You know, I'm not a regular bad girl.
18. Lin Lin, Dance (5)
「皇后陛下。急ぎ、黄麒宮にお戻りくださいませ。雛女様が……玲琳様が、苦しんでおいでです!」
「なんだと?」
不吉な報告に、母后を差し置いて、尭明がさっと立ち上がる。
冬雪は、珍しく焦りの感情を前面に出し、震える声で告げた。
「熱が……熱が下がらぬのです。肌が燃えるように熱くてこれまでにないほどです。意識も朦朧とされ、幻覚もあるようで、つい先ほど、痙攣まで起こされました。薬師を呼びましたが、どのような薬もまるで効きませぬ。病がちな玲琳様とはいえ、このようなことは初めてで、このままでは、……このままではっ」
冬雪が声を詰まらせる。
続きを聞かずとも知れた不吉さに、室はにわかにざわめいた。
「――静まれ」
だが、そこに、凛とした女の声が響く。
人々をはっとさせ、一瞬で場の空気を掌握してみせたその人こそ、皇后、黄 絹秀であった。
「委細あいわかった。だが、冬雪よ、藤黄《にょかん》の長ともあろう者が、それほどまでに動揺を露わにするものでない」
すっと席を立ち、重厚な裾を捌いた絹秀は、女性にしては低い、貫禄ある声で窘める。
「玲琳はあれで、芯の強い女子《おなご》。こたびもきっと、気丈に耐えておろうに、周囲が取り乱してどうするのだ」
「ですが、陛下……っ。こたびばかりは、いつもと様子が異なるのです。もしかしたら、玲琳様は、今日一日とて――」
「仮に」
冬雪はそれでも、瞳に恐怖を浮かべ言い募ったが、絹秀はそれをきっぱりと遮った。
「仮に妾《わらわ》の愛するあの子が、今日一日で命を燃やしきってしまうというのなら、それがあの子の天命なのだ」
「陛下……!」
「ただし、あの子がそれに抗い、明日までをも生きようとするのなら、あらゆる手助けを惜しんではならぬ。よいか、冬雪。取り乱さず、かつ全力で臨むのだぞ」
絹秀は踵を返し、さっさと室を出て行こうとする。
儀式を放り出し、黄麒宮に向かおうと言うのだろう。尭明も素早く、それに続いた。
「金 清佳よ、見事な儀であったぞ。中座の非礼を許せ」
「……もったいないお言葉でございます」
声を掛けられた清佳は、急な展開に頭が追い付かないのか、呆然とした様子で応じる。
だが、そのまま室を去ろうとした絹秀を、鋭く呼び止める者があった。
「お待ちくださいませ、陛下、殿下!」
なんと、朱 慧月である。
彼女は素早く舞台に膝をつき、真っすぐな視線で絹秀を、そして尭明を射抜いた。
「お願いでございます。わたくしにも、黄麒宮に伺わせてくださいませ」
「なんだと?」
「わたくしには、看病の心得がございます。かの方の病状を、きっと癒せると思うのです」
必死さの滲み出る願いを、しかし絹秀はあっさりと退けた。
「笑止」
彼女は、意志の強そうな顔を、不快げに歪めていた。
「薬師を上回る腕前だとでも言うのか。いいか? 妾の知る限り、そんな不遜を吐いてよいのは、玲琳本人だけだ」
「ですので――!」
「弁えろ、朱 慧月よ」
悲壮な顔で身を乗り出した朱 慧月を、今度は尭明が制した。
「いいか。獣尋の儀で無罪になったとはいえ、おまえが玲琳に害意を抱いていたことは、この場の誰もが知っていることだ。そんな女をなぜ、瀕死の床にある玲琳に近付けると思う!」
張りのある王者らしい声は、今や抑制を欠いている。
それだけ、尭明が取り乱している証拠であった。
愛しい者を失いかけて、冷静でいられる男などいない。
大地のようにどっしりと構える母后とは異なり、父親譲りの玄家の血が、堰を押し流す勢いで、心の内で暴れ狂っているのだ。
彼はまた、この数分の出来事を悔いてもいた。
心の内に入れたのは玲琳だけ。
ほかの何を差し置いても、唯一彼女だけ――天が遣わせたような、可憐な蝶を、慈しむと誓ったのに。
(だというのに、わずかでも、ほかの女に目を奪われたりなどしたから)
だから、天は尭明から玲琳を奪おうと言うのではないか。
朱 慧月の舞に心奪われたことによる無意識の罪悪感が、今、苛烈な悔いと敵意になって、尭明を蝕んだのだ。
「いいか。おまえはけっして黄麒宮に近付くな。玲琳は、病魔からも害意からも、俺たちで守るのだ」
「いいえ、殿下! わたくしは、害意など抱いておりません。お願いでございます、信じてくださいませ。わたくしの、なにに懸けたっていい。どうか、信じてくださいませ!」
獣尋の儀の直前、命乞いすらほとんどしなかった朱 慧月が、今や、血相を変えて叫んでいる。
尭明は眉を寄せた。
「なぜ、玲琳の命に、おまえがそこまで躍起になる。日頃、あれほど玲琳のことを妬み、始終、疎ましげな視線を送っていたくせに」
「えっ!? そうなのですか!?」
「は?」
不可解な反応に尭明が眉間の皺を深めると、彼女は慌てたように「いえ」と首を振った。
「そ、そうでした。わたくし、始終見つめておりました。今思い出しました。ですがそれは、害意があったからではなく……そのう、か、彼女のことが、す、好き? だったのです!」
「……なぜそこで照れる」
いよいよもって、朱 慧月の人となりがわからない。
困惑した尭明は、しかしそんなことをしている場合ではないと、踵を返そうとした。
が、彼女はいよいよ立ち上がり、こちらへと駆け寄ってくる。
「お願いでございます。では、先ほどの舞の褒美ということにしてくださいませ。水晶よりも金細工よりも、わたくしは看病をする権利が欲しゅうございます!」
「くどい!」
尭明は裾に向かって伸ばされた腕を振り払い、一喝した。
「信用できぬと言っているだろう!」
びり、と空気が震えるほどの声。
精悍な顔に龍気が滲み、周囲の多くは本能的に、じりっと膝ごと後ずさった。
だが、朱 慧月はそれでも諦めない。
背筋をぴんと伸ばしたまま、尭明に向き直った。
「お願いでございます。彼女を追い詰めてしまったことのあるわたくしだからこそ、救わねば」
「――よかろう」
膠着した事態を破ったのは、絹秀だった。
驚いて振り返った息子に、彼女は眉の片方を上げて応じる。
母子というよりは、武官同士のやり取りのようであった。
「朱 慧月。そこまで言うなら、おまえに機会をやろう」
「陛下! ありがとうござい――」
「ただし、妾の愛しい玲琳を罵ったおまえを、黄麒宮の誰も信用しておらぬというのは事実だ。よって、おまえには看病の機会ではなく、信用を得る機会を与える」
「え……?」
戸惑いに瞳を揺らした雛女相手に、絹秀はにいと口の端を上げ、鷲官長を呼んだ。
「辰宇。破魔の弓を持て」
「は?」
辰宇が怪訝そうに眉を寄せる。
それでも命令に従い、五色の糸で飾られていた神器の弓を差し出すと、絹秀はそれを、朱 慧月に突きつけた。
「これを引け。一晩だ」
「え?」
「破魔の弓は、その弦音で病魔を怯えさせ、的を射る音によって病魔を祓うという。玲琳の回復を祈りながら、一晩中弓を引けたなら、おまえに害意がないことを認め、看病を許そう」
いかにも黄家の人間らしい、根性によって人の資質を測ろうとする行為である。
「お待ちください、陛下」
だがそれに、意外にも辰宇が異議を挟んだ。
「破魔の弓は、男でも引くのに難儀するほどの強弓。さらに言えば、それは皇帝陛下――玄家が管理してきた、水の気の強い神器です。火の加護のある朱家の雛女が扱うには向かないでしょう」
「だからこそだ」
だが、絹秀はその申し出を一蹴した。
「誠意を測るための行為が、容易なものであっていいはずがないだろう?」
「ですが……では、そう、一晩掛けていては、せっかくの看病の申し出も、無駄になってしまうかもしれません」
「言うたであろう。そのときは、それが玲琳の天命なのだと。これ以上の異議は越権だぞ、辰宇よ」
絹秀はぴしゃりと反論を封じると、鋭い眼光で朱 慧月を射抜いた。
「妾のかわいい玲琳を、分不相応にも妬み、罵ったこと。むろん妾とて、許してはおらぬのだ。浅はかな善意を見せつけようと企むくらいなら、まずは地に額づいて詫びることだな」
結局のところ、彼女もまた、朱 慧月憎しの念に燃える一人なのである。
絹秀は今度こそ踵を返すと、素早く室を出て行った。
尭明もすぐにそれに続く。
儀式の場には、人々が呆然としたまま残された。
ふと視線をやれば、朱 慧月は強弓を受け取ったまま無言で俯いている。
さすがに言葉もないかと、女官の莉莉が労しげな一瞥を向け、そして、辰宇もまた、彼女へと近付いた。
「朱 慧月。これは要は、大人しくしていろということだ。今さらおまえが黄 玲琳のために奔走したとしても、得られるものなど少なかろう――」
「ふふ」
だが、彼女が突然、小さく笑い声を上げたので、辰宇は目を見開く羽目になった。
「朱 慧月?」
「弓を。一晩中。ふふ、たしかになんと、やりがいのある挑戦でございましょう。さすがは皇后陛下でございます」
彼女はそう呟くと、くるりと傍らの女官に語りかけた。
「気は急きますけれど、たしかに皇后陛下の仰るとおり、彼女はまだ存命のわけですもの。起こってもいないことにやきもきしても、仕方ありませんわね。きっと彼女も、耐えてくれることでしょう」
なにを言っているのか、よくわからない。
だが、獣尋の儀のときと同じく、今の彼女が、件の――凄みさえ感じさせる達観の域にあることは、辰宇にもよくわかった。
「やってみせましょう。徹夜弓……!」
そうして、朱 慧月の顔をした女は、目をきらりと輝かせ、拳を握ったのである。