「そんな! そんなのはダメですよ、ユーリルさん!」

「それでも大瘴穴を封じるには、それしか方法はありません。それにね、ソラさん、同化しても死ぬというわけではないのよ」

「でも、動けないし喋れないんじゃ――」

「ええ、一緒ですね」

「え?」

「だからソラさんと一緒ですよ」

確かに長い間、<停滞>していたソラと状況はよく似通っている。

だが聖遺物には、トールの魔技は通用しない。

元に戻れる保証など、何一つないのだ。

目を潤ませたソラは、何も言わずユーリルに抱きつく。

そのままムーと二人で、ユーリルの胸に顔を埋めてぐりぐりを押し付ける。

トールも重ねていた手に力を込めて、しっかりと握りしめた。

「あらあら、二人とも小さな子どもみたいですよ」

空いた手を持ち上げたユーリルは、ソラとムーの頭を優しく何回か叩いてみせた。

それからトールへ視線を向けて、安心させるように微笑む。

「心配をおかけしますけど、きっと大丈夫ですよ、ソラさん」

「でも!」

「だってトールさんには実績がありますからね。ソラさんを二十五年もかけて助けたって。それに次は三人も居るんですもの。ですから、私――」

トールと握ったままの手を、ユーリルは静かに持ち上げた。

それに気付いたソラが、涙を拭いながらその上に手をかぶせた。

次いでムーが、懸命に伸ばした手をその上に添える。

重なった四人の手を楽しげに見つめながら、ユーリルは高らかに言い放つ。

「助けられる日を、きっとワクワクして待ってますよ」