You know, I'm not a regular bad girl.
13. Huiyue, Urgent (2)
「あなた様こそが、わたくしの、ほうき星なのです」
慧月は黙り込んだ。
ただただ、圧倒されたのだ。
(なにを……言うのよ……)
胸がざわつく。
まるであの夜のほうき星のように、素早く体内を駆け巡っていった感情に、彼女は戸惑った。
(馬鹿じゃないの。わたくしなんかを、星だなんて……)
いつも高みにあり、人々の眼差しを一身に集めていたのは、殿下の胡蝶と例えられる玲琳のほうだ。
だというのに彼女は、地を這うネズミと呼ばれていた慧月こそを、空の頂きを流れる星に例える。
その矛盾がおかしくて、慧月は嘲笑を浮かべた。
――いや、浮かべようとした。
持ち上がるはずの口角が歪み、眉が寄る。
まるで、涙を堪える子どものような顔になっていることに気付き、慧月は慌てて視線を逸らした。
『ね、慧月様。一度、きちんと会ってお話しできませんか。あなた様は以前、わたくしに報復したいと仰った。ですがこの入れ替わりでは、わたくし、いい思いをさせていただいてばかりなのです。わたくしがあなた様を不快にしてきたのなら、入れ替わりではなく、きちんと話し合ってお詫びしたい。もし慧月様が、なにか生きづらさを感じているのなら、それを解消するお手伝いを――』
「結構よ」
ひたむきな表情で身を乗り出す玲琳を、素っ気なく遮る。
傷付いたように息を呑む相手に、慧月は今度こそ挑発的な笑みを浮かべてみせた。
「体調が回復さえしたら、ようやく本格的にいい思いができるのですもの。わたくしは誰からも愛され、あなたは皆から嫌われるのよ。いい思いをしてしまうから、だなんてきれいごとを、そのときになっても言えるといいわねぇ?」
騙されてはいけない。
これまで周囲から溺れるほどに愛されてきた女が、朱 慧月の境遇に追いやられて、「いい思い」などできるはずがないのだ。
いくら健康とはいえ、容色は冴えず、傍付きの女官もなしに蔵に追いやられて。
真実を封じられ、誰からも敵意を向けられる。
(思い出すのよ、わたくしが送ってきたこれまでの日々を)
火遊びの果てに生まれた娘を、両親は愛そうとはしなかったし、一族の落ちこぼれだった母親と、道士崩れの父親に対する、親族の目は厳しかった。
親は慧月にろくに手もかけず、借金をこしらえて死に、朱家の縁類はそれに手を差し伸べることもせず、怪しげな力を持つ慧月に対し、ひたすら冷ややかだったのだ。
唯一朱貴妃だけが、「素晴らしい才能ですね」と褒めて引き取ってくれたが――彼女は教育にはさほど熱心ではなく、雛宮に上がった慧月が四苦八苦していても、困ったように見るだけだった。
軽蔑。
嘲笑。困惑。
――無視。
それらが、慧月に常に浴びせられてきたものだったのだから。
「あなたは、皆から、馬鹿にされるのよ」
現実になることを願って、唱える。
「善行を働こうが怪しまれ、生き抜こうが図太さを嘲笑われ、油断すると失笑されるの」
そうだ。
それこそが、自分の願い。
『慧月様……』
「そうだわ、三日後にはもう中元節ね。雛宮の忌も、あなたの謹慎も明けているでしょう。となれば、他家の雛女たちが、こぞってあなたを引っ張り出して、石を投げようとするでしょうねぇ。特に、金家の清佳様あたりは、遠慮なく仕掛けてくることでしょうよ。現に彼女は、『玲琳《わたくし》』に媚びて地位を高めようと、せっせと贈り物までしてくるのだもの」
慧月は、部屋の一隅に置かれた香炉を、得意げに振り返った。
金家からの見舞いとして差し出された、上等な品だ。
むろん彼女とて、金家からの贈り物を、素直な好意の表れと受け止めるほど愚かではない。
だが、それでいいのだ。
擦り寄るべき相手と見なされること自体が、心地よい。
「わたくしはこの体調だから、欠席するけれど。周囲には、しくしく泣きながら、『朱 慧月のせいで儀式に出られなくて悲しい』と訴えておくわ。巡り巡って、殿下や清佳様があなたにどんな『仕返し』をしてくれるものか――本当に楽しみね」
呼吸はすっかり戻っている。
熱を抑える薬も混ざっていたのか、関節の痛みもだいぶ楽になった。
もうこれ以上玲琳と話す必要はないと判じた慧月は、勝手に会話を打ち切って、ふっと蝋燭の火を吹き消した。
「お待ちくださ――」
「雛女様!」
掻き消えてしまった火に向かって身を乗り出した瞬間、蔵の入口から声が掛かり、玲琳は慌てて振り向いた。
「莉莉!」
声の持ち主は、莉莉である。
お帰りなさいと玲琳が迎えると、相手ばつが悪そうに鼻を鳴らし、暗い蔵の中へと入ってきた。
「あたしのこと、待ってたんですか? いえ、言い訳は結構。くり抜き窓から、明かりが漏れてましたから。さては、あたしが戻って来るとわかったから、慌てて火を消したんでしょう」
口調は相変わらず蓮っ葉だが、語尾に敬語が戻っている。
だいぶ敵意を解いてくれたのがわかったのと、つんとした態を装いながらも、「待っていてもらえて嬉しい」という感情が伝わってくるのが微笑ましくて、玲琳は思わず小さく笑みをこぼした。
「……なに笑ってるんです?」
「いえ、べつに。それで、無事に簪とお米は返せましたか?」
話題を逸らしがてら、気になっていたことを問うと、莉莉は「……それが」と歯切れ悪く答えた。
「どれだけ待っても、待ち合わせの場に、雅容様は来なかったんです」
「そうなのですか?」
「もしかしたら、すでに、あたしを鷲官に突き出そうと動いているのかもしれません」
暗い声音は、その事態を警戒してのもののようである。
玲琳は少し考え、首を振った。
「もしそうなら、あの機敏な鷲官長様ですもの、とっくの昔に莉莉を捕らえにきているはずです。それがないということは、先方も、これ以上莉莉と取引を重ねることは危険だと判断したということではないでしょうか」
「……だといいんですけど」
「きっとそうですよ。だって、殿下と鷲官長様がこの場にお越しになったことは、後宮中に広がっているはず。おそらくは、莉莉が刃物を振り回したということもね。この状況下で、莉莉を盗人ですと訴え出ようものなら、莉莉との関係性を疑われてしまいますもの。わたくしが白練の方なら、手を引きますわ」
穏やかな、けれどきっぱりとした物言いに、莉莉があからさまにほっとしたような息を漏らす。
「なら、そう思うことにします。あたしも、この件からはこれっきり手を引くということで――」
「なにを言っているのですか?」
だがそれを、玲琳の朗らかな声が遮った。
「つまり、女官同士では決着がつかなかったということでしょう? ならばここからは、その主人同士――わたくしと清佳様の間で、落とし前を付けるべき場面ということではありませんか」
「はい!?」
思いもよらぬ好戦的な発言に、莉莉はぎょっとする。
「いや……ちょっと待って、なに言ってんですか? だいたい、謹慎中の身の上で、他家の雛女に会えるわけがないでしょう!?」
「いえいえ、折しも三日後は中元節。謹慎も解け、儀式に参加すれば、もれなく清佳様にお会いできます」
「いや、それは……」
莉莉は口ごもった。
ただでさえ、芸事に疎かった朱 慧月。
それも、黄 玲琳を傷付けた容疑の拭いきれぬ状況でのこのこと儀式に参加して、とうてい無事で済むとは思われない。
それでなくとも、儀式に立ち会える上級女官が言うには、朱 慧月の振る舞いは垢抜けなく、歩くたびに失笑が巻き起こり、朱家の者は居たたまれない時間を過ごさねばならないとのことなのに。
「朱貴妃様は、中元節の儀には出なくていいと、言っていたじゃないですか」
「出なくていい、ということは、出てもいい、ということです」
「言っておきますけど、今の境遇の慧月様じゃ、上級女官たちも随伴を堂々と拒否すると思いますよ。正式な行事なのに、付き添いのいない雛女なんて、ありえないですよ」
「三日もあれば、銀朱の衣をきれいに繕えるから大丈夫です。ね、莉莉上級女官殿?」
莉莉の抗議を、相手はまるで、巨岩がでこぼこ道を難なく転がっていくようにやり過ごしていく。
「いや、でも、中元節の儀って、豊穣を願って舞を奉納するじゃないですか。正直、あんた、踊りの才能なんてまったく――」
「莉莉」
それでもしぶとく食い下がった莉莉だが、とうとう相手は、きっぱりとそれを封じた。
「わたくしはね。大切な女官の健康を損ねた方に一矢報いねば、雛女として、気が済まないのです」
「…………」
そこまで言われては、反論などできない。
「……なら、お好きに。後悔しても知りませんから」
「えっ。そこは手を取り合って、えいえいおう! の流れではありませんか? さあ、声を出していきましょう?」
「夜更けになに言ってるんですか。寝ますよ」
莉莉は素っ気なく言い捨てて、寝台代わりの藁に横たわった。
「莉莉、つれないです……」
横から聞こえる悲しげな呟きは、寝返りを打って、聞こえない振りをする。
目を閉じるまでもなく、火の一つも灯らない蔵の中は真っ暗だったが、莉莉はこの日、そのことを初めて感謝した。
(女官の敵討ちとか、ほんと、あんたいったい誰なんだよ。べつに……嬉しくなんかないんだから)
もし明るかったら、銀朱の衣と同じくらい赤くなった頬に、気付かれてしまっただろうから。
いつだって莉莉を庇い、守ってくれる人物――新しい朱 慧月。
安堵と、まぎれもない喜びの念に滲んだ涙を、莉莉はこっそり拳の裏でぬぐい取った。