Different worlds of the last heaven and knights of the fist.
428. α ter/; ruleum
「っ! まさか、彼が……!?」
二人の反応から察したか、ヘフネルも同じく瞠目した。しかしまだその判断は早計とばかり、ベルグレッテが口を開く。
「いえ。ゴルテル氏を直接的に疑っているわけではありません。しかし、氏が当人すら自覚のないうちに、何者かによって利用された……意図的に動きを誘導されたのでは、と思い当たる節がありまして」
「そ、そう……、なのですか」
ともあれ、好都合だ。
ゴルテルについて情報を収集するつもりだったが、ヘフネルが知っているのであれば足を使って嗅ぎ回る手間も省ける。
降ってきた機を逃さぬよう、流護は質問を投げかける。
「そのゴルテルさんって人とは、仲よかったりするんすか?」
「ええと……同期とは言いましたが、実のところほとんど話したこともないんです。勤務地も離れていますしね。彼は正規兵となる際、この皇都地区に配属されたと聞いています。そう言えば……僕も久しぶりに皇都へやってきましたが、まだ一度も顔を合わせていませんね。まあ、会ってもお互いに目礼する程度ですけど」
レインディールに負けず劣らずの広さを誇る宮殿や城下町である。兵士の数も多い。まるで出会わずともおかしくはないだろう。
「なるほど……。同期ということは、ヘフネルさんと近しい年代のかたなのでしょうか」
「そうですね。年齢は確か、僕より三つ……いや、二つ上? だったと思います」
曖昧なあたり、さして親しい間柄でないことは窺える。
「その人、腕前の方はどうなんすか? 詠術士《メイジ》としてこう、実戦とか」
「うーん……可もなく不可もなく、平均的でしたよ。訓練生の中でも真ん中ぐらい、といった感じで。僕と近しい成績だったので、そこはよく覚えています」
「なるほどな……」
聞く限り、ごく普通の一般兵といった印象だろうか。
「皇都の片隅の地区出身で、ごく一般的な平民の家の長男だと聞いています。先ほどベルグレッテさんが挙げた条件には、あまり当てはまっていないと思いますね……」
(ってことは、やっぱ……)
少なくとも、ゴルテルが実行犯であるセンはより薄まる。
何しろ、この敵らはサベルとエドヴィンを瀕死に追い込んでいるのだ。
(特に、サベルをあそこまでやれるとなると……相当な腕の詠術士《メイジ》だろうし)
例えば兵士の顔で友好を装って不意打ちを仕掛けたなら、一方的に致命傷を負わせることも、あるいはできるかもしれない。
が、それだけならばまだしも、この『犯人』は燃え落ちる展示室から姿を消しているのだ。
それも、ただの火事ではない。サベルが相打ち狙いで放っただろう紫炎――『万物炎上』や『完全制御』といった特性を持つ術を、掻い潜って脱出している。これだけでも、敵の詠術士《メイジ》としての技量が窺えた。
「僕らの時は、ガミーハが突出して優秀で。ああ、先日のユーバスルラでお二人とも顔を合わせてますね。覚えておられますか?」
「ああ、ヘフネルさんの幼馴染みの人っすよね。成績よかったんすか」
「はい。軽そうな奴ですけど……ああ見えて主席だったんですよ」
「主席……ってことはトップか。へー、そりゃ凄いっすね」
ガミーハ・ブレストン。
不真面目そうというか、言動からも兵士らしからぬ軽さが見受けられたり、オルケスターを軽視していたり、ベルグレッテやジュリーをナンパしようとたりと、総じていい加減な印象を受ける人物だったが、これは確かに意外だった。
「あいつはああ見えて熱いところがあって、郷土愛も強くて……。正規兵となった時も、自ら志願してベンディスム将軍の下についたんです。子供の頃から、あの方に憧れていましたから」
「はー、そうなんすね……」
ヘフネルの語り口で分かる。その幼少時代からの友人を、誇りに思っているのだろう。
「ベンディスム将軍といえば、『氷精狩り』の折にも活躍された歴戦の兵士にして戦術家。バダルノイスの戦を語るうえでは、絶対に欠かせない存在です。スヴォールン様やメルティナ殿のような華やかさはないかもしれませんが、だからこそ僕たちみたいな平民にとっては憧れというか……身近に思えて、親近感があるんですよね」
「は、はあ。なるほど……」
ちょっと話が逸れてきた。
(嬉しそうに語るヘフネルさんには悪いけど、どう軌道修正したもんか……)
と考え始める流護だったが、
「あ、そうそう。確かゴルテルさんも、ベンディスム将軍の下に配属されているはずですよ」
「…………」
途中から黙って聞いていたベルグレッテが、顎元に指を添える。
「ベンディスム将軍でしたら、ゴルテルさんについても詳しいはずですよ。何しろ、ご自分の部下ですから」
「……ベンディスム将軍について、もう少し詳しくお聞きしてもよろしいでしょうか?」
少女騎士がおもむろに、静かに問いかけた。
「えっ? ええ、いいですよ。そうですね、今ほども話しましたが……勇猛、実直、堅実……そんな言葉が似合う、一般兵から地道に実績を上げていったお人です。バダルノイスにとっては欠かせない裏方のような存在で…………、……ち、ちょっと待ってください」
一旦は誇らしげに説明を始めたヘフネルだったが、ベルグレッテの意図に気付いたか、徐々に言葉を途切れさせる。
「待ってください……ありえません。ありえませんよ、そんなことは……」
声を震わせる若兵の顔は、もはや蒼白となっていた。
「いいですか、さすがにこればかりは……! ベンディスム将軍ほど、バダルノイスのことを思っている方はいません。訳の分からない組織に荷担するなど、絶対にありえないお人なんです……!」
「ま、まあ落ち着いてくださいよヘフネルさん。そのベンディスム将軍が『そう』だ、って話じゃないんで」
「そ、そうかもしれませんが……しかし……!」
バダルノイス兵たる彼にしてみれば、かの将軍に嫌疑が向くこと自体認められない話なのだろう。
「……ベンディスム将軍が『そう』であれば、先日のレノーレとの一件が不可解に思えます」
うろたえるヘフネルを落ち着かせるように、ベルグレッテが切り出す。
「えっ? と、言いますと?」
「ベンディスム将軍とレノーレ、そしてメルティナ氏。仮にこの三者がオルケスターであれば、あの捕り物劇そのものが茶番だったことになります。お互いに捕まえるふり、追われるふりをしていただけ……。私としては、あの場でそのような行いをする意味が見出だせません」
もしかすれば、流護たちがレノーレを確保していたかもしれないのだ。オルケスターにしてみれば、そんな危険を冒してまで『茶番』を演じる理由もないように思える。そもそも、その『茶番』をあの場で誰に対して見せるというのか。
それに、
(あん時のレノーレの反応が……演技だったとは思えねえんだよな……)
ベンディスム将軍を前にした折の焦り。多勢の兵士や流護たちに包囲された際の諦め。そして、メルティナが助けに現れた瞬間の驚愕。
ミディール学院では常にポーカーフェイスだった風雪の少女が見せたそれらの表情には、偽りの雰囲気など感じられなかった。そういった繕いが得意な性格とも思えない。
「そ、そうですよ! ベンディスム将軍だけは、さすがにありえませんって」
笑顔の戻るヘフネルだが、それも絶対とは言い切れないのだ。例えばその『茶番』があったことで、将軍はこうして疑いから外れかけている。それこそが狙いかもしれない。
ともあれ現時点では全てが推測に次ぐ推測、疑いに次ぐ疑い。今は少しでも真実に近づくために、確かな情報がいる。
「……ヘフネルさん、話題は変わるのですが」
ベンディスム将軍の件に関してはひとまず保留としたのだろう。少女騎士は、ここからは遠いロビーの方角に視線を巡らせながら切り出した。
「先ほどのミガシンティーア氏に随伴していた兵士の方々は、どういった人たちなのでしょうか?」
「っ! どういった人たち、とは……どういう意味ですか?」
ついさっき廊下で遭遇した白騎士、その後に続いていた三人の兵士。後者の装いはヘフネルと全く同じ、銀の鎧姿だった。見たまま、正規兵以外の何でもないだろう。
しかし問われたヘフネルに垣間見えた一瞬の戸惑いが、ベルグレッテの指摘の鋭さを示している。
「ヘフネルさんは……『私たちがオルケスターに狙われている』と知って、大変驚かれました」
「そ、それはもちろんです。個人的に知り合った皆さんが、ということもそうですが……まず皆さんは、オームゾルフ祀神長が直々にお呼びしたお客様ですから。そんな人たちが、不貞の輩に襲われたとなれば……」
バダルノイス指導者――王たる人物に対する侮辱や反抗、とも受け取れるだろう。兵ならば憤激して然るべき事態、とも捉えられる。
「ですが……ミガシンティーア氏に随伴していた兵士の方々は、あの場でその事実を耳にしても、まるで動じる素振りすらありませんでした。……いえ、それ以前に、私たちの存在など視界にも入っていないかのような……」
「それは……」
痛いところを突かれたように、ヘフネルが顔を曇らせる。
「……『彼ら』は、白士隊なので」
「はくしたい?」
初めて聞く単語に、流護はもちろんベルグレッテも眉をひそめた。
「ああ、正式な名称ではないんです。誰ともなく呼んでいる、通称みたいなもので……」
ヘフネルは空になった食器へ視線を落としながら、どこか観念したように続けた。
「……お恥ずかしながら……現在のバダルノイスの兵団は、お世辞にもまとまっているとは言えない状態なんです。具体的には、自ずと三つの派閥に分かれています」
彼が語る内容はこうだった。
ひとつは、オームゾルフ直属の一派。キュアレネー神教団出身の元僧兵などを中心とした、聖女にして現王の支持者で構成される。
もうひとつは、『雪嵐白騎士隊《グラッシェラ・デュエラ》』に従う兵たち。スヴォールンらとともに『氷精狩り』や内乱を切り抜けた腕利きの実戦派ばかりが集い、いつしか白士隊と呼ばれるようになった。
そして最後に、そのどちらにも属さない者たち。中立、と呼べるだろうか。本来、もっとも当たり前というべき立ち位置の一般兵である。
「それで、さっきのミガシンティーア……さんと一緒にいたのが、白士隊ってやつなのな」
「はい。きっと彼らは、皆さんの件についてもミガシンティーア様からすでに聞かされていたのでしょう」
「具体的に何か違うんすか? この白士隊ってのは」
「そうですね……先ほど、ガミーハが同期の中で主席だったと言いましたが……こと実戦においては、白士隊の面々には遠く及びません。何しろ彼らは、過去の混乱期を戦い生き抜いてきた本物の戦士。正式な手順や訓練を経ず、戦場での成り行きで兵になった人も多いと聞きます。平和な時代に訓練生から兵士となった僕らとは、一線を画す存在なんです。人数こそ少ないですが、実戦派の精鋭と呼べる人たちです」
総勢は約五十名。ちなみにこの白士隊、幾度も死線をともにしたゆえ『雪嵐白騎士隊《グラッシェラ・デュエラ》』とは戦友のような間柄であり、移民問題が発端となる動乱を経験したゆえ他国人を嫌う傾向がある、とのことだった。
(俺らに目もくれんかった理由の一つかねえ)
当初バダルノイスの人々は自国以外の者に冷たいと聞いていたが、なるほど彼らはまさに見本のような『それ』なのだろう。
今さらながら少しずつ、この国の内側が明らかになってくるようだった。
「……これらの派閥は、明確に反目し合っているのですか?」
少し遠慮がちなベルグレッテの質問に、ヘフネルはどうにかといった様子で首を横へ振る。
「いえ。あからさまに対立している訳ではありません。ただ、何か行動する場合はそれぞれの集団で分かれることが多いみたいですし、互いに情報の共有などもできているとは言いがたいかと。正直、壁のようなものがあります。お世辞にも足並みが揃っているとは言えず……組織の風通しも悪いですね……。僕の仲間内には、皆さんがオームゾルフ祀神長に招かれてやってきたことを知らない人も多いみたいで」
「……、そう、なのですね」
一瞬だけハッとしたような表情を見せたベルグレッテは、それきり黙り込んでしまった。
「あっ。そういやヘフネルさんはやっぱ、オームゾルフ祀神長派ってやつなんすか?」
場の空気が暗くなってきたので少しからかい気味に尋ねてみる流護だったが、若兵は弱々しい笑顔で首を横に振った。
「いえ。僕はただの一般兵ですから、どちらに属しているということはありません。……というより、本来なら皆が一丸となってバダルノイスのために尽くさなければならないのに……嘆かわしい限りです」
「ああ、うん……なるほど……なんかすいません」
自国の現状について憂う若兵の真剣な顔を見て、茶化そうとしたことが申し訳なくなる少年だった。
「ヘフネルさん。オームゾルフさまと『雪嵐白騎士隊《グラッシェラ・デュエラ》』の間柄というのは、その……良好なものなのでしょうか?」
またも静かに、おもむろに、差し込まれる少女騎士の疑問。
にわかに硬直したヘフネルは慌てて周囲へと首を巡らせ、誰もいないことに安堵したような溜息を吐き出す。
「……お察しの通り、これが……あまり良好、とは言えないのです。『雪嵐白騎士隊《グラッシェラ・デュエラ》』は、前王の過ちを繰り返さないために組織された機関。ただ王に迎合するのではなく、納得できない部分があれば、時に反対意見を出し議論する。そうして妥協なく互いを客観視し、支え合い、ともに国を導いていく。その性質上、王に意見することが許される唯一の存在となります。ある意味で、王と対等な権力を持っている、と言えるかもしれません」
「……王と対等、っすか」
そう聞いて、流護の中で符合するものがあった。
(なるほどな……。連中のクソ偉そーな態度も、そういう地位にいるからって訳か)
ミディール学院へやってきた――踏み込んできた、とすら表現できるスヴォールン一行の横柄な立ち振る舞い。
「もちろん、本当に王と同じ権限があるわけではありません。『雪嵐白騎士隊《グラッシェラ・デュエラ》』の役割はあくまで補佐ですから、あの方々のみで何かを決定してしまうことはありません。強い影響力を持っていることは確かですが……、……リューゴさん?」
黙り込んだ流護の面持ちから察するものがあったのか。
「……リューゴさん、もしかして……『雪嵐白騎士隊《グラッシェラ・デュエラ》』と、何かあったんですか?」
「ん? ああいや、別にそういう訳じゃないっすよ……」
何かあったどころか、全て片付いた暁には隊長を再起不能にして帰ろうかと考えているほどだが、個人的な因縁や事情をヘフネルに零しても仕方がない。適当にお茶を濁すつもりだったものの、
「……その、『雪嵐白騎士隊《グラッシェラ・デュエラ》』の方々……特にスヴォールン様は、確かに厳かで気難しく、恐ろしい方ですが……決して、悪い方ではないんです」
「…………へ、え?」
思わず、ちょっとおかしな声が出てしまった。
「いえ、それどころか規律の塊のようなお人で。騎士の模範たるべき、素晴らしい人物だと思います」
規律? 模範? 素晴らしい?
ミディール学院に乗り込んできてレノーレの部屋を好き勝手に荒らし、あまつさえミアを手にかけようとした時点で、そんな評価はありえない。
声に出さないながらもそう断ずる流護が絶句する間にも、ヘフネルの言葉は続く。
「スヴォールン様は、とにかく自分にも他人にも厳しい方なんです。……そしてそれは、オームゾルフ祀神長に対しても同じでした」
オームゾルフはキュアレネー神教団から引き抜かれて指導者に据えられた身。当然ながら政《まつりごと》にも不慣れで、当初は失敗もあった。それに対しスヴォールンは完璧を求め、両者が衝突することもあったという。
今でも、古い制度やしきたりを改善しようと奮闘する『革新派』オームゾルフ、身の丈に合わない真似をするなと否定する『保守派』スヴォールン、で割れることがあるらしい。
「例えば……過去にない試みとして、オームゾルフ祀神長は意見陳情会を定期的に開催されています。これは民を王宮へ招き、直接顔を合わせたうえで話や要望などを聞くという場なのですが……スヴォールン様は当初から一貫して反対なさっています。王たる立場の人間が民と直接対話するなど、危険であると」
万一、民がオームゾルフに害をなすつもりで懐に凶器を忍ばせていたら。そういった類の懸念があるらしい。もちろん、警護や事前の荷物検査はしっかり行われているようだが。
元々王族でなく中流家庭出身のオームゾルフは、そのように民との距離感も比較的近い。一方で生粋の上流貴族であるスヴォールンたちは、彼女のそういった無防備さに眉をひそめている。そんな図式だ。
「いつもお二人の意見が分かれる訳ではないんです。双方で協力し、素晴らしい成果が出たこともたくさんあります。ただ、おそらく……スヴォールン様はオームゾルフ祀神長を為政者としてはまだまだ未熟だと考えていて、オームゾルフ祀神長はいつまで経っても自分を認めようとしないスヴォールン様にやきもきしている……そんな状況だと思います」
「…………」
そこで流護の脳裏に甦ったのは、先の会談でのオームゾルフの言葉だった。
『成さねばならぬことは山積みで……しかし、それらはどれ一つとして容易いものでなくて。王の代理に就任して以降、己の力不足を噛み締める毎日です』
『真言の聖女』が零した、弱々しい心の裡。
(なるほど、そういう人間関係も含まれてのあのセリフか……。そんで、)
厳しいことで知られるというスヴォールンだが、バダルノイスの現指導者に対してすらそうであったなら、彼にとって腹違いの妹となるレノーレに対してはどうだったのか。想像は容易い。
そこで完璧どころか罪人として追われる身に落ちたとなれば、自ら率先してグロースヴィッツ家の恥をそそごうと動くのも当然か。
「……事情は理解できました。詳しくお話しいただき、ありがとうございます」
ベルグレッテが丁寧に頭を下げると、
「いえ。……それで、あの……今度は、僕から質問してもよろしいですか」
ヘフネルがそんな風に問いかけた。
「? はい、なんでしょう」
「その……お二人は今、この宮殿内にいる誰かに狙われているかもしれないんですよね。こんな……ここにいて、大丈夫なんですか……?」
彼は声を潜めて、恐る恐る辺りを見回す。
ガランとした時間外れの食堂は見通しもよく、何者かが物陰からこちらを窺っていたとしてもおかしくはない雰囲気がある。
「そうですね……。私としては今のところ危険はないと考えていますが、確証もありません。たとえば、いつの間にかこのお茶に毒が盛られていたとしても不思議はないのかもしれませんね」
自らの両手で包むように持ったカップに……なみなみと残る紅茶に視線を落としながら、彼女はそんなことを呟く。
ちなみに、流護のカップはとっくの昔に空になっていた。
「ベ、ベル子さん? 俺、全部飲んじゃったんですけど」
「ふふ、冗談よ。以前話したとおり、バダルノイスで毒が用いられることはありえない。教義上、絶対にね」
その言葉を証明するように、ベルグレッテは全く無警戒に紅茶を口へ運ぶ。
「まっ、待ってください。狙われているのに、危険はない……? わ、訳がわかりませんよ。どういうことなんですか」
理解が追いつかないのだろう、ヘフネルは自分のことのようにうろたえていた。一方のベルグレッテは、まるでいつも通りに推論を展開する。
「仮にもし、この宮殿内で襲撃があったなら……その結果私たちがどうなろうと、ひとつの疑念が強まることになります。おそらくは、誰の目にも明らかに」
「ひとつの疑念が……強まる……? とは? どういうことです?」
「敵が宮殿内に潜んでいる『かもしれない』という、現時点ではあくまで推測にすぎない疑念。それが、ほぼ確信へと変わります。『かもしれない』ではなくなるのです」
多数の兵士や騎士、貴族たち、『雪嵐白騎士隊《グラッシェラ・デュエラ》』、そして女王たるオームゾルフが住まうこの氷輝宮殿《パレーシェルオン》。そんなバダルノイスの中心地とも呼べる場所へ賊が侵入し、女王の客人を襲う。
そのような事件が起きた場合、まず真っ先にぶち当たる疑問がある。
即ち、『敵はどうやって入ってきたのか』。
「……先ほどお話ししたレインディールの一件にて、まさにそのようなことがありました。『敵』は、兵士や騎士がひしめく王城内で、地下牢に囚われていた仲間の口封じを行ったのです。誰にも目撃されることなく」
そこは神詠術《オラクル》などという力が存在する世界である。そういった離れ業も、絶対に無理……ではないのかもしれない。
しかし、より現実的で簡単な答えがある。
先ほどそれを聞かされていたヘフネルが、苦く呟いた。
「騎士の一人が……内部の人間が、『敵』だった……」
ベルグレッテが無言で頷く。
第三者が警備の目を掻い潜って成功させたと考えるよりは、身内の誰かが犯人だったと仮定したほうがしっくりくる。
「……もっとも当時の私は、そんな状況を知ってなお、すぐに内部の人間の犯行だとは考えませんでした。……考えたくなかった、というのが正直なところでしょうか……」
おそらく、ベルグレッテだけではなかったろう。誰しも心情的に、内部の者を疑いはしないはずだ。
しかし今、このバダルノイスにおいてはどうか。
(あん時とは状況が違う。もう、国のトップのオームゾルフ祀神長が内通者の存在に気付いてる……)
加えて、当初からちらついていたオルケスターの影。実際に襲撃を受けたサベルたち。三勢力に分かれ、まとまりに欠けている兵士たちの現状。
想像できる材利は揃っている。今この宮殿内で『何か』があれば、即座に内部犯を疑う者が現れてもおかしくはない。
つまりここで迂闊に流護たちを襲えば、成功しても失敗してもオルケスターは不利になる。そしてこれまで実在すら怪しいほどに姿を見せなかった慎重な彼らが、そんな愚を犯すとは思えない。
そういった説明を受けたヘフネルは、呆けた顔で唾を飲み込んだ。
「な、なんという……、そこまで考えておられたんですね。し、しかしですよ! 宮殿内なら危険はない、としましても……外は!? 診療所のサベルさんたちはどうなんです? いや、あなた方だって、外に出たら……」
「もちろん、確実に安全だとは言いきれません」
「なら、どうしてそんな平然としていられるんです……!」
どこまでも落ち着き払ったベルグレッテに対し、ヘフネルのほうが憤死寸前だ。しかし彼は直後、呼吸が止まったように黙り込んだ。
「考えたのです。『もし、私がオルケスターの人間だったらどうするか』と。そのように敵の思惑を想像することで、見えてくるものがあります――」
顎先に指を添えて。薄氷色《アイスブルー》に染まった少女騎士の瞳は、何もかもを見通さんとするかのような鋭さを放っていた。まさに今しがたの仮定通り、本当に『敵』となってしまったかのように。
恐ろしいまでの集中と、研ぎ澄まされた思考。それが生み出す迫力の前に、ヘフネルだけでなく隣に座る流護も思わず息をのんでいた。
「たとえば、オルケスターはなぜ『昨日』襲撃を仕掛けてきたのでしょう? そこに理由があったと仮定して……では、その理由とは? 慎重極まりない彼らが、昨日ならば誰にも気取られず動けるだけの何かがあった? 昨日であれば、誰かを襲うのに都合のいい事情や環境があった?」
そこですぐに、あっと声を上げたのはヘフネルだ。
「まさか、聖礼式《パレッツァ》……!」
「ええ、おそらくは」
月に二度行われる、氷神キュアレネーに祈りを捧げるための儀式。それに参加すべく民の大多数が各々最寄りの教会へと赴くため、街は人の姿が消え閑散となる。もし自分が誰かを襲うべく機を窺っていたとするなら、この時を利用しない手はない。
「結果として、彼らはことを仕損じました。昨日の今日……ほとぼりも冷めておらず、目標も最大限に警戒していると予想できる現状……。聖礼式《パレッツァ》を隠れ蓑にするほど慎重なオルケスターが、すぐに追撃を仕掛けてくるかどうか……」
「な、なるほど……! ……いえ、しかし……でもですよ、サベルさんたちの意識が戻れば、きっと昨日の詳細も判明しますよね。もちろん、襲ってきた相手のことも。敵にしてみれば、それは避けたいのでは……?」
まさに『敵の視点に立った』意見を唱えるヘフネルに、ベルグレッテも頷く。
「ええ、私も最初はそう考えていました」
「最初は、ですか」
「ここで引っ掛かるのが、エドヴィンの一件なのです」
それは昨日、診療所でも話し合っていた内容だ。
『エドヴィンは一命をとりとめた。もちろん、私たちとっては喜ばしいことに違いないけれど……敵は、どうしてエドヴィンに止めを刺さなかったのかしら。大騒ぎになって撤退せざるを得なかったサベルさんの場合と違って、その猶予は充分にあったはず』
実は当初、エドヴィンはオルケスターとは全く無関係なトラブルに巻き込まれたのではないか、との見方もあった。あの『狂犬』の荒い気性を考えたなら、充分にありえる話ではある。
しかし先のオームゾルフとの会談で、エドヴィンと争っていた相手がハンドショットを所持していた可能性が濃厚……ほぼ確定的となっている。
「ヘフネルさんは、ハンドショットについてご存知ですか?」
「? ハンド? 何の話です?」
ベルグレッテが口にしたのは、先の会談でオームゾルフに投じたものと同じ問い。それに対し、やはり聖女と同じような答えを返すバダルノイス兵。これがこの国の認識。
「オルケスターが製造する、非常に強力な武器の名称です。今までの人と人の力関係を、容易に一変させてしまうほどの……」
その詳細を聞かされると、ヘフネルは信じられないといった面持ちで口を開けて硬直した。
「エドヴィンを襲った相手は、これを所持していたと考えられます。しかし……それほどの代物を持っていながら、敵はなぜエドヴィンを仕留められなかったのか?」
これについては昨日、ジュリーもいくつか仮説を挙げていた。
止《とど》めを刺すような時間的余裕がなかった、息の根を止めたつもりになっていた――など。
敵がハンドショットを持っていたと判明した今、これらの説はないだろうと流護は考える。
(例えばトドメ刺すだけなら、倒れた相手の頭に引き金を引くだけでいいんだ。仕損じるなんてまずありえねぇ)
となればここで、もう一説が浮上するのだ。
「敵は……意図的に、エドヴィンを見逃した可能性があります」
もちろん、ハンドショットは発砲音を伴う。聖礼式《パレッツァ》が中止となったため住民たちの帰りの時間が想定より早まり、彼らに気付かれることを警戒して止めを断念した可能性もあろう。
(そもそも、その聖礼式《パレッツァ》が切り上げになったのはメルティナの仕業だ。それが原因で殺り損ねたってなると、オルケスターとしても連係がメチャクチャって話になる。なら……)
これも計算ずく。敵は、あえてそうしたのだ。
「なっ……、いえ、しかしですね、何のために!?」
「それはまだ分かりません。神詠術爆弾《オラクルボム》のような罠も確認できませんでした。そういった可能性もある、という段階の話です」
例えば実は襲撃者がレノーレと親しく、学院生としてのよしみでエドヴィンに情けをかけたというセンもありうる。もっとも散々に弾痕を残している以上、まず考えられないところではあるが。
「敵がエドヴィンを見逃した理由は分かりません……が、その結果、誰にでも予想できる未来が訪れます。すなわち、」
――やがて意識を取り戻したエドヴィンが、当時の状況について証言する。
そうすれば、何があったのか、敵が何者だったのかが判明する。
「敵がそれを想定していないとは思えません。けれど、あえてそうしたなら……」
「……なぜだ……? 口封じなんて、悪党の常套手段だろうに……。……その襲撃者は……自分のことがバレても、構わないと思っている……?」
「ええ。おそらく実行犯は、少なくとも現時点では我々との面識がないのでしょう。それも含めて、回復したエドヴィンから得られる情報を重要視していない……のかもしれません」
であれば、少なくとも現状、すぐに再びエドヴィンが的にかけられる可能性は低い。一方で、サベルを狙った相手は彼を確実に仕留めようとした可能性が高い。しかしそれも結局、退却を優先している。
突然の襲撃、その裏に見え隠れするようで全く読めない敵の意図。
(サベルのことは殺そうとしたのに、エドヴィンを生かす理由も正直分からん。この推測そのものが間違ってるかもしれねえし……)
今はまだ掴めないことだらけ。だからここから、地道に調べ上げていく。
改めて流護がそんな決意を固めた直後だった。
「お、ヘフネル。こんなところで何してる、こんな時間に」
銀鎧に身を包んだ男たち数名が近くの通路を通りかかり、こちらに向かって声を投げかけた。
「あ……先輩。いえ、朝食がまだだったもので」
「はっはっ。今頃か? そうこうしてるうちに昼になるぞ……ん」
ヘフネルの先輩らしき大男が一人、こちらへと歩み寄り、
「そちらは? お客さんか?」
「あっ、はい。ええと、オームゾルフ祀神長がお呼びになった……」
「ああ、その人らが。話は聞いてる……いや、まだ随分とお若いんだな。昨日は何やら大変だったそうで」
神妙な顔で頷いてくる彼に対し、流護とベルグレッテも軽く会釈を返す。
「おう、それでヘフネルよ。その昨日の件で、俺らはこれから美術館の片付けの続きだ。お前も暇なら手伝え」
「えっ」
後輩の返事を待たず、大男はどかどかと大股で去っていく。
「おら、行くぞ!」
「ちょっ……、もう、相変わらず強引な人なんだから」
渋々といった様子で、ヘフネルが席を立った。
「すみませんお二人とも。美術館も放ってはおけませんし、僕も行ってきますね」
はい、と頷く流護たちに、若兵は「そうだ」と小さな声で囁いた。
「……もしかしたら、昨日の件について何か新しい事実が判明するかもしれませんし……怪しいことがないか、しっかりと目を光らせておきますから!」
やる気満々の彼へと、ベルグレッテが告げる。
「……ヘフネルさん。敵に動きを怪しまれれば、あなたの命が危険にさらされることになります。こうして私たちが一緒にいること自体、すでに敵によって監視・警戒されている可能性も否定できません。決して、ご無理や深入りはなさらぬよう……」
「だ、大丈夫ですって。僕だって正規兵の一人なんですから。……と、言い切りたいところですけど……僕は臆病者なので、無理をしろと言われてもできませんよ。はは」
そうして兵士たちのあとに慌てて続いていくヘフネルの背中を、ベルグレッテは心配そうに見送った。その薄氷色《アイスブルー》の瞳から放たれる視線が、彼と肩を並べる先輩兵士のほうへと移る。
「……みっつの派閥、ね」
「ベル子?」
「これは大きな情報よ。たとえば少なくとも今の会話で、あのヘフネルさんの先輩のかたが派閥の中では『中立』であろうことが推測できるわ」
「え? 今の会話……たったあれだけでか? 何でさ」
「あのかたが仰った、『そちらはお客さんか?』や『まだ随分とお若いんだな』といった言葉から、少なくとも私たちの容姿を知らなかったことが分かるわ」
「あー……なるほど。でも、何でそれが『中立』ってことになるんだ?」
「リューゴ、この宮殿にやってきた日の夜のことを覚えてる? 飲み水をもらうために、二人であちこち歩き回ったわよね」
「ああ。やっとこさ食堂に行って、いっぱい貰って台車で持って帰ったよな」
宿泊する部屋に酒しか置いてなかったため、二人で水を求めて宮殿内を随分と徘徊したのだ。
「その過程で、兵士のかたに道を尋ねたりしたわよね」
「ああ……」
途中でバッタリと出くわして煽り合ったスヴォールンは置いておくとして、巡回中の兵士に食堂までの道を訊き、また帰りも食堂で休憩中の兵士に部屋までの順路を教えてもらった。
「あのとき道を尋ねた兵士のかたがたが、それぞれ私たちのことを『知らない人』と『知っている人』だったのよね」
「ん……おー、言われてみりゃそんな感じだったか?」
道に迷っている最中に出会った最初の兵士は、
『君たちは何者だ? 誰かの客人か?』
オームゾルフに招かれた自分たちのことなど知っているだろうと思い込んでいたため、流護としては返答に詰まったことを覚えている。
そして帰りの食堂の兵士は、
『ええ、存じております。オームゾルフ祀神長のお客人の方々ですね』
こちらでは先の例を踏まえて名乗ろうとしたところ相手が知っていたので、またこれで困惑したのだ。
「おそらく……この情報の差が、そのまま所属する派閥に繋がっているんだと思うの」
ヘフネルによれば兵士間の情報共有などがあまり機能しておらず、風通しが悪いという昨今。
「さっき、ヘフネルさんも仰っていたわ。『僕の仲間内には、皆さんがオームゾルフ祀神長に招かれてやってきたことを知らない人も多いみたいで』ってね」
「……そういや『僕の仲間内には』、つったか。そのヘフネルさん自身は、『中立』になるんだもんな」
つまり流護たちを知っているのはオームゾルフ派、知らないのは情報をあまり共有されていないそれ以外の派閥。
「白士隊は人数が少ないという話だし、ヘフネルさんの話しぶりを考えると普段から交流がない……どころか、少し距離がある印象を受けたわ。一方、あの先輩のかたとは遠慮のない間柄のようだったし……」
「ふむ……だからさっきの人は消去法で『中立』、ってことか」
「ん。でもこれで、昨日の兵舎の件も納得がいったかも」
「昨日の兵舎……って? 飯食った後にベル子が一人で行ったやつか? 何かあったのか?」
「あ、うん。最初に、水をもらいに食堂に行ったときと同じような反応をされたの。ベンディスム将軍たちと作戦をともにしたばかりだったけど、兵舎のかたがたは私たちのことを知らされてなかったみたいで」
「えぇ……。風通し悪いって、そこまでなのかよ……」
もはや情報共有云々の話ではなく、職務怠慢のレベルに突入している気がする。
『ひとえに、私の力不足によるものです。私に、皆を率いるための断固たる力があれば……』
疲れ切っていた聖女の顔が思い起こされる。
(……断固たる力、か。オームゾルフ祀神長、優しそうで美人なお姉さんって感じだけど、逆にいえば強引さが足りんのかな……)
その後にアルディア王の話題が出た折の、遠いものを眺めるような表情……。羨むような、届かぬものに焦がれるような……。
「とにかく、この知識が解決の一助になればいいけど……」
言葉ではそう言いながらも、少女騎士は小さく憂鬱そうな溜息をつく。空になったカップに視線を落としながら。
「……ベル子? どうかしたか」
「うん……私、すごく嫌なことをしてる、って思って」
「嫌なこと?」
「バダルノイスの人たちを片っ端から疑って……この人は敵かもしれない、この人は違うかもしれない、なんて決めつけて。生意気にも、人を選別するような真似をして」
ここまで冷静に推理を進めてきたように見えた少女騎士だったが、やはりベルグレッテはベルグレッテ。根が底なしに優しいのだ、と流護は思う。
「なにさまなのかしらね、私」
「ベル子……」
親友が疑われ、明るい先が見えないこの状況。時折こうして、弱みが姿をちらつかせるのも仕方ないことか。
「……でもよ、これは俺らにしか……特にベル子にしかできないことだ」
「え……」
「やっぱバダルノイスの人に身内を疑え、ってのは酷な話だろうしさ。これはある意味、客観的に見れる余所者の俺らじゃなきゃ……もっと言や、頭のいいベル子にしかできない仕事だよ。贔屓目とかなしに全部を平等に見て、怪しい奴を見つけ出す」
そうしなければ、全てがオルケスターの思惑通りになってしまう。
「頭脳労働じゃ足手まといかもしんねーけど、俺も協力するし……ジュリーさんもいる。大変かもだけど、気張っていこうぜ」
「……ん、ありがとリューゴ。……そうね、弱音なんて吐いていられないわよね。がんばらなきゃ……」
「おう」
気を取り直したように微笑んだ少女騎士は、歩調を緩めぬまま自らの顎先へと指を添える。
おなじみ、物事を考え込むときの仕草だ。
(にしてもベル子の奴……どんだけ鋭いんだよ)
派閥の話を聞くや否や、ちょっとした会話から赤の他人が属するそれを推測してみせた。
(なんつーか、仕上がってんなぁ)
出会った当初から理知的で頭の切れる少女騎士ではあったが、ここのところより磨きがかかっているように感じられる。
しかしそれもきっと、過去の経験あってのことだろう。ベルグレッテとて、最初から常に完璧だった訳ではない。
ヘフネルに語ったように、デトレフの件では旧知の間柄かつ『銀黎部隊《シルヴァリオス》』となるあの男を疑い切れなかった。
ミアの一件では、このグリムクロウズに暮らす人間の……貴族としての常識にとらわれていたゆえに、買ってでも助けるという発想が浮かばなかった。
王都テロでは、実際はすでに死亡していたオプトの影に振り回され、終始空回りしてしまったと悔しさを滲ませている。
しかしそうした苦い思いや経験が、ベルグレッテを成長させた。
思い込みや常識、土地柄の決まりごとや、さらには宗教上の理由。そのようなこの世界に根差すもの――誰もが最初から信じ切って疑わない『前提』に惑わされず、全てを俯瞰的に見通す視点を持てるようになってきている。
もしかすれば、地球という世界……日本という国へ迷い込んだ経験も、彼女に大きな影響を与えているのかもしれない。
見たことも聞いたこともない未知の文化に触れ、理解や見識が広まった。神への絶対的信仰が常識とされる世界――グリムクロウズで生きているだけでは得られないものを得た。
元より優れていた彼女の頭脳を思えば、今や軛《くびき》から解き放たれたと表現しても大げさではないかもしれない。
「いやー、頼りにしてるぜ。ベル子先生」
「……うん? なにか言った?」
「ああいや、ベル子さんまじすげーって話」
「もうっ、なによそれっ」
よく分からない流護の賛辞に照れつつも、すっと深く息を吸い込んで自らを落ち着かせたベルグレッテは、思考の渦に深く沈んでいく。
全てを分け隔てなく鳥瞰で見通し、真実を射抜くために。
(もっと冷静になって……もっと考えて)
北国特有の冷たい空気も影響してか、頭の中が少しずつ澄み渡っていく。思考が冴え渡っていく。
(……もっと、もっと……誰かの言葉におかしなところはなかった? 誰かの行動に変なところはなかったかしら……?)
全てを解き明かすために、自らの記憶を掘り起こしていく……。
(――――)
記憶の奥底。その領域に広がる黒い霧が、思考を分割させる。
……その人物が、そこにいる。
いつだって、そこにいた。
ねえ、『あなた』はどう思う? 少しずつ情報は集まってきてるけど。
んー……派閥が鍵になってるのは間違いなさそう。なんか思い出しときたいことある?
そうね……先日のユーバスルラの一件で、少し引っ掛かってることがあって。
おけ。探しとく。まあとにかく、早く片付けて帰ろ。
いい加減なんだから。……でも、そうね。
分割していながら、その結論は一致する。
そう。
早く解決して。こんなことは終わらせて。
帰らなければ。
あの
矛盾を、
見 る
殺
隣で前を向いて一緒に歩く有海流護も、そしてベルグレッテ自身も気付いていなかった。
沈思する少女騎士。薄氷色《アイスブルー》をした美しいその瞳に、汚濁するような黒色が交じっていることに。