アーニャは、しばらくぶりに領府タドゥーカに戻ってきた愛する夫、ハーンナン公爵を迎える。ガニマの泉の復活際に出席するため、地元領府を離れて久しい帰還だったが、王都での激務に疲れた領主をさっそく妾館に連れ込んでも、誰一人不平を漏らすものはない。それは、最近二人の円満を祝福し他意なく応援してくれる第二、第三夫人たちの援護射撃にも助けられていた。

もともと二人は、八人の娘たちの養育係として納得した上で後宮入りし、一度たりとも主人である公爵の寵愛を受けたことはない名ばかりの側室であった。しかし王家と違って男性後継者が領主を継承する貴族家としては、今からでも公爵の知性を継いだ子息を求める声は小さくない。まじめすぎるというか、先妻に対する思いが深すぎることと、8人の愛娘たちの成長を見守ることだけが楽しみだった公爵は、そういったことにまったく耳を貸さなかった。その公爵の態度がアーニャの登場とともに一変する。だが、今度はその侯爵の変わりようや、アーニャの傍若無人ぶりに、はじめアーニャとの間に世継ぎを求める声はほとんどなかったといってよい。しかし殿下の来訪以来その状況も変化を遂げる。輿入れ当初は評判の芳しくなかったアーニャの変貌とともに、現在はアーニャとの間に子宝を期待する声が高まってきているのだった。

そんなアーニャが公爵と離れて一人タドゥーカにいたのには事情がある。ガニマの泉の復活際が終わってすぐに急な至高評議が開催されたため、アーニャは一人一足先にタドゥーカに帰ってきていたのだが、王都で発生した問題がかなり揉めたようで数日間公爵は足止めされたらしいのだ。そんなわけで公爵の顔を見るのは久しぶりというアーニャであった。こんなことは魔王城急襲隊が凱旋した際に、アレサンドロが意識不明で戻ってくるという急報によって公爵が至高評議に招集され、魔族軍が踏みつぶしていった自領の復興も放り出して、一人駆けつけていったとき以来のご無沙汰であった。

「寂しかったですわ、こんなに長いこと放って置かれるのめったにないことですもの。」

「すまなかったね、アーニャ。つまらない仕事でかなり手間取ってしまった。つまらないことでもないのだが要するに建て前がどうとか、そういった話がほとんどだったよ。」

「でももう片付いたのですね。ずっと私の側にいてくださいまし。」

「そうだねすぐに帰れると思って君を先に返したのが間違いだった。こんなに何日も足止めされるとは思っていなかったものだから。私にだってこちらにもいろいろとしなければならない重大要件がたくさんあるのに──。本当に困ったものだ。」

「こちの人、もしかするとお急ぎの仕事がございましたか。」

アーニャは帰国早々に、相手の都合も確かめず、早々に二人の愛の巣に主人を引っ張り込んだことを申し訳なく思う。本当に大事な要件があっても、現在はアーニャから滲み出る魔族の力に起因する魔性の力が知らず知らずに発揮され、公爵はあらがうことはできないのだ。ただアーニャの知るところでは領内に戻った公爵が一分一秒を惜しんで取り組まなければならない課題は例のことを除いてアーニャがこの数日のうちに目処をつけておいたはずである。そしてそれはこちらへ帰還するまでの間にコウモリなどの手段によってすでに公爵にも知らされているはずであっあった。ただ報告者の胸先三寸で、各案件にアーニャがどれほど携わったのかはそれぞれ温度差があると思われるが、今のアーニャにとってそのようなことは些末なことにすぎない。愛する公爵が治めるこの領地が少しでも良くなるのであれば、あるいは公爵の仕事が少しでも楽になるのであれば、自分の名前が前に出るのかどうかということは大した問題にはならないのだ。

「大丈夫だよ。もちろんお前とこうやって時間を過ごすことが最も重大要件だからね。」

「まあ、こちの人はうれしいことを言ってくれますこと。ご褒美にこうしてさしあげますわ──」

アーニャは自分の柔肌を押し付けて、公爵が最も好んでいるご奉仕をさせてもらう。公爵はいささか戸惑っているようだが、自分がそんな風に言えばきっとそういうお返しがあるだろうということは薄々察していたようで、あからさまにではないがにこやかにそのご奉仕を味わっていた。

「うんうん、それにね領内でお預かりしていた罪人を取り逃がしたことも気にはなることの一つなんだが、それを手引きしたものが誰なのかというのがわかっていないだろう。実はまもなく新王陛下による地方脈のメンテナンスが始まるので、そういう警備体制を強化していこうということになっているんだよ。」

「まあ、それはこちの人のご提案ではありませんの?いつもであれば、そういうことを提案されるのは──。」

「そうだね、いつもならマーガレッタ隊長の意見具申によるものなんだが、彼女がいない今、やはりこの件を切り出したのはクロスさまだ。」

もちろんアーニャも、王城内での魔女対策のイニシアチブは今やクロスが握っていることは心得ていた。あえてそういうことはアーニャは知らないことにしているが、いつどこで相槌を打つなど、なぜそこで違和感を持たないのかとか公爵から不審がられるかもしれないということで、そういった状況を公爵の方から教えてもらえるようあえてとぼけて見せたのだった。

「まあ、最近はもう守護妖精様も至上評議に?」

「もちろんだ。マーガレッタ隊長不在の今、形としては隊長代理として出席しているキャラブレ副隊長の付き添いということにはなっているものの、誰もが龍人である彼女の意見には一目置いている。アーニャも、クロスさまとはあのとき以来、仲良くさせてもらっているのだろう?復活際の間も、ちょくちょくお会いしていたようじゃないか。」

こういったところはさすがに抜け目がない。聞けば主様が初めて公爵にお会いになった時すこぶる頭のキレそうないわば頭脳戦士だと見抜かれたという話を聞くが、アーニャが発する魔族の魅力にとりつかれていてもなおこうしてその片鱗を見せることが多い。

そのため公爵に対して、いや、だからこそ隠し事の多いアーニャとしては、一言一句一挙手一投足に細心の注意を払わなければならなかった。相手が守護妖精と名高い、しかも年端のいかない同性のクロスであるから問題はないが、王都から派遣された野党狩りのメンバーに貸し与えている山荘に行ってチャイマスクの信用を得るためとはいえ、ソルジャー・ドンジャニと演じている擬態などを知られようものなら大変なことになってしまう。もちろん痴態を演じている相手はソルジャー・ドンジャニに変化したラーゴ親衛隊の魔族ウイプリーのヤチヨであるのだが。

「ええ、そうですのよ。クロス様は私などのようなものにも特に優しくしていただき、王国の頭脳と言われるハーンナン公爵のために誠心誠意尽くしてあげてくださいねと、くれぐれもお願いされておりますの。ですから私、公爵様の留守の間も出来る限り、領地の繁栄のために頑張ってまいりましたのよ。たっぷり褒めてくださいましね。」

「そうらしいねアーニャが頑張っていることはみんなから聞いているよ。まだ慣れない頃は、やっかみや誤解もあって風当たりが強かったようだが、やはりみんなアーニャの良いところをようやく分かってくれたようだ。私も嬉しいよ。アーニャは本当にいい子だ、いやよき妃《きさき》だと思う。」